Indigens
毎夜賑わうホールとは打って変わって、セリウスたちベアラーは、それぞれ割り当てられた自室に籠もっていた。
行動に制限があるわけではない。
だが皆、その必要がないと理解している。ただそれだけのことだった。
セリウスもまた、ひたすら持て余すにはあまりにも長すぎる時間の中にいた。
「なぜ……あんな、誤解を招く訊き方をするんだよ」
壁に身を預けたまま悪態を吐いた。
初めから共にトルキアへ行くのだと分かっていたなら、そう言ってくれれば良かったのに。
「来るか」だなんて言葉足らずな訊き方をして、別の道まで用意するのではなく——。
そんな風にわざとらしくあの人を責めてみたところで、虚しいだけだった。
全部、自分が招いたことだ。恐れるあまりに疑って、傷付きたくなくて逃げた。
なのに今だって、逃げたことなど意にも介さず、普段どおりに笑って話しかけて欲しいだなんて、都合のいい願望ばかりが、浮かぶのだ。
アランは言っていた。決めたのだと。
愛することを、慈しむことを。
ならば。
離れてからずっと、会いたくて仕方がないのが、たとえこの胸にある泉の所為だったとしても——もう部屋の扉が叩かれるのを密かに期待し続けるのはやめるべきだ。
セリウスは壁から身を起こすと、外套のフードを目深に被り、静かに部屋を出る。
あの人の部屋は宮官達の部屋の更に奥だろう。
——が、その途中で一度ホールを通らなければならないことに気付き、歩みを緩めた。
ホールはすぐそこだった。
灯りと人の気配が、目と鼻の先にある。
入口近くに立つ給仕がこちらに気付き、軽く会釈をする。
知らぬふりをして、真っ直ぐ通過するだけ。そう自分に言い聞かせ、深呼吸をひとつすると、セリウスはもう一度、顔を上げた。
「——はい、ただいま」
ちょうど給仕が誰かに呼ばれ、脇へ退く。その先に、彼の姿が見えた。
気まずさが先立って、セリウスは咄嗟に外套のフードを引き寄せた。
(……ここにいるなら、むしろ都合が良かったじゃないか)
気を取り直そうとするが、同時に別の考えも浮かぶ。
ここは王宮じゃない。大勢の目がある場所でアルヴェルに声を掛けるのは、あまりに軽率な行動ではないか。
やはり一度引き返して、後でノエルドを探せばいい。
そう思って踵を返しかけた、そのとき——
「ゔっ……!」
背後から来た人物と、まともにぶつかった。
「すみま——」
「急に振り返ると危ないですよ、セリウス殿」
強かに打ちつけた鼻を押さえながら顔を上げると、そこにはフェリットが立っていた。
「猊……フェリット、殿」
「……酒を飲みにでも?」
探るような声。
「いえ、その……少し外へ出ようかと」
「外……?デッキへ上がる階段は手前にあったでしょう?」
不思議そうな顔でフェリットは言った。
「ドアの音がしたので、飲みに行くのかと思ったのですが。もし暇ならご一緒にいかがです?」
「……ああ、そうでしたか。では……」
しっかり見張られていたのか。とセリウスは思った。
だが、好都合かも知れない。フェリットと行動しつつ、アルヴェルが退席するタイミングを見計らえばいい。それにこういう機会でもなければ、枢機卿という権威ある人物と腰を据えて言葉を交わすこともないだろう。
「フェリット殿が召し上がるのでしたら、ご一緒します」
自分からそう切り出す。その声が、驚くほど平坦だった。
一瞬、フェリットの眉がわずかに上がる。当然断られると思っていたのだろう。
「今宵は退屈せずに済みそうです」
男はやはり、口元だけで笑った。
船の中央に位置するバンケットホールは、昼間より照明を落とし、落ち着いた大人の社交場の趣を帯びていた。
窓際にはカウンター席が設けられ、通路を隔てた内側には数人で囲む卓が並び、中央には円状のバースタンドが据えられている。
乗客の多くは、酒を片手に熱のこもった議論や交渉に興じていた。だが——セリウスたちの姿に気付くと、会話の流れがわずかに乱れる。
声は落ち、視線だけが、ちらり、ちらりと向けられた。
給仕からそれぞれ果実酒を受け取ると、二人は窓際のカウンター席へと並んで腰を下ろした。
「今朝も思いましたが」
グラスを軽く傾けながら、フェリットが言う。
「セリウス殿は、この程度の視線には慣れていらっしゃるようですね」
すぐに硬い表情のルチアが思い浮かんだ。
「慣れているわけではありませんよ」
セリウスは小さく息を吐く。
「……ただ、どうにもならない、というだけです」
仮にベアラーでなかったとしても、この異形だ。どこへ行こうと、向けられる反応は大差ない。
分かりきっていることだった。
それに対して、都度心をすり減らしていては生きてはいけない。ただ適当に現実と折り合いをつけてきただけのことだ。
