Communio
国の南方に位置するソレイヴァン侯爵領。その南端にある巨大な港には、すでに使節の乗るキャラック船が停泊していた。
セリウスたちの馬車が到着したのは、翌日の明け方のことだった。
朝靄が立ちのぼる景色の中、セリウスは目の前の巨大な船を見上げながら潮の匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。
「少しは休めたかい?」
ヘリオスが欠伸を噛み締めながら声を掛ける。
「ええ、ぐっすり寝てしまいました」
「ふ…っ、そういう隠す気のない嘘は、初めから言わなくていい」
「……寝ましたよ、ちゃんと」
風で煽られるフードを押さえながら言い返した。
お見通しだと分かっていても、下らぬ嘘をつく。そうして虚勢を張ってしまうのは、まだ大丈夫だと思いたいからというよりは、元来の捻じ曲がった性分の所為だ。
ヘリオスから伝えられたニコルの事件は、ほとんど噂通りの内容だった。
彼の事務的な説明は、たとえ予測できうる危険をあの子に伝えていたとして、結果は同じであったかも知れないと思わせた。だからこれは身勝手な罪悪感に過ぎないのだと。
それでも思考は自然に低いところへと流れ、油断すればすぐに『自分の中の悪魔が惑わせたのだ』と、飽きもせず自分を責め始めてしまう。実に短絡的なプロセスだ。
「全部自分の所為にするのは傲慢というものだよ」
ヘリオスはそう言った。
いつだかアルヴェルにも言われた気がする。
だがこうなると、まるで誰かに自分の思考を乗っ取られたみたいに自分ではどうにもならず、セリウスに出来るのは無理やりに眠って思考を遮断するのみだった。
「じゃあ僕の役目はここまでだから。せっかくの海外旅行だ。羽を伸ばすといい」
やって来た従者に荷物を渡すと、ヘリオスは冗談混じりにそう言って、右手を差し出した。
セリウスはその手を取って、固い握手を交わす。
「お土産楽しみにしてる」
「ええ。きっとお気に召すものをお持ちしますね」
気やすめだったとしてもヘリオスの言葉が嬉しかった。約束をする事で、先行きの見えない不安からほんの少し解放される気がしたからだった。
港はすでに賑わいを見せていた。
使節の名を掲げた旗がはためき、桟橋では積み荷の確認と人員点呼が同時に進んでいる。
技術交流を名目とした派遣団——その規模は、セリウスが想像していたよりもずっと大きかった。
教会側の集合場所には、すでに数名の修道士たちの姿が見えた。
白を基調とした法衣の中に、見知った顔がある。
「騎……、ルチア殿……」
「……セリウス」
名を呼ばれ、ルチアはぎこちなく会釈をした。
その背後で、先日セリウスを教会本部の泉に案内した、あの枢機卿がクスクスと笑った。
「仲良くしなさい、ルチア」
枢機卿にのみ許される儀礼用の赤黒い法衣を厚手の黒い外套が包んでいる。フェリットはすぐに視線をあげ、港全体を静かに見渡した。
「今回の派遣は教皇猊下より、"ベアラー"として任じられたものです」
低く、穏やかな声で枢機卿が言った。身構えるセリウスを見て取ると、彼は尚も言葉を続ける。
「私に監視する意図はありません。そう構えずともよろしい。技術も人も信仰も、皆が互いに持ち帰るものがあれば、よいですね」
そう言ってさっと手を差し出した。フェリットは穏やかな笑みを向けたまま動かない。
——監視する意図がない?
