Crepusculum
人波を縫うように歩く背は、振り返らない。
名を呼ぶこともできず、ただひたすら後に続いた。
扉の外へ出た瞬間、喧騒が途切れ、代わりに風と波の音が耳に届く。
階段を登り、甲板へ続く通路を抜け、さらに人目を避けるように進んだ先。
積み荷の影と影のあいだ、船体の構造材が作る狭い隙間で、アルヴェルは足を止めた。
夜風が、轟々と低く唸るように吹き抜ける。
辺りは闇に包まれていた。
「……聞いたはずだ」
振り返らずに、アルヴェルは言った。
声は簡単に風に攫われ、耳を澄ませてようやく聞き取れる程度だった。
「あのとき、本当に力の加減を間違えただけなのか、と」
何を問われたのかすぐには分からず、セリウスはただ黙って続きを待った。
「お前の……その力は、なくなりかけているんだろう?なぜ俺に言わない?」
苛立ちを含む声が、逃げ道を塞いだ。
「あの時は……私自身、そう思っていたんです」
「だったら、いつ分かったんだ?」
「……教会に、同行した際です」
背中越しに、短い沈黙。
アルヴェルは、漸くこちらを見た。
怒鳴らない。
責める色も、驚きもない。
フェリットの言う通りだと思った。
「だから枢機卿に見抜かれていた、と」
「……はい」
「それでも、時間はあっただろ?なぜ頼らない?」
「それは——」
とっさに言い繕いかけたセリウスを、アルヴェルの深いため息が遮った。
「お前は」
声は低いまま、けれど距離だけが詰まる。
「——俺が、あの男からお前の状態を聞いても……っ!何も……何も感じないとでも思ったか?」
胸の奥が、鈍く鳴った。
「いいか。二度目だ。二度、他人から聞かされる側の気持ちを——」
そこで、言葉が途切れた。
続ければ刃になると分かって、アルヴェルは代わりに手を伸ばす。
半ば強引に胸倉を引き寄せ、背に腕を回し、その胸を自身の胸に押し当てた。
抱擁とは言えない。
乱暴で、雑で、ただの“処置”に近いやり方だった。
それでも——胸の奥底の、じくじくと疼いていた部分に光が流れ込み、ゆっくりと、確かに静まっていく。
屈辱的なその温もりに絡め取られぬよう、セリウスは小さく抗った。
「……っまだ、平気で……」
「……チッ」
見下ろしてくるのは、若い頃の——強引で、容赦のなかった王弟の顔。
ドキリと胸が高鳴って、これは本当の自分自身の感情だとなぜか確信した。
けれど次に落ちてきた声は、わずかに違った。
「……“まだ平気”などと気軽に使うな」
命令の形をしているのに、その実、縋るような抑えが滲んでいる。
「……頼むから」
ほんの僅かに腕の力が緩んだが、セリウスはもうその腕を振り解く気にはならなかった。
ああ、また。
——また、この人を傷付けたのだ。
しばらく、波が船腹を打つ音だけが二人を包んでいた。
暗闇の中、その表情ははっきりとは見えない。
だが、父王が亡くなる前に見せた、あの喪失の予感を押し殺すような気配を感じ取って、セリウスの胸に遅れて罪悪感が込み上げる。
「また、俺が怒っていると言うんだろう?」
タリクに救われたあの日。
冗談めかして口にした言葉を、自分はそのまま受け取って、その奥にあったアルヴェルの不安を、何ひとつ見ていなかった。
「……ごめんなさい」
声は小さく、確かに震えた。
セリウスがそっと一歩下がると、アルヴェルはおずおずと腕を解く。
だがその手はまだ、セリウスの外套の裾を掴んだまま離さない。
一拍、息を吸う。
「でも……頼りたく、ない。あなたに渡した力は……返してもらいたくない」
フェリットの言うように、アルヴェルの自分へと向ける感情もまた、すべて錯覚なのかも知れない。
それなのに、これからも自分が苦しいときだけ都合よく彼を利用しながら生きなければならないだなんて、あんまりじゃないか。
——もうこれ以上、アルヴェルの足枷にはなりたくないのに。
「だって……」
だが、その理由を口にすれば、彼に対する想いさえ嘘になりそうで——続くはずだった言葉が、喉で止まる。
どんな顔をしているのか、見るのが怖かった。
「……はぁ?」
セリウスの思いがけない返答に、アルヴェルの声音がわずかに上がった。
「なぜそうなる?もう六年も前の傷だ。お前に力を戻したからって、今更傷が開いて死ぬのか?」
「そうじゃない、そうじゃないけど……」
「なら、素直に受け取れよ」
「わたしは、ただ……」
