Güneş
冬から春へ移ろうこの時期、トルキアの空気はひどく乾燥していた。
日差しも冬を押し退けるように強く、ヴァルセニアとは大きく異なった。
セリウスはヴェールを持ってこなかったことを後悔しつつ、代わりに外套の襟を立てて顔を隠した。
太陽が近い。
眩しさというより、もはや圧だ。
肌に当たる光が、こちらの存在を確かめるように強い。
いつもなら気に留めない程度の光が、今日はやけに気になった。
「悪魔には、この日差し、きついだろう」
頭の中で、もう一人の自分がそう話しかけてくる。こんな言い方しかできないのは、自分の性格が捻じ曲がっている所為だろう。
結局あの後、若い商人達も現地を見て廻りたいと声が上がって大所帯となった。
なんだかんだと人と話すのが好きなタリクは、自ら案内役をし、少し前で何かを説明している。
「殿下!うちをもっと宣伝しておくれよ」
「今日はお忍びの格好じゃないんだね、殿下!」
普段から市井に繰り出しているのか、彼は往来で頻繁に市民から声を掛けられ、都度、朗らかに応じていた。
「これじゃちっとも君と話せない」
タリクが不意に振り返り、口を尖らせる。
「私は楽しいですよ。殿下らしくて」
「でも、僕は君と歩きに来たのに」
「では。何を話しましょう、殿下」
相槌を打ちながら、やはりチリチリと痛み始めた頬にそっと手をやった。
ひときわ賑わいを見せる目抜通りには、トルキアの伝統工芸品の店が軒を連ねていた。
その一角に差し掛かったとき、思わず声がもれる。
「これは……すごい」
店先から天井にかけて、色とりどりの硝子のランプが所狭しと吊られている。
両手で包めるほどのものから、抱え込むような大きさのものまで。
光を受けて、壁や石畳に淡い色が揺れていた。
「でしょう?」
店主が話しかけて来ると、セリウスは咄嗟に顔を伏せた。
「同じものは、ひとつもないのですよ。どうぞ、手に取ってみてくださいね」
店主は声の調子を変えることなくそう続けた。
フードからはみ出た白銀の髪にも、白すぎる肌にも気付いていたはずだが、気にも留めない。
ちらと顔を上げれば、店主はもう既に他の客を相手にしており、こちらを気にする様子もなかった。
「言ったでしょ。トルキアでは、君の色を気にしないって」
「……そう、でしたね」
セリウスは陽光から逃れるように庇の内側に入り、軒下を仰ぎ見た。白い石畳が太陽の光を反射させ、吊り下がったランプは、火を灯していなくとも淡く輝いている。
微妙に歪んだ硝子。
不揃いな色。
完璧とは言えない形。
けれど、光を通せば、またとない色をなす。
……同じものは、ひとつとして。
「殿下は……なぜ私をご指名下さったのですか」
ランプを仰ぎ見ながら、そういえばと問いかける。だがタリクは揶揄うように「何のこと?」と聞き返してきた。
「陛下からそう伺ったのですが……違うのですか」
「いいや、違わないよ。嫌だった?」
「それは……」
残酷なことを訊く。初めから断る選択肢なんてなかったのに。
そんなセリウスの胸中を察してか、タリクは「ごめん」と笑う。
「でも……君にトルキアの景色を見せたかったんだ。興味があるって言ってただろう?」
アーサーとトルキア側の利害が一致しただけの事を、そんなふうに素敵な理由に変えてしまうのか。
「……相変わらず、お優しいのですね」
セリウスもつられて笑った。
*
あの人は今頃どうしているのだろう。
いくつもの通りを歩き、目に楽しい店々やタリクの話に退屈したわけではなかったが、アルヴェルのことが頭から離れなかった。
きっと忙しい人だから、予定にない会談や接待で息つく暇もないだろう。
王族なのだ。近づきたい者は、国外にこそ多いはず。友好国交流とは、当然そういうことも織り込み済みであろう。
あの人は、ここであの人のすべき事をしている。
ならば自分は、ここで何をすべきだろう。
ただ命じられたからと、ここに来て——それで良いのだろうか。
「ここにもランプが並んでますね」
「気に入ったみたいだね」
「ええ。ヴァルセニアにも色ガラスを使ったランプはありますが、こんな風にたくさんの色を合わせることはないので」
セリウスは、ひとつの小さなランプに手を伸ばす。
外の光に透かすと、あの納戸の太陽とよく似た色に輝いていた。
その色が——セリウスの顔に淡く落ちる。
「……タリク殿下」
「うん?」
「すみませんが戻ってもよろしいでしょうか」
唐突な問いにタリクはセリウスの顔をまじまじと見ながら
「……どこか具合が悪い?」
「いえ、そうではなく」
「でも暑そうだよ。顔も赤いし。外套を脱いだら?大丈夫だよ。皆気にしない」