何を今更。私が国を離れること自体、教会の本意ではないだろうに。
僅かに逡巡したあと、セリウスは結局その手を取った。
「……よろしくお願い致します」
どうであれ、これから旅を共にするのだ。穏便に済ませるべきだろう。
視線を巡らせれば、教会の一団の向こうに、別の集団が見えた。
彫金師や設計士と思しき若者たち。
身なりは良いが落ち着きのない豪商の嫡男。
学者の卵に、芸術家。
そして、ソレイヴァン侯爵家の跡取り息子——時代の寵児と呼ばれる名も、囁き声とともに耳に入ってきた。
皆、ヴァルセニアの“これから”を担う者たちだ。
その中に、ほとんど神話同然の自分たちベアラーが含まれているのだと思うと、妙な浮遊感を覚える。
「……使節派遣というのは、毎度このようににぎやかなのですか?」
思ったまま口をついて出た問いに、フェリットはふっと笑う。
「両国の教会交流はこれよりもずっと慎ましいものです。それに今回はトルキア聖教会との交流の為に私たちがいるのではないことは、モルフォンド卿もご存知ではありませんか」
そうだった。
技術の遅れを埋めるため。今般のこれは、先進国の知恵を拝借し、国を豊かにする為の技術交流だ。
だがタリクはベアラーが欲しい、と言った。
つまりそれは、王族が象徴として生き残るためか。
あの国では神話となったベアラーを、叡智を与える対価として得たところで、今更何の利があるのだろう。
自分のことで手いっぱいで気が回らなかったが、よく考えてみればどうにも腑に落ちない。
「そう、でしたね」
答えの出ない問いを胸に押し込めたまま、セリウスは教会の一員として名を呼ばれ、順番に船へと導かれる。
「そう言えば、噂の燃え方が酷いですね。意図的に何方かが油を注いでいる。堂役達も恐ろしがって複数人でなければ市中を歩けません」
「……それは、す……大変なことです。猊下」
うっかり謝罪しそうになって、曖昧な返事になった。そんなセリウスを、どこか愉しむような目で枢機卿は見つめる。
「フェリットです」
「え…?」
「私の名です。こんなところで猊下などと仰々しく呼ばれるのは本意ではありません」
「私もセリウス殿とお呼びしますので」と枢機卿はにこりと笑って見せたが、その瞳の奥は冷えている。
「ええ、承知しました。……フェリット、殿」
教会には、教皇ラドクリフの下に、北方・西方・南方の三管区を統べる三人の枢機卿が控えている。
北方管区は、ビアトリスの統治するリュミエール領から東部辺縁にかけて。
西方管区は、西部国境辺縁から旧ルーカス領、王都とモルフォンド領の西部を含む一帯。
そして南方管区は、王都とモルフォンド領を流れる河川を隔てた東部域と東端のランドフォード辺境領、そしてソレイヴァン侯爵領を抱える、最も広大な区域を統括していた。
フェリットと名乗ったこの男は、その南方管区を預かる枢機卿であり、しかも三人の中で、最も若くしてその地位に就いた人物だ。
そして、高位官職にある者の中で、唯一の——
(ティアベアラーだったのか)
先を行く枢機卿の背を盗み見ながら、セリウスは胸の内で小さく呟いた。
出発告げるビューグルが鳴り、甲板の上に人が集まり始めた。
使節団の面々が揃い、王宮側から今回の派遣についての説明と、出立に際しての簡単な挨拶がなされるらしい。
セリウスは人の輪の端で、手すりに指を掛けたまま海を見ていた。
潮の色は、まだ夜の名残を引きずっている。
(結局……)
逃げ出してしまった。ニコルのことも、アルヴェルのことも、何もかも中途半端にして。
気楽にやれと送り出されたけれど、とてもそんな気にはなれなかった。
もう殿下には会えない。
そもそも——帰国のお許しだって、出ないかも知れないのだから。
青黒い海面を眺めていると、思考ごと吸い込まれそうになる。
「では——殿下より、ご挨拶を」
ピリリとした声が甲板に響いた。
その言葉に、弾かれるように顔を上げる。
