Başka
フェリット・ロウエンという男は、王都でも名の知れた存在だった。
説教を聞くために人が集まり、免罪符を求めて諸侯が金を積む。
信仰心の篤さ、というより——“効く”のだ。
この男の言葉は。
救われたい者が、救われた気になる。罪を赦されたい者が、帳消しにされたと思い込める。
そして、その対価として、金も、権力も、忠誠も差し出される。
セリウスが王都を去った5年前、新たに枢機卿の座に就いたのが彼だった。
前任が失脚したとき——あの男しかいない、と誰もが口を揃えて言ったのだ。
一方で、あの男が蹴落としたのだ、とも、教皇のお気に入りだとも——賞賛と同じだけの黒い噂も尽きなかったが。
(否定しない、というのがまた)
アルヴェルは、そこに薄ら寒さを覚える。
丁寧に挨拶を交わす男を視界の端に捉えながら、アルヴェルは船がまだ沖にあった頃のことを、思い出していた。
「あなたのベアラーに、力を貸してはいただけないでしょうか」
——そうしなければ、五年前の悪夢が再び訪れることになる、と。
敵に塩を送る。
その言葉が、脳裏をよぎった。
教会にとって、今の自分は安全な存在ではない。
それを、誰よりも理解しているはずの男が。
「……それは、忠告ですか」
試すように問うと、フェリットは淡く笑った。
「まさか。私にとっても……数少ない大切な同胞ですから」
慈愛に満ちた声だが、やんわりと線を引いているようにも聞こえる。
(……自分もベアラーだから分かるって?)
つくづく嫌味な男だ。
セリウスの状態を放置すれば、教会にとっては都合がいい。利用価値の下がったベアラーなど、いくらでも切り捨てられる。それなのに。
(なぜ、俺だけに知らせた)
問いは、結局答えを得ないまま、胸の奥に沈んだ。
善人ではない。だが、単なる野心家でもない。
教会の理を信じているのか、それとも、ただ“使っている”だけなのか。
それも分からない。
(……しかも本人はあの無頓着振りだ)
セリウスが弱っていると感じたのは、単に自身の内に眠る“彼の泉”が騒いだからではない。
人智を超えた何かがあるのは身をもって理解している。疑う余地もないだろう。
けれど、そんなものを頼らずとも——会えば、言葉を交わし、肌に触れれば容易く分かることだった。
これまで感じていた漠然とした不安が、できる事なら、今なお手放すことのできない執着による杞憂であればよかった。
苛立ちの混じるため息に、ノエルドが咎めもせず呆れた視線を寄越す。
「……」
気持ちを切り替え、玉座の数メートル手前まで歩み寄る。
アルヴェルは膝を折り、目を伏せ、恭しく挨拶を述べた。その背中は、王政の前線を退いてなお、確かな存在感と圧倒的な安心感を、使節団の者たちに与えていた。
歓迎の言葉が、定型の抑揚で読み上げられていく。
共和国側の代表者、通訳、随員たちの配置。
頷く角度、視線の高さ、返礼の間。
すべて、身体が覚えている。
アルヴェルは、求められるままに応じながら、内心ではなおも別のことを考えていた。
(……そうだった)
もう一人、厄介なのがいた。
セリウスを指名した、あの王子。
名指しは避けられていた。だがあれは確かに含みを持った言い方だった。アーサーとしても、正しい政治的判断であり、意図的な配置。
だからこそ、本来警戒すべき相手は、自国の教会でもフェリット個人でもない。
——セリウスの力が、失われる。
それを知っているのは、教会だけではないかも知れない。
セリウスは教会へ行った。タリクの同行として。
ならば、あの男も気づいていたのではないか。
(もしそうなら)
タリクはセリウスに——教会による永遠の象徴でもない、市井の贄となり消えるのでもない、第三の道を用意していたことになる。
(面倒くさいことになった……)