「では、諦め……のほうが正しそうですね」
フェリットの投げかけに、セリウスは答えなかった。グラスを傾けることもせず、ただ窓の外に広がる闇へと視線を流す。
夜の海は、感情を映さない。
波も、星も、等しく遠い。
しばらくして、セリウスはようやく口を開いた。
「あの……」
言葉は続かなかった。何を問うべきか、自分でもまだ定まっていない。
「続けて」
男は薄く笑みを浮かべ、視線だけをこちらに寄越す。
少しだけ、その瞳に温度が宿った気がした。
「フェリット殿は……この先、どうなっていくとお考えですか」
問いは曖昧だった。
国の行く末か。ベアラーの扱いか。それとも——自分自身の行き先か。
フェリットはすぐには答えなかった。
果実酒をひと口含み、喉を鳴らしてから、ようやく口を開く。
「そうですね……“私は”、時代に合わせて行く必要があると思っていますよ」
その言い方に、セリウスは小さく瞬きをした。
「流れに抗って溺れるほど、愚かではないつもりです。潮目が変わるなら、舟の向きを変える。それだけのことですよ」
さらりと言って、フェリットは杯を傾ける。
果実酒の赤が、照明を受けてゆるやかに揺れた。
「……教会も、ですか」
思わず零れた問いに、フェリットは口元だけで笑う。
「さて。教会は大きいですからね。急には曲がれません。ですが舵を取る者が、流れを読めなくなった時——」
そこで一度、言葉を切り、今度ははっきりとセリウスを見た。
「その時こそ、“個人”の判断が物を言う」
それではまるで——。
セリウスの脳裏に、教皇の鋭い眼光がよぎる。
あの目が、この言葉をどう裁くか——想像するだけで喉が渇いた。
「……ここに、堂役がいなくてよかったですね」
グラスに視線を落とし、指先で縁をなぞる。
赤い液面が、わずかに揺れた。
「あなたは教会を随分と恐ろしい場所だとお思いのようだ。……まあ、分からなくもないが」
フェリットは肩を竦めて笑う。
「少なくとも今はずっと良くなりましたよ。私のおかげでね」
フェリットの表情からは、その言葉の意図するところは分からない。
セリウスは少しだけ身構えたが、環境が良くなったという割には、フェリットはもう「だから教会に大人しく保護されるべきだ」とは言ってこなかった。
「……北方管区の枢機卿は信頼に足る方です」
「え……?」
「先日保護されたベアラーですが、共同生活にも徐々に慣れていると聞きました。自身の力について、既に何方かがご教授下さったようで、被害に遭われた後でも希望を捨てず、人の役に立ちたいと実に前向きでおられるそうです」
ニコルのことだ。
「……それでもやはり、教会はベアラーの牢獄だと思いますか?」
セリウスは何も言えず、ただグラスの縁を指の腹で撫でていた。
個人的なことを言ってしまえば、「イエス」だ。
だが、ニコルにとってはこうなってしまった以上、教会の外の方が恐ろしいであろう。
「わかりません……」
フェリットはふっと笑った後、彼はセリウス越しにホールの中央へと視線を投げると
「守り人という存在を……ご存知ですか?」
と、問いだけを寄越した。
その問い掛けの意図が分からず、セリウスはまるで心臓を掴まれたように一瞬息が詰まる。
「……ええ。モルフォンド家のルーツだと」
当たり障りのない回答だったが、フェリットはやはり無駄な追及をせず、別の問いをセリウスへと投げた。
どこへ向かわされているのか、何を聞き出されるのか。不安定で捉えどころのないやり取りだった。
それでも目の前のフェリットは、何かを得ようとしているというより、そのやり取り自体を楽しんでいるようにも見えた。
「加護を授けられた者が、そのベアラーに力を一度でも還元すれば、その者はベアラーにとっての守り人となります。……これも、すでにご存知ですね」
「……はい」
男は、セリウスの細かな反応をつぶさに掴み取りながら、会話を先導する。
「ではなぜ、教会だけがこの守り人という仕組みを残し、王国の歴史からは葬り去ったのでしょう」
「それは——」
相変わらず、会話の目的はわからない。
だが、フェリットは確実に、セリウス自身に考えさせようとしていた。
「個人ではベアラーを支えきれなかったから……でしょうか。それに、悪用する者もいたのでしょうし」
セリウスの脳裏に浮かぶのは、リュミエールで見た、あの古びた記録だった。
「間違ってはいません。ですが……もう少し解像度を上げましょうか」
フェリットは一度小さく笑ったあと、少しだけ思案するような面持ちになる。
「守り人とベアラーは、泉を介して繋がっている。……まあ、正確には泉の力そのものではありませんが」
言って、こちらに流される視線に、ドクン、と心臓が跳ねた。
「感情……」
