arzu
セリウスがあの王子と離脱した後も、枢機卿は平然としていた。
それに今朝のこともある。
教会側が使節団に同行したのはセリウスを監視する為だ。なのに、フェリットは気付いていながら牽制はおろか口にも出さない。
(なぜ……)
時間を持て余したルチアは寝台の上で、しばらくフェリットの行動の意図をぼんやりと想像していたが、自分のような者には到底及ばないような意図があるのだろうと、途中で考えるのをやめた。
だが、正体の分からない苛立ちは未だ胸の中で暴れたままだ。
ルチアはそれを振り切る様にして身を起こすと、部屋を出る事にした。宿坊の周りを少し散歩でもすれば、きっと気分も良くなる。
「——では、セリウスの荷物はこれで全部ですね」
扉を開け掛けたところで飛び込んできた名前に、ルチアは咄嗟に息を潜めた。
「ええ、この炎天下ですから。では後ほど」
「承知しました」
一人分の足音が遠のいてゆき、残った人物がゆっくりと振り返る。
「……猊下、今のは」
フェリットは別段驚いた様子も見せず、
「ああ、セリウスの荷物を取りに来たんだよ」
と言った。
いつもと変わらない、穏やかな眼差しだ。
ルチアの胸の奥の苛立ちはなぜか一層激しくなる。
「退屈そうだね、ルチア」
幸い今は、口煩い堂役達も自室に篭っている。
「……お聞きしたいことがあります」
声が、少し硬かった。
前置きなく口にした言葉に、フェリットはやはり顔色ひとつ変えない。口元に笑みを浮かべたまま、続きを促すように小さく頷いた。
「……セリウスは、回復しています」
「そうか」
「守り人との接触があった、ということです」
言い切った。
逃げ道を残さない言い方で。
「それで?」
ほんの少し、呆れの滲む声。
それでも鼻で笑ったり話を切り上げたりはせず、彼は代わりに手近なベンチへと腰掛けた。
「……教義上、許されることではありません」
一拍、息を吸う。
「見逃しておられるのでは、ありませんか」
空気が、わずかに張り詰めた気がした。
だがフェリットは眉一つ動かさず、ただ静かに問い返す。
「見逃していると思う理由は何だ?ルチア」
敢えて名を呼ばれ、ルチアの心臓が跳ねた。
フェリットは歩を止めることはせず、ただ視線だけはルチアに向けていた。
「私に、彼らを咎めてほしいのか?」
「それは……」
思いがけない問いにルチアは口籠る。
「それとも——お前自身の“見逃している”という罪を、認めたくないだけではないのか」
胸の奥が、ぎくりと鳴った。否定しようとして、言葉が出ない。
「……っ」
セリウスの回復に安堵していなかったか。
彼と王弟との関係に目を瞑っていなかったか。
その癖、正しく裁かれるべきだと——。
「……畏れながら」
声が、わずかに揺れた。
「猊下には、正しくあってほしいんです」
それは、告発ではなく、ほとんど、願いだった。
フェリットは一瞬だけ目を伏せ、そして静かに笑った。
「そうか」
それは感心、ではない。
ルチアの浅はかな期待を一蹴する感嘆だった。
「では訊くが——正しさとは、何だ」
再び、ルチアを見る。
「教義は——迷える者の道標ではあるが、盲目的に信じれば良いというものではない」
「……どういうことですか」
「ルチア、思考停止してはいけない。考え続けなさい——お前の正しさを」
教義以外の正しさなど、知らないはずだった。
だったらなぜ、私は黙っていたのか。
いつの間にか、あの白い悪魔に譲歩したりして。
(この人は、それすら見逃してくれていたっていうのか?)