これが、ただの嫉妬であればどれほど救われただろう。
心だけの問題なら、どれほど扱いやすかったか。
あの夜、狭い甲板の隙間で。
逃げ場を塞ぐように距離を詰め、半ば力で引き寄せた感触が、遅れて胸を刺す。
(あんな風に、無理やり掴むなんて)
嫌悪したのは、セリウスの頑固さではない。
あの瞬間、理屈ではなく衝動で触れた自分自身だった。
(拒むことさえせずに『命じろ』と言われなかっただけ……まだマシか)
歓迎の拍手が、広間に広がる。
アルヴェルは一拍も遅れずに応じ、穏やかな笑みを浮かべた。
共和国の要人たちは、その様子に安堵したように頷く。
——王弟は、万全だ。
そう見えるように。
(……仕事だけはできるんだがな、俺は)
内心でそう呟きながら、アルヴェルは次の儀礼の段取りへと意識を戻した。
*
歓迎の儀が、終盤に差しかかる。
拍手が起こる少し前、タリクは隣に座る兄へと身を寄せ、声を落とした。
「あ、ほら兄さん。あの人だよ」
指し示された先を見て、兄は一瞬目を細める。
「……男だぞ?」
呆れたように肩をすくめながら、タリクとは反対隣にいるもう一人の兄へと視線を送る。
言葉はなくとも、共有される情報は十分だった。
第一王子は、僅かに身を乗り出してタリクを呼ぶ。
「タリク」
下の兄を挟んで、念を押すように。
「あれ、男だぞ?」
「あはは」
タリクはあっけらかんとしている。
その反応に、今度は兄たちの方が動きを止める。
「二人して言わなくても、見りゃ分かるって」
悪びれもなく、当たり前のように言う。
「いやいやいや、おかしいだろ。嫁探しに行ったんだろ?」
「サファク、言葉が荒いよ」
「別にいいじゃん。どうせ僕が結婚したって二人の親戚は嬉しくないだろ」
「……タリクも、そんな寂しいことを言うなよ」
ちょうどその時、広間に拍手が広がった。
三人は示し合わせたわけでもなく、揃って手を叩く。
遅れも違和感もない、王族らしい所作で。
「カムルセアの後ろにいるご令嬢の方が丁度良さそうじゃないか?見たところ歳の頃も同じくらいだろう」
サファクがなおも食い下がるが、タリクにはまるで響かない。
「ちょっと気が強そうじゃない?その点セリウスは優しくて——」
「ああもういい、もういい」
結局圧に負けて、片手でシッシッと遮った。後ろで彼の妻が肩を震わせて笑っている。
「ね、もう終わりだよね?じゃ、僕行ってくるよ」
立ち上がりながら、軽やかに言う。
「あ、おい、バカ!」
第二王子が慌てて手を伸ばす。
だが、指先は空を切り、弟の上衣には届かない。
「全く、本当に落ち着きがねぇなッ」
「——サファク」
ため息を吐く彼を兄ハカンが諫めた。
「僕のカムルセア、だったか……。まさか、本当に連れて来させるとはなぁ」
「そんな暢気な……」
サファクが小さくぼやく。
視界の先で人垣が割れてゆくのを眺めながら。
*
拍手が、広間を満たしていた。
乾いた音が反響し、天井の高みへ吸い込まれていく。
それが祝意であることは分かっている。
誰かの功績を讃え、国と国とを繋ぐための、正しい音だ。
式典が滞りなく終わり、拍手が静まると、やがて、高壇の上から来賓たちが順に下りてくる。
アルヴェルや王宮側の従者が、この後の予定を擦り合わせている間、一団は手持ち無沙汰に、思い思いの歓談を始めていた。
だが、セリウスはただ一人ぼんやりと、初めて見る異国の豪奢な空間を眺めながら、船上で投げつけられた悲痛な叫びを、もう何百回と反芻しては、その度に胸を抉られていた。
拒絶したかった訳じゃない。
だが、少なくともアルヴェルにしてみれば、これまでずっと、幾度となく拒まれているように感じたに違いなかった。