「そうです。さすがはモルフォンド家ですね」
かつて、モルフォンドの守り人はスフェーンをお守りにしていたと、養父は言った。
スフェーンは、つまりベアラーの感情の奔流に巻き込まれないための、水門のようなものだったのだろう。
実際に、セリウス自身が身につけた所為で感情が捌け口を失ったこともあったし、スフェーンを持たないアルヴェルを、セリウスの感情の波が襲ったこともあった。
何でもないような顔をしていたが、どれほどの苦痛だっただろうか。
(そんなときでさえ、私は自分の心が読まれてしまうことばかり恐れていたんだな)
セリウスの表情に翳が射すと、フェリットは静かに続けた。
「ベアラーから伝わる感情によって苦痛が生じることもありますが、そればかりではありません」
そして、すぐに「むしろ、それこそが厄介なのですが」と言葉を添える。
「守り人は、ベアラーの感情を受け取るだけではありません」
「……?」
「自分の中にも、説明のつかない感情が生まれるのですよ」
「説明のつかない……」
「ええ。放っておけない。傷ついていれば気になる。危うい場所にいれば、手を伸ばしたくなる」
フェリットは、そこで一度言葉を切った。
「好意、と呼んでもいいでしょう。あるいは、庇護欲と言った方が近い者もいる」
あまりにも淡々と告げられた言葉が、胸に静かに降りてくる。
「これは歴史と私の経験による仮説ですが、ベアラーが自身を危機から守るために、神が与えて下さった性質なのでしょう」
「性質……」
なんだ、そうか。
グラスを持つ指先に、僅かに力がこもった。
そういうものなのだとすれば、腑に落ちる。
あの人が自分を放っておけなかったことも。
傷つけば、あれほど過敏に反応したことも。
けれど——それは、決して嬉しいことではなかった。
「……ですが、ではなぜ、こんな話を?」
それでもセリウスは、何でもないように小さな笑みを作って訊ねた。
フェリットはすぐには答えず、セリウスの手首にそっと触れる。
触れた場所から血脈を通って、何かが胸の奥まで駆け上がった。
泉を覗かれているのだと分かった。
「今のうちに、あなたの守り人から加護を返してもらいなさい。どうしてかは……分かりますね?」
「……!」
セリウスの目が僅かに見開かれる。
フェリットは、それを見逃さなかった。
「王族が守り人となる……それは国の命運を揺るがす危険を孕んでいます」
感情の乗らない、事実を述べるだけの声だった。
「だからこれまでも、王宮の贄は消費されればそれきり。聖下が、あなた方に執着されていたのも致し方ないことです」
けれど今、私達は海の上。
「殿下は国政を離れ、間違いなど起きようもない」
気がつくと、フェリットの手は既に離されていた。
「……なぜです?」
気付けば、問いが零れていた。
理に背いたベアラーがどこでどうなろうと、本来なら、気にも留めない立場のはずだ。
フェリットはほんの少しだけ目を細めた。
「単純なことです。この場に、あなたの加護を受けた人間が一人しかいない」
それから、何でもないことのように続ける。
「それに、想像していたよりずっとあなたが面白い人だと知れたので、また酒を酌み交わしたいのです」
あまりに率直な答えに、セリウスは一瞬だけ目を瞬いた。
単なる情けではない。
この男は、セリウスには到底分からない原理で動いているようだった。
「けれど私は……この先もずっと、守り人を頼らなければならないのでしょうか」
それは、このところずっと胸に秘めてきた問いだった。
「でしょうね。あなたの器は疵だらけですから」
フェリットはあっさりと言った。
「ですが、あの方もお立場がある。あなたに振り回されるわけにも行かぬでしょう」
その言葉に、セリウスの視線が僅かに落ちる。
「……これで分かりましたね? 教会へとお招きした訳が」
「……結局、そこへ帰結するのですね」
呆れたようにセリウスは笑った。
けれど、フェリットの言い分は尤もだった。
「まあ、とにかく今は頼れる者に頼るべきです」
そう言って残りの酒をくい、と飲み込むと、フェリットは静かに立ち上がった。
「付き合って下さったお礼です。少しお待ちを」
こそりと耳打ちすると、男の背が悠然とホールの中央へ遠ざかっていく。
どこへ向かっているのか、追わずとも分かった。
フェリットが誰かに耳打ちをする。
その相手がこちらへ振り向いた。
茜色の瞳が、真っ直ぐにこちらを射抜く。
出立の朝に見せた、密やかな笑みをたたえたそれではない。
強く、刺すような眼差しだった。
「ついて来い」
声は聞こえなかった。
けれど、確かにそう言われた気がして。
立ち去るアルヴェルの背を追うように、セリウスの足は、考えるより先に動き出していた。