厳格で、揺るがず、裁く側でいて欲しいのに。
こんなふうに人の弱さを見透しておいて、とどめを刺してはくれない。
ルチアは立ち尽くしたまま、唇を噛み締めた。
「さあ、そろそろ宮殿へ行く準備をしなくては」
よいしょ、と小さな掛け声と共にフェリットが立ち上がる。
「支度に手が要るだろう。女中を呼びなさい」
「あ……」
「何だい」
「——夜会用の服なんて、持ってきていません」
*
「セリウス……倒れてないだろうな?」
なかなか出てこないせいで心配させたのか、カーテン越しに声が掛かった。
髪から垂れる水気を拭う腕の内側に、日焼けとは明らかに違う赤みが点々と残っているのに気付き、セリウスはつい目を背けた。
「……大丈夫です」
あのままでは、身体中隈なく接吻されるところだった。先ほどまでの出来事を思い出し、そのまま湯船に沈み込む。
加護を還すと言った手前、それとも負担をかけまいとした所為か、アルヴェルは焦ったい程丁寧にセリウスに触れ、あちこちに唇を落とした。
(あれじゃ生殺しもいいところだ……)
久しぶりに肌に触れる唇の温度が甘く——耐え難くなって湯殿に駆け込んだのだった。
けれど。
その実、ずっと触れていたかった。
この思いは、守り人との関係による幻想なんかじゃ、きっとない。
相変わらず感じる形容し難い後ろめたさも、歯痒さも、罪深く浅ましい感情も——。
何もかも全部自分のものだった。
一方で、思った。
であれば自分の本体は、やはり悪魔なのだと。
身体は単純で、触れ合えば確かに楽になる。
だが果たして、アルヴェルを利用してまでこの泉を維持する必要が——否、その資格が自分にあるとは思えなかった。
終わりは、きっとそう遠くはない。
だが、今更何を恐れることがある。むしろずっと望んでいたことではなかったか。自身の本質から目を逸らすために、都合よくベアラーとしての自分にしがみついていただけに過ぎなかったのだから。
全ての加護が還れば、漸く守り人という呪縛からアルヴェルを解放させてやれるではないか。
——なのに、躊躇ってしまうのはどうしてなのだろう。
*
手拭いを頭から被ったまま、おずおずとセリウスが湯殿から出てくる。
きっと、どんな顔をしていいか分からず、しばらく出られずにいたのだろう。そう思い、当たり障りのない言葉だけを投げた。
「荷物ならそこの長椅子に置いてある」
「ありがとうございます……」
俯いたまま、セリウスが長椅子へ向かった。
まだ顔が赤い。日焼けの所為だけでも長湯の所為だけでもなさそうだ。
「さて。支度ついでに俺も汗を流してくるかな」
ここで謝罪をすれば余計に距離ができるだろう。だからアルヴェルは敢えて何もなかったかのように振舞う。
先ほどは少々やり過ぎた。本気でその身を案じ、加護を還すつもりでいたのに、久しぶりに身を委ねてくれたのが嬉しくて、つい手が出た。
その所為でセリウスが湯殿へ逃げ込んでしまったのだから、不徳の極みと言うより他ない。
せっかく向こうから歩み寄って来たというのにまた振り出しではないか。
それなのに。
「あっ……、湯がまだ変わって——」
立ち去ろうとするアルヴェルの袖を、セリウスが咄嗟に引く。
漸く、まともに目が合った。
——ああ、狡い。
自分が先に袖を引いたくせに、驚いた顔をするのだから。
これだから困る。
アルヴェルは小さく笑い、その白い手に自らの手を重ねた。
「湯が溜まるまで、まだ少しかかるか」
「……はい」
「それなら——」
重ねた手に、ほんの少しだけ力を込める。
「今度こそ、真面目に『看病』の続きをしようか?」
セリウスの瞳は、ここにいて欲しいと訴えているようにも思えた。だが、それでもアルヴェルは冗談めかした言い方しかできない。
これなら、セリウスが頷くだけでいい。
彼が求めたことにはならない。
あくまで必要があって触れるのだ。
今度こそ余計な事をせず、ただ手を握ってさえいればいい。
心の中で、そう言い訳をした。
「さっきのが駄目という訳では——」
「………?」
一瞬、何を言われたのか分からず反応が遅れる。
口にしたセリウスでさえ、言葉にしてから自分の意図に気付いた様だった。
目の前で、彼の耳が見る見るうちに赤くなった。
「……ええと。ですから今のは、その……」
言い訳を探すように視線が彷徨う。
「……ああ」
思わず、苦笑が漏れた。
まさか、そういうことを言われるとは夢にも思わなかったから。
「足りなかったかな」
「ち、違います」
「……なんだ。まあ、そりゃそうか」
「ああ!違うんです。……違い、ませんけど……」
わざとらしくしょげると、セリウスの声はどんどん小さくなり、顔も完全に下を向いてしまった。
けれど、袖を掴んだ手だけは僅かに強くなる。
——参ったな。
さっきまで、あんなに必死に逃げていたくせに。
あれが嫌だったわけではないらしい。
「……セリィ」
「……」
「お前、それ……俺にどうしろって言ってるか分かってるのか?」
「……分かりません。もう、行ってください」
アルヴェルは笑いそうになるのを堪えた。