「いえ、そうではありません」
セリウスがキッパリと言い首を振ると、タリクは漸く口を挟むのをやめた。
「忘れ物をしてしまって。どうしても気になってしまって……このままでは殿下の大切な時間を無駄にしてしまいそうなので。勝手を申してすみません」
「………うん、いいよ。じゃあ戻ろうか」
「いえ、殿下。きっと一緒にいた皆さんも殿下と話し足りないでしょう。私は一人で戻ります」
数件先に使節団の数人が見える。
自分がどれだけ不敬な振る舞いをしているのかは分かっていた。だから、タリクに対するこれは甘えだ。彼が自分に向ける好意を利用してでも、行かねばならなかった。
「そう」
タリクは意外にもあっさりと言って「じゃあ、また夜にね」と手を軽く上げて見せた。
「……はい。ありがとうございます」
セリウスの足は緩やかな坂を、上がってゆく。
少し急くように。
息は簡単に上がり、肌を刺す陽射しも容赦なく体力を奪った。
昨夜の俄かな接触では身体が癒えていなかったのか、それとも異国の環境の所為なのか、身体は刻々と重みを増していく。
それでも、昨日伝えたかったことは半分も伝えられていないから。
(せめて……謝らなければ)
今でも分からない。
ありのまま、相談すれば良かったのか。
もう力が尽きそうです、と。
死ぬかも知れないし、死ななくても、きっと迷惑をかけそうです、と確証のないまま伝えても良かったのだろうか。
これ以上振り回したくもなければ、見限られてしまうのも怖かった。
歪んだ心は、愛する覚悟なんかよりも己が傷つくことを恐れた挙句、失敗したのだ。
**
宮殿の奥、普段人の出入りのない資料庫からは、紙をめくる音が絶えず聞こえていた。
「いい加減、やりづらいんですが」
背を向けたままの声音は、珍しく遠慮がない。
写本の一つを読み終えたアルヴェルが、わずかに顔を上げる。
「何の話だ」
「何の話って……空気が重いんです。今日のところは資料の選別だけにして、我々も外へ出ませんか」
くるりと振り返り、普段あまり多くを喋らないノエルドには珍しく、砕けた調子で続けた。
「そんな調子で続けても、気が気じゃないでしょう。とっとと仲直りしてもらえます?せっかくの国外なのに、全く楽しめません」
「しかし……案外簡単に許可が下りたな。教会だとこうはいかなかっただろう。ありがたい」
話を逸らしたな。とノエルドは心の中で舌打ちをした。
アルヴェルの手はもう次の資料に伸びている。
「まあ……宗教にまつわるもの、というよりは風土史や民族史に近いものが殆どですからね。ですが、ざっと見た限りでも……ベアラーの記述がこれだけ残されているというのは、トルキアではそれだけ受け入れられているのですね」
「……今は、だろうがな」
資料庫にあるものの多くは、写本だ。
オリジナルは全て、洞窟の壁や石や木版に書かれたもので、それらの意味するものを再構築、再解釈し製本されている。
話に聞いたように、ベアラーはヴァルセニアでの彼らが辿った境遇と殆ど違わず、この地でも搾取し尽くされた。
それは神の遣いだからで、神の造りし大地や生命を守り育む使命を持って生まれた存在だからだ。
それ以前に、人であるのに。
「多くは後に西へと移動して、ヴァルセニアに移り住んだ。殿下が知りたいのは、この地に残ったベアラーはどうなったのか、ということですよね。そう古い資料ではなさそうですけど」
「……ああ。扱いが分かれば、セリウスも……いずれ同じ様な経過を辿る者も、苦労させずに済むだろ」
——コンコン。
「はい。何か」
良い加減終わらせろという催促だろうか。ノエルドが扉を開け、向こう側にいる従者と何やら話しているのを、アルヴェルは視界の端で確認しつつも、頁をめくる手を止めなかった。
「——で、如何しましょう」
「すぐ向かいます。殿下」
振り向いたノエルドの表情が固い。
「場所は?」
*
「タリク殿下」
廊下の向こうから少し足早に二人の影が近付いてきていた。
「申し訳ない、お手を煩わせて。本来なら私が気付くべきだった。使節団長を拝命されていながら、恥ずかしい限りです」
そう言って、あまりにも自然にアルヴェルは笑っている。
完璧な王弟の顔だ。恋人の不調に取り乱す様子はない。
タリクは一瞬だけ目を細めたが、すぐに笑みを浮かべた。
「いえいえ、とんでもない。用事があるから戻るというので、僕らもそろそろ帰ろうかとすぐそこまで来たところで、壁に凭れていたのをお声がけしたのです」
「すみません。少し休んでいたつもりが……また殿下に助けられてしまいましたね」
バツが悪そうにセリウスは苦笑し、だが結局俯いた。