「——俺と、対等で、同じ目線でいたいって?」
低い声が被さった。
「またそれか」
アルヴェルは呆れたように、深く息を吐いた。
「そんなに大事なことなのか?……お前が苦しむよりも?」
額に手を当て項垂れたまま、アルヴェルは続けた。先ほどとは打って変わってひどく頼りない声音だった。
「なあ……これ以上、何をやめたらいい。何を手放せば、お前の言う『対等』になる日が来るって言うんだ」
これ以上続けても、よくない方向にしか転ばない。それは、互いに分かっていた。
本当はもっと前に、もっと穏やかに、話す機会はいくらでもあったはずなのに。
「助けるのもだめ。守るのもだめ。お前の力を返すのもだめ。それなら俺は……」
わずかに、言葉が詰まる。
「……それでもお前は、俺に……愛していろって言うのか?」
セリウスは、唇を噛んだ。
アルヴェルの優しさや心配はいつだって真っ直ぐに自分に向けられていて。
——それは、妙な鎖で繋がれているからではないと分かっていたはずなのに。
分かるからこそ。
その鎖に従いたくはなかった。
こんな一方的な関係は、いつかアルヴェルの自由すら奪ってしまうかも知れないから。
これ以上、罪を重ねたくはない。
「……もう良い」
セリウスの外套を掴んでいたアルヴェルの手が、ストンと落ちる。
「殿下……」
一瞬、呼び止めるように唇が動き——けれど、それ以上は続かなかった。
弁解したところで、きっと理解出来まい。
だってあなたはベアラーでもなければ悪魔でもないのだから。
「……冷えるから、早く戻れ」
セリウスがこれ以上食い下がらなかったからか、アルヴェルは自分で話を切り上げておきながら少し惜しむようにして踵を返した。
追いかけることは、とうとう出来なかった。
*
通路の死角に背を預けたまま、タラップを下りる足音が遠のいていくのを聞いていた。
やがてその足音が部屋の奥へと吸い込まれ、扉が閉まるのを確かめてから、アルヴェルは盛大なため息を吐いた。
「……なんっっで、あんなに頑固なんだ」
吐き出すように呟いて、額を押さえる。
少し間を置いて、自分もタラップを降りていくと、階下にノエルドの姿があった。
「居たのか」
「声を気にして甲板に出たのでしょうけど、私がここを塞いでいなければ誰かに見られていましたよ」
「……さすがだな」
鼻で笑ってみせたが、虚しさが増すばかりだった。
「初めてではないですか?」
ノエルドは立ち止まらずに言う。
「痴話喧嘩」
アルヴェルは足を止めたまま、答えない。
代わりに、額に手を当てもう一度——今度は小さく息を吐いた。
「……そんなんじゃない」
「そうですかね」
ノエルドは肩をすくめる。
「互いに言葉が足らなくて、なのに互いに一歩も引かない。性格は似ていないのに、どうしてこういう時の思考回路が同じなんですかね」
「盗み聞きか?趣味が悪い」
「聞かなくたって分かりますよ」
短い沈黙が落ちた。
「——セリウスは、殿下に甘えたくない、と言いながら……それでも、あなたにしか向いていない。ずっとそうだったじゃないですか」
「あいつのことをよく分かってるんだな」
アルヴェルは吐き捨てるように言ったが、すぐに態度を切り替え「ノエルド」と呼んだ。
「向こうに着いたら、すぐに宮殿の資料庫への入室許可を取りたい」
「高炉についての資料でしたら既に——」
「別件だ。古文書あるいは経典あたりか……」
「ああ」
見当がついたノエルドはそう言葉を漏らし、
「……承知しました。ですが予定をすっぽかすことはないようにしてくださいね」
と抜かりなく申し添える。
「今までサボったことがあったか?」
それきり、アルヴェルはセリウスの話題に触れなかった。
ただ、握りしめた手を緩めることが出来なかった。
手を開いたら、震えてしまいそうで。
恐怖してしまいそうで。
(……怖がっている暇はない)
セリウスがティアベアラーだろうが、どうでもよかった。守り人が何たるかを知らずとも、構わなかった。
理由なんかなくても、関係を固定せずとも、やることは変わらないのだから。
ずっとそう思って来た。
だが、そんな簡単なことではなかった。
(疵を塞がなければ)
自分の所為で。
自分を助けた所為で、セリウスの器は泉を支えられなくなっている。
一刻も早く手立てを見つけなければ。
(早く……)
*