いつもそうだ。何も言わない。触れていたいとも、もう少しこうしていて欲しいとも。
こちらから手を伸ばせば受け入れる。少し寂しいが、それでもセリウスは全部顔に出るから、都合のいい言い訳を用意するくらい何ともなかった。
けれどまさか、用意した言い訳を押しやって、自ら「それだけではない」と言うだなんて。
嬉しい。どうしようもなく。
だが、本当に困った。
「……仕方ない。じゃ、また後で」
こそりと耳打ちすると、僅かにセリウスの指が強張った。
「夜会をすっぽかして、ノエルドに叱られたくはないし」
「っ……だから別に、そんなつもりで——」
「俺はそのつもりだった」
そう言って、アルヴェルは掴まれた袖ごと、その手を軽く包んだ。
「だから、その為にも、ちゃんと食べて体力をつけてもらわねば困る」
「……」
返事はない。けれどその顔は雄弁だ。
アルヴェルは今度こそ声に出して笑った。
頭から湯を被っても、邪な考えが頭を擡げるのだから嫌になってしまう。
つい数分前まで、セリウスもここでうずくまってあれこれ思案していたかと思うと愛おしくもあり、悩ましくもあった。
あの頭の中で、一体どんな考えを巡らせているのだろう。そんな事をいつも思う。
従順そうな顔をして、肝心なときに限って彼の心はいつもアルヴェルの両腕から器用にすり抜けた。
若い頃はそれが悔しくて寂しくて、縛り付けたこともあった。自分が守らなければ簡単に手折られてしまう存在を何としても守りたい一心で、逆に彼を追い詰めた。
セリウスは、恐らく誰よりも真人間であろうと必死だった。
自分の本性を悪魔だと信じて疑わないからだ。
——均衡を破ったのは自分の方だった。
独占欲と依存心がごちゃ混ぜになった関係に、セリウスはずっと気付かないふりをしてくれていたのに。
自分がもっと思慮深く、賢明な人間であれば、あるいはセリウスがもっとずっと単純な人間であれば、その歪な関係のまま——それでも互いの体裁を守れたかも知れなかった。
けれど、セリウスはどうあれ、自分は少しも後悔をしていない。
それに、今となってはむしろ良かったと言える。
このまま道が分たれていたら、セリウスは今頃、たった一人で泉の枯渇に耐えていたのだろうから。
「セリウス……?」
湯浴みを済ませカーテンを開けると、そこに彼の姿はなく、アルヴェルの声は思いの外余裕のないものになった。
荷物はある。出て行った訳ではないらしい。
すぐに続き間を出て応接室へ、それから更に奥の書斎を覗くと、やっと彼の背中を見つけ、アルヴェルはほっと胸を撫で下ろす。
「殿下、これは……」
山積みになった資料のひとつを手に取ったまま、セリウスは振り向いた。
「……ああ」
曖昧な返事になったのは、その濃紺の衣装に見覚えがあったからだ。
セリウスからエミリアを引き受けたあの夜会も、同じ衣を纏っていた。瞳の色をもっと深めた、セリウスの水底を思わせる様な静かで神秘的な色だ。
「殿下……?」
「ああ、すまない……つい見惚れてしまって」
殆ど無意識にそう言った事に気付き、アルヴェルは咳払いをひとつした。
「いや、何でもない。そんなことより」
そう言ってアルヴェルはガシガシと頭を拭き、自身も衣服に袖を通した。
「何か面白い事でも書いてあったか、それ」
「まだ開いただけですが……」
コンコン。
突然のノック音に、セリウスの言葉が尻切れになる。
「入れ」
アルヴェルは扉の方へ顔を向け、来訪者が入ってくると「こっちだ」と更に声を掛けた。
「失礼します。殿下、セリウスはやはり夜会には……」
喋りながら入室したノエルドはセリウスの姿を捉えると一瞬停止し「その衣装……」とぼそりと呟いた。
「あ……やっぱり駄目ですよね、この服」
セリウスは再び昔を思い返してバツの悪い顔をしたが、それもすぐさまノエルドの言葉によって遮断されることとなった。
「殿下……!お伝えしておいたじゃないですか。そこに掛けておくから、夜会に出られそうなら伝えてくださいって」
「あ……そうだった」
ノエルドはすぐに応接間へ戻り衣装を手にして戻ってくる。
「用意して来ないかも知れないからって、殿下が仕立てさせたんだ。今着ているものも立派だが、その生地では、また逆上せてしまいそうだ。嫌でなければ着てやってくれ」
「……そう、でしたか」
耳打ちするノエルドに、セリウスは小さく笑った。
「セリウス。辛いなら無理せずとも構わない。枢機卿にも伝えておいたから」
ノエルドはそう言葉を添えて笑った後、すぐに表情を戻し、身体ごとアルヴェルに向けた。
「殿下、仲直りも無事出来て喜ばしいですが、さっさと支度してくださいね。夜会までもう一時間もありませんよ」
冷ややかに告げ「続きは終わってからにしてください」と釘を刺す。
「もしや聞いていたのか?」
「……何ですか?余計な仕事が増えて忙しいんですよ、こっちは。分かりましたね?お願いしますよ」
有無を言わさず捲し立て、足早に去ってゆく。
バタン。沈黙。
「まだ怒ってるな、あれは」
「ああ、もう……」
隣でセリウスは羞恥心で消えそうになっていた。