「セリウス、だから外套を脱いだ方が良いと言ったのに」
「……ですね、すみません」
セリウスのことだ。日差しで肌が灼けることを、言えなかったのだろう。
「歩けるか」
「大丈……はい」
すぐに後ろに控えていたノエルドがセリウスの脇を支えた。
アルヴェルは触れない。
周りの目がどうというよりは——踏み込まないためだった。
触れていなくてもセリウスの泉の引力が感じられ、それが悔しくて、切なかった。
アルヴェルたち王賓用の部屋には幾つかの続き間が設えられており、セリウスはその一室へと案内された。
「荷物は後で私が持ってこよう。少し休んでいなさい」
窘めるようにノエルドは言うが「いえ、自分の宿坊にもどります」とセリウスは食い下がる。
「セリウス。大丈夫だ、平気だなどと言うのは今はよしなさい。無理ならこうなる前に言え。そのくらい子どもだってできる」
「……は、い……」
驚いたセリウスが返事をし終わるより先に、ノエルドは少し離れた場所に立っていたアルヴェルを押し込むようにして部屋へ入れ、扉を閉めかけて
「殿下はセリウスの看病。良いですね」
そう付け足し、ノエルドはふん、と鼻を鳴らした。
今度こそ、ばたん、と扉が閉まる。
廊下の向こうから、小さく「……もう」という不満げな声が聞こえ、そのうちに足音が遠ざかっていった。
「……びっくりした」
あまりの迫力に中られて、セリウスはつい言葉を漏らした。
「ふっ……くくく」
くすぐる様な笑い声にアルヴェルを見ると、彼は額を押さえ、珍しく無防備に肩を震わせていた。
「あ、の……」
何から話せば良いのか、わからない。
ただ、傷つけてしまった事は謝罪せねばと思った。そんなつもりはなかった、と。あなたの気持ちを見ようともしていなかった、と。
それなのに、また上手くいかない。
愚鈍で、みっともなくて、情けない。
セリウスがまごついていると、視界の端にアルヴェルの手が伸びて来た。
思わず半歩下がってしまい、その瞬間——アルヴェルの指先がピクリと震えるのが見えてしまう。
「これは、違……!」
アルヴェルの下がりかけた手を咄嗟に掴む。
身体は貪欲にアルヴェルの中の加護を欲しがっていた。
「違う、違うんです……」
そんなつもりで掴んだのではない。こんな煩わしい力のためにあなたを利用したくはない。
だけど、拒絶したとも思われたくはない。
自分でも矛盾していると分かっている。
「落ち着いて」
気付けば、至近距離に茜色の瞳があった。責めても、問い詰めてもいない。ただ静かに、揺れている。
もはや言わなくとも——セリウスの恐怖も、不安も、既にアルヴェルは気付いている。
それでも——。
「私は殿下に返すものが何もないんです」
あれだけ憧れていたアルヴェルの真っ直ぐさが、今は怖い。
全部を差し出してしまえる、その思い切りの良さが怖い。そんな人に、同じだけを返せない自分と向き合うのが、もっと怖い。
「あなたに見合うだけの何ひとつ。なのに、これからも私はあなたをこうして利用しなければ生きていけない。そんなのは……」
クスッと、アルヴェルは笑った。
「違うだろう、セリウス。それを言うなら今俺がしていることが返すってことだ」
絡めた指に、わずかに力がこもり、茜の視線がまっすぐ落ちてくる。
「……お前は俺を生き返らせたんだぞ。俺がいくら返したって返したりないくらいのことを最初したのはお前じゃないか」
「でも……」
後に続く言葉をアルヴェルは首を横に振って遮ると、そのまま手を引いて腕の中に招き入れた。
「今は受け取ってくれるだけでいい。お前がそうするだけで俺がどれだけ幸せか、知らないだろう?」
アルヴェルの表情は見えない。だがきっと彼にとっても本心をこれだけ明かすのは、おそらく勇気のいることだったに違いなかった。ゆっくりと言葉を選ぶような話し方が、セリウスの心に染み渡る。
「……知りません。そんな恐ろしいこと」
冗談混じりに言ったつもりで、自分の言葉に「愛されている」のだと思い知らされる。
語尾が微かに震え、喉の奥が詰まった。
「俺はそうしたいからやっている。お前の為じゃない。俺の選択の先にたまたまお前がいた。それだけのことだ。
だからセリィ、お前もお前の為に選択すればいい。俺に引け目を感じたり、卑屈になったりせずにな」
顔を上げたアルヴェルに、今度こそ射抜かれて。
「顔、痛そうだ」
赤くなったそこに、唇が触れた。
「アル……」
セリウスが男の背に腕を回すと、そのまま、もう一度今度は深くキスをする。
たとえ、アルヴェルの瞳の意味するものが幻想だったとしても。
ずっと、こうしたかった。
ただ、それだけだった。