これまでしてきたことは、全部間違っていたんだろう。それなのに今更になって想いを告げようとしたから天罰が下ったのかも知れない。
率直に言って、ローワンがその出自を認められたくらいで、アルヴェルの地位が揺らぐことはないし、出宮すら本来は叶わなかったはずだった。
それは王太子が生まれても同じことで、だからもう二度と会わぬまま、遠くから幸せを願ってさえいられれば、それで良いと思っていた。
自分がいればまた、良からぬ事が起こるから。
自分にできることなどせいぜい誰を煩わせることなくひっそりと暮らすことくらいで、
なのにアルヴェルが王宮を出るなどと誰が予想しただろう。
まして、私を探しに来るだなんて——。
(そもそも、再会するべきではなかった)
一度再会してしまえば、己の拙い誓いなどたちまちに崩れると分かっていて、卑怯にも関係を続けるべきではなかった。
愛して欲しいだなんて、当然言ったことはない。
けれど。
「認められたい」「必要とされたい」「ずっと自分をただのセリウスとしてみていて欲しい」
——それは「愛してほしい」と望むのと、一体どれだけの差があるというのか。
彼を自分から遠ざけ、その癖いつまでも、彼の瞳がこちらを向いていることに安堵していた。その矛盾を、最悪の形で突きつけられたのだ。
(そういえば……受け取ることが相手のためになるって、ラシード殿が言っていたのだっけ)
あの人の何もかもを奪っておいて、これ以上何を受け取るって言うんだ。
「おい」
突然の声が、セリウスの自己断罪は中断された。
「セリウス、あれ……」
ルチアが腕をトンと軽く突き視線だけで注目を促した先、進行速度の明らかに異なる人影が、人波を割って突き進んでくるのが見えた。
(……うん?)
思わず目を細める。
階段を下り切るや否や、周囲に目もくれず一直線に向かってくるのは——。
「ああ」
頷き、セリウスは小声で補足する。
「先日いらしていた、第三王子のタリク殿下です」
相変わらずの愛嬌たっぷりの笑顔で向かう先はアルヴェルか。長旅を労いに直々に挨拶に来るとは、意外にも殊勝なところがある。
「では、ご案内致します」
案内役の宮女に続いて団員の列が動き出すと、セリウスもゆっくりと歩き出した。
「…….セリウス」
ルチアがまたしても呼ぶ。今度は随分と小声だ。
「今度は何です?なんだか今日はあなたから一生分名を呼ばれる日になりそうですね」
「くだらないことを言っ——」
ルチアの小言はそこで途切れた。
「やっと会えた、セリウス」
聞き知った声だった。
「待っていたんだよ。僕のカムルセア」
彼は時折セリウスをトルキアの女神に喩えた。
だがそれを冗談だとやり過ごす事ができたのは、ヴァルセニアにいたからだ。
だがいまいるのは、彼の国——トルキアだ。その呼び掛けに易々と応じられるほど私的な場ではない。
王弟も、枢機卿もいる。
共和国の要人も、教会の神官もいる。
その中を、堂々と。一直線に。
視線が、ぴたりと集まる。
心臓が、嫌な音を立てた。
セリウスは声の主の方に向き直り、即座に最敬礼を取る。
「畏れ多くも神の御名を——」
「これは……思いのほか、興味深い構図ですね」
言いかけたセリウスの視界の端で、フェリットが前方を塞ぐように一歩前に出るのが分かった。
「これは。篤い歓迎、感謝致します。タリク殿下」
この場でタリクの品位を下げぬよう即座に動いたフェリットは、やはりさすがだ。
セリウスは内心安堵し、そのまま視線を横へ流した。
アルヴェルは、共和国の要人に向けて穏やかに微笑んでいる。こちらを見てすらいない。
(……私は、何をやっているんだか)
頼りたくないなどと口先ばかりで、こういう時ばかり無意識に安心を求めてしまう自分に心底呆れる。