「……なんで」
見慣れた漆黒の髪。茜色の鋭い眼差し。
王族の外套を纏った——
「……アル」
甲板の中央に進み出たアルヴェルは、群衆を一度見渡しただけで、その後は真っ直ぐ前を見据えている。
ただ、この国を代表する者として。
「此度の派遣は、両国にとって未来を繋ぐ試みです。
技術も、人も、信仰も——互いに閉じたままでは、先へは進めない」
声はよく通り、感情を抑えた響きだった。
期待されながらも王政の前線から退いたことによる、噂されるような王国への情の薄さすら、今は頼もしく映る。
「ヴァルセニアとして、皆さんの尽力に感謝を。
そして無事の帰還を、心より願っています」
余計な言葉も、飾りもない、実直で短い挨拶を終え、アルヴェルは一礼すると、王宮側の控えへと静かに下がった。
たった数分だ。
なのにそれだけで、胸の奥が、じくりと痛む。
愚かしいほど容易く、視線が離せなくなる。
アルヴェルの背中が翻り、周囲と身体の向きを揃える。そのとき彼の視線はわずかに横へ流れ、人垣の向こうに立つセリウスを捉えた。
初めから、そこにいることを分かっていた。
そんなふうに、迷わず真っ直ぐに。
本当に、一瞬だけ。
それまでの硬質な表情が、ほどけた。
強すぎる眼差しに、セリウスだけが知っている、小さく柔らかな色が燈るのを感じた。
「……なんて顔してる」
低い声に、セリウスははっと我に返った。
いつの間にか隣に立っていたルチアが、胡乱な目でこちらを見ている。
「王弟がいるからって、妙な真似するなよ」
釘を刺すように言って、視線で周囲を示した。
「妙な真似って……」
セリウスは首を振る。
「そもそも殿下がいらっしゃるだなんて、今知ったくらいなのに」
言った途端、ルチアの眉が露骨に跳ね上がる。
「はあ?……商工会団体主催の交流にくっついて行ってるとでも思ってたのか?勅命を受けただろ?この規模の派遣で、あの御仁が出てくるくらい、普通は見当がつく」
本気で呆れたように、息を吐く。
「……実は馬鹿なのか?」
「……」
否定する言葉が、見つからない。
宰相の言葉を疑いもせず、独りよがりになっていた。少し考えれば分かることすら見失って、勝手に悲観して。
(穴があったら入りたい……)
納戸に残る小さな落書きを未練たらしく撫でたのはつい昨日のことだった。
そんなにも後悔するのなら素直になっていれば良いものを、慣れ親しんだ生き方を変えることが、だが、どうしても難しい。
「おい、なあ!ぼさっとするなよ」
ルチアが肘で突く。
「……あ、はい」
「先に部屋へ行ってるぞ」
それだけ言い残し、彼女は踵を返す。
ルチアの背が人混みに紛れても、セリウスはしばらく、その場を動けなかった。
視線の先には、波に揺れる海。
広くて、冷たくて、逃げ場のない色。
——同じ船に、いる。
その事実だけが、胸の奥で静かに反響していた。
「本当に、意地が悪い」
王弟を先導しながら、ノエルドは独り言のように呟いた。
「……何か言ったか」
「いえ、別に」
可哀想に。あれは本当に、気付いていなかった顔だ。
(気付いていないのもどうかと思うが……ああいうところがある)
やれやれと首を振るノエルドの背に、アルヴェルは思わず口元を押さえて、小さく笑った。
だがすぐにその笑みも消える。
会う度に少しずつ、セリウスは生気を失っている様にアルヴェルには思えた。見た目の窶れだけではない。
その存在そのものが滲んでいくような——それは、もう看過できないほどの疑念となっていた。
エドガーの言うように、本当に力"だけ"が無くなるのか。
とてもそうは思えない。だがかといって、根拠となる文献があるわけでもないし、単なる妄想かも知れなかった。
自分に授けられた力の一部が、呼応する。そんな主観的なものは、明確な根拠とはなり得ないのだ。
守り人なんて、実際大したことはない。
触れ合う事で喜怒哀楽が伝わってはきても、それ以上の事は分からないのだから。