夜明け前、船はトルキア共和国の港へ静かに滑り込んだ。
薄青の空の下、石造りの岸壁と倉庫の列が眠りの名残を引きずっている。
蒸気と潮の匂いが混じり合う、宗教都市とも王都とも違う空気。
甲板に立ったまま、セリウスは過去と未来が入り混じる街を見下ろしていた。
ここが、始まりの場所。
ティアベアラーの故郷。
そして今や、神話だけが残る国。
タラップが降ろされ、人の流れがゆっくりと動き出す。セリウスもまた、何も言わずに一歩を踏み出した。
「……セリウス」
呼びかけた自分の声に、ルチアは一瞬だけ違和感を覚えた。
以前なら「お前」だの「貴様」だのと呼んでいたはずなのに、その名が、驚くほど自然に口から出た。
「あの方から、力を……?」
何でもない調子を装ったつもりだった。
「……触らなくても分かるんですね」
セリウスにしては素っ気ない返答だった。
「いや……」
むしろその逆だ。
だが説明したところでどうなることでもないと思い、ルチアは口を閉じた。
力の流れは、選ばれた者にしか視えない。
触れずとも見抜く、研ぎ澄まされた才力をもつ——例えば、フェリットのような。
だがセリウスの泉は豊潤で、ルチアにもこれまで彼の姿は青白い光を纏っているように見えていた。
あの日、教会で目にしたセリウスは光を纏うというより、身体に留めておけず、絶えず揺らぎ、垂れ流しているようにさえ見えた。
甲板に立つセリウスの背からは、昨日まで見えていた不安定な揺らぎが消えている。
(あの方は……これに気付いているはずだが)
ルチアはこっそりと、目だけで枢機卿の姿を探す。
あの事件によって、そして死にかけたセリウスの回復を請い願った、その結果として——本来、教会の内にあるはずの役割を、偶然王弟アルヴェルが担うことになってしまった。
だが、教会の外にある人間がその役割を担うことは想定されていなかった。
力の“浄化”も、“循環”も、名目上はすべて教義の内側で完結していなければならない。
それが、ルチアが疑う余地もなく叩き込まれてきた理屈だった。
だからこそ、これは、看過されるはずがない事実にほかならない。
なのに。
枢機卿から、咎める声は上がらない。監視役の堂役も、何かを指示された様子はなかった。
それは見逃しではなく、意図的な黙認ではないか。
(……なぜだ)
アルヴェルが力を利用する人間でないことも、セリウスが一人守られるために動いていないことも、今なら分かる。
だが、教会がそんな解釈をするはずがない。
許されるはずがないのだ。
「……顔色は、悪くないな」
口に出せたのは、それだけだった。
「……ありがとう」
セリウスは短く答え、それきり黙り込む。
タラップを下りながら、ルチアは後方を仰ぎ見た。
甲板の先で荷の確認を指示するフェリットの背中が、漸く見える。
自分が教会で唯一尊敬し、そして男で唯一嫌悪を抱かずにいられた人間。けれど、彼がどういう人間なのか、本当のところはよく知らない。
夜明けの靄の向こうで、トルキアの街が、何も知らぬままゆっくりと目を覚まし始めていた。
ルチアは歩きながら、無意識のうちにセリウスの背を何度も目で追った。
力は彼の中に内包されていて、やはり見えはしない。壊れかけた器が修復され、そして——纏うほどには満ちていない、ということだ。
フェリットは、やはり何も言わない。
問いも、注意も、戒めもない。
王弟アルヴェルのすぐ後ろをフェリットは歩き、共和国側の迎えと簡潔な挨拶を交わす。その横顔は、いつもと変わらない。穏やかで、冷静で、教会の理を体現する男のまま。
泳がせているのだろうか。
それともヴァルセニアの外だから何もしないのか。
(何を、考えているのですか)
問いは、喉元で止まった。
今すぐに聞くべきではない。
自分の感情が混じっていることを、ルチア自身が分かっていたからだ。
トルキア共和国の宮殿は、港から少し離れた高台にあった。
宗教的装飾はほとんどなく、白い石と直線的な構造が目立つ。祈りの場というより、議事と交渉のための建物——共和国らしい、乾いた威圧感をまとっている。
馬車を降り、待機していた宮官に従がって、使節団は前庭を進んでゆく。
(一日だけ。一日だけ様子を見よう)
ルチアは前を向く。
列の前方で、宮殿の高い扉がゆっくりと開いていくのが見えた。
トルキアでの一日が、始まろうとしていた。