思考を切り替えるようにひとつ息を吐き、前方の人影がフェリットからタリクに変わっていることを確認すると、深く下げた頭はそのままに「お久しゅうございます」と、それだけを口にした。
*
セリウスはあまり表情に出さない方だが、"出さない"と決めた時ほど何かあった時なのだと、短い付き合いの中でタリクは心得ていた。
つまり、セリウスは存外分かりやすい人間だ。
「……殿下」
「うん?」
「本当に……順序というものがあるでしょう」
人が捌けたのを見計らい、ようやく顔を上げたセリウスは、タリクにしか見えない角度で睨んだ。ヴァルセニアの市中で、まだ名乗る前に見せたあの顔だ。
これは意外だった。体裁を気にするセリウスが、わざとこうして不敬とも取れる行動をとることが堪らない。
睨んだところで自分が咎めはしない、それだけ近しい間柄なのだと自覚しているという事実に、心臓がきゅっと甘く震えた。
「それは失礼。到着を今か今かと待ち侘びていたものだから」
それらしい言い訳をしてみたが、セリウスはこれ以上取り合わなかった。代わりに、視線はタリクではなくフェリットへ流れる。
「猊下。私のような者が先にお言葉を賜り、誠に申し訳ございません」
教会式の過不足ない礼だ。それから一歩、静かに下がる。
その様子に、枢機卿はくくっと小さく笑った。
以前教会で見せていた彼への態度とは随分の差ではないか。あのときは随分と負の感情を抱いていたはずだし、対する枢機卿もセリウスの味方にはなり得なそうな雰囲気だったのに。
タリクは笑顔の裏で枢機卿を静かに観察した。
「構いません。それと猊下はやめましょうと申し上げたはずですよ」
枢機卿は穏やかに微笑み、一度だけ視線を横に流してから言った。
「殿下御自らお出ましくださったのですから、少しお二人でお話になられたらよろしいのでは?我々は先に宿坊へ向かっていますので」
これまた珍しいアシストだ。
ただ、まったく腹の底が分からない。
「……それは」
セリウスの声が、僅かに詰まった。
「それはありがたい。セリウスのことは心配いりません。こちらで宿坊まで送りますから」
ヴァルセニアに訪れた頃と同様に、公式の場でセリウスとアルヴェルが視線を合わせることはない。
柔和な笑みを湛えたまま、タリクはセリウスをそっと盗み見る。
ただ、一つだけ違っていた。
今はセリウスの方が彼を気にしている。
(何かあった……?)
当の王弟は気付いていないのか、敢えてこちらを見ないのか。すでに随行の者と短く言葉を交わし、移動の手筈を整えていた。
淡々と、王族らしい孤高さで。
こういうのを何というんだっけ。
——運は勇敢な者に味方する、だったか。
とにかくチャンスだという事だ。
「あのバカ……本人にもあんなこと言ってんのかよ。固まってんじゃねえか」
「ああ本当だ。面白いくらいみんな引いてる。きっと明日は第三王子の心を射止めた人物の話で持ちきりだろう」
高壇の上。
二人の王子が、その様子を見下ろしていた。
「そんなことより、ずっと思ってたんだが『僕のカムルセア』って、ありゃあまじであいつのセンスなのか……?あんな古くさい言い回し」
「シッ!それはこれ以上言うな」
「ハァ?なんだよ……。父上、タリクはあれで大丈夫なんですか?」
サファクはやれやれと、振り向いて玉座へ問いかける。
「ふむ……大丈夫かどうかはともかく」
彼らの父、聖王は豊かな顎鬚を撫でると、
「あの少年御子を空想していた頃はともかく、実際に会えば夢から醒めるかと思ってたんだが……。ともかくそのセリウスとやらの存在があの子を変えてくれるなら大歓迎さ」
と、妙に落ち着いて答えた。
「どうなることやら……」
「ちなみに、私はお前たちの母を『我がカムルセア』と呼んでいたが何か問題でも?」
「イエ……別に」
背後でハカンが小さく苦笑した。