一体何が彼をそこまで怖がらせるのか、言葉にしなければ何ひとつとして。
*
およそ五日間に及ぶ航行は、若い商人や技術者たちにとって、格好の社交の場となっていた。
船内では、すでにいくつかの小さな輪が生まれ、行き交う会話の端々からは、帰国後の正式な取引を仄めかすような、軽い商談めいた話題も聞こえてくる。
食堂の一角、酒の匂いが濃くなった頃だった。
「そういえば、船にはベアラーも乗っているんだろう?」
「食事の時にしか見かけんな」
「王宮にいた、あの御子もいたぞ」
「そういや、あの噂もひどいな」
「六年前のルーカスでの暴発の件じゃないのか?」
「違う違う、襲われたって話だよ」
「俺、初めてベアラーを見たけどさ……」
声がひそひそと落ちる。
「あれは、興が乗るよ。手を出したくなるのも、分からなくはない」
「一団には女もいたろう?」
「罰当たりな。……ったく、やめておけよ」
笑い声が、泡のように弾けて消えた。
その翌日の食事時——。
広い食堂に足を踏み入れた瞬間、ルチアは微かな違和感を覚えた。
視線。
値踏みするような、好奇と警戒が入り混じったそれが、遠巻きに絡みついてくる。
あからさまではない。だが、確実に数が多い。
ある程度は、仕方ない——そう思ってはいた。
教会にいる時と違って、ここでは"ベアラー"なのだと素性が晒された状態なのだから。
(いつもこんな視線を浴びせられているのか……)
斜め後ろを歩くセリウスを肩口に見た。
だが彼の関心ごとはまた別のところにあるようで、視線の矢など気にもせず、静々と歩いている。
とうの昔に忘れたはずの下卑た視線を思い出していた。
自分の地位を盤石にするために、娘を差し出すことに必死だった父の顔。荒い鼻息を誤魔化そうともしない下品な男共。
ベアラーとして発現すると、父から逃げるようにして家を飛び出した。愛情なんてなかったくせに、「教会にやるためにここまで育てたわけじゃない」と騒ぎ立て、ベアラー保護に寄与した家という建前で、教会へと娘を売ったのだ。
かといって没落寸前の家が持ち直すほどの金ではなかっただろうが、そんな事はルチアにはどうでも良かった。
ふと、目の前に重厚な外套の影が差した。
衣擦れの音も立てず、誰かが隣に立つ。
「……?」
顔を上げるより先に、視線の圧が消えた。
蜘蛛の巣を払われたように、ぴたりと。
先程まで前を歩いていたフェリットが、真横に立っている。
彼は特別な動作をしたわけではない。だがそれだけで、ルチアと外界のあいだに、確かな線が引かれた。
周囲の者たちは、互いに目を合わせ、何事もなかったように食事を再開する。
笑い声も戻る。
だが、先ほどまで向けられていた視線だけは、二度と戻ってこなかった。
「……げ、猊下?」
「船酔いか?」
フェリットの視線は、もうルチアから外れていた。だが、さっきまでルチアを悩ませていた胸の奥のざわめきは、いつの間にか静まっていた。
それだけではない。
ほっと息をついた時の、じんわりと温む心地の中で、とくりとくりと別の高鳴りが始まっていた。
「だ……大丈夫です」
フェリットは何も言わない。
祈りも説教もないが、ただ「ここにいる」と示すだけで、越えてはならない線を思い出させる人物。
(こういう人間も、教会にはいるのだな)
一歩引いた位置で、セリウスは静かに感心していた。
正直、フェリットが何を考えているか分からない。
異端を毛嫌いする様子もないが、完全に自分を受け入れているのとも違う。教皇の意向だと言った同じ口で、だが自分に「管理する意思はない」と言った、その理由も分からない。
ただ、彼は彼としてベアラーを守ろうとしている。その一点だけは理解できた。
教会の内と外、その境界線を外せば、少なくとも同じ力を宿す存在だ。
大して人となりを知らないのに、それだけで少しだけ警戒心が薄れる。
それが救いなのか、別の枷なのかはまだ分からなかったが。




