Vinculum
風が強く吹いていた。
咲いたばかりのマグノリアの花弁が舞い飛ばされてゆく。
(ニコルは……私を恨んでいるだろうか)
風に押されるように、その問いを今日も胸の奥で転がしていた。
あの時、私は。
王宮の囲いから出て、教会にも属さない。その報いは喜んで受けると、誓った。それよりも守りたいものがあったから。
——守った?
違うだろ。
見たくなかっただけだ。あの人が苛まれる姿を。
他のベアラーなど、どうだっていいと思った。
でもそれは所詮、彼らが教会に守られている前提の、生半可な考えだった。
利己的で、卑怯で、偽善的で。
それを知りながら、善人の顔をしていた。
私の本体は、やはり悪魔なのだろう。
ああ、そうだ。悪魔だ。
(……すぐそれだ)
都合よく、そこに落ちる。
悪魔と名乗れば楽になる。
裁かれる側に立てば、考えなくて済む。
堪らず漏らした自嘲すら、風が攫っていった。
葡萄畑の真ん中で、セリウスは薄曇りの空を仰ぎ見ていた。
王宮からの知らせは、まだ来ない。
今更どこかへ向かう気にもなれず、生きたくもないが、自ら終わらせる度胸すらもなく、今日も領地で時間を持て余していた。
年季の入ったノートを開き、各地で書き留めてきた女神神話を流し読みしながら、心は別のところにあった。
噂は様々な尾鰭をつけモルフォンド領にも到達していた。
それなのに襲われたベアラーの容姿や年齢、その場所が北方リュミエールのとある村だったことだけは相違なく、その人物がニコルであろうことはもはや疑いようがなかった。
一方で、それと並ぶように語られている、旧ルーカス領とおぼしき地にまつわる御子の話——そこからは、都合の悪い部分だけが綺麗に削ぎ落とされていた。
「ローワンか……?」
だが、何を削ろうとしている。
御子か、信仰か、それとも期待そのものか。
人心を緩やかに削り、ベアラーの力にも限界があるのだと示すつもりか。
それが何になる。
絶望を与えるだけではないのか。
「……私が考えることでは、ないか」
身じろぎすると、葡萄の細い幹がかすかにしなった。不意に眠気が込み上げる。シャルルの調合した薬の影響だろう。昼間でもこうして微睡んでしまうが、お陰で自責に勤しむ時間が減った。
自分の身に起きていることは、すでに教会のベアラーにも現れ始めているとルチアは言っていた。
タリクもいずれ皆「役目を下りる」と言った。
二人の言うことが本当なら、終わりは思っているより近いのかもしれない。
だが、その先の景色は想像もつかなかった。
それはきっと自分だけではない。この力こそが生きる意味だと信じてきた、すべてのベアラーにとって。
胸の奥の泉は——浅ましさも穢れも、痛みも、それらを直視したときだけ、嵩を増し、潤う。
それが癒しの源であることを、この身を通して嫌というほど理解している。
だが今は——その水底が、軋んでいる。
穴の開いた水甕のように、常にどこかへ漏れている。
日に日に、その感覚が強くなっていた。
身体が少しずつ解けてゆくような、空洞になっていくような、そんな心許ない感覚に、もうすっかり慣れてしまった。
瞼の重みに耐えられず、セリウスは目を閉じる。
このまま、目を覚まさなければいい。
ぼんやりとそんなことを思った。
強い風が吹き抜け、花弁がひとひら頬に貼りついても、セリウスは目を閉じたまま横たわっていた。
——どれほど眠っていたのか。
「ああ、ほら。まるで猫みたいだろ」
「……前からずっとアラン兄様の可愛がり方って異様だと思ってたけど、そういうことなのね」
「え?何が?」
誰かの話し声がした。
目を開けると、逆光の中にアランの顔がある。
「よく眠れたか?こんなとこで寝て、風邪ひくぞ」
からかうような声だった。
「……すみません」
まだ現実に戻りきらないまま身を起こすと、アランがノートを捲っているのが視界に入った。
「すごいな、この量」
感心したように息をひとつ吐き、そして表情を改める。
「王宮から、知らせが来たわ」
アランの隣に腰掛けたエミリアが告げる。ほんの少しだけ、その顔が強張っていた。
——この子も察しているのか。
次に帰ってくる頃、この国は、みんなは、どうなっているのだろう。
(……そもそも)
帰って来られるのだろうか。
エミリアがセリウスの髪に絡まった枯葉を指で払うと、「こっちは大丈夫よ」と笑った。その言葉の続きを引き取るようにしてアランもまた口を開く。
「せっかくなんだ、楽しんでおいで」
「……はい」
「浮かない顔だ」
「いえ、そんなことはないですよ。陛下から賜った誇らしい仕事なんですから」
「そうか、じゃあ尚更だ。外の世界を存分に見て、感じて来なさい。お前だから見えるものがあるはずだよ。帰って来たら、私たちに話して聞かせてくれ」
そう言って、手にしていたノートをセリウスに返す。
これまで、どうやって生きてきたんだっけ。
いつも、守られて、庇われて、足手まといだった気がする。
良くしてくれる人たちの為に、自分も与えられる人間になりたかったけれど、自分の思いとはいつも違う結果になった。
もうこれ以上何かをしでかすのは。
「……怖いな、なんて」
口をついて出た言葉のあまりの頼りなさに、セリウスが小さく自嘲すると、エミリアに髪をギュッと引っ張られた。
「っ……いたたたっ!」
思わず声を上げるが、彼女は顔を伏せたまま「じっとして」と小さく言った。
アランはその様子をちらりと横目で盗み見て、何も言わずに目を細める。
「いつだって、帰っておいで。ここはずっと、君の家なんだから」
「……そうよ。忘れないでよね」
少し遅れて、エミリアが鼻にかかった声で続けた。
*
——さて。
荷造り、と言っても大したものはない。
旅装束はすでに揃っているし、医者としての同行ではない以上、そういった荷物は個人的に持つ必要がなかった。
机の引き出しを開けては閉じ、結局、何も取らないまま溜息をついた。
「……少な」
持ち物は、着替えが三組と、古いノート。
それから、ペンを一本。
全部合わせても鞄の底が見える。
ノートを手に取ると紙の角が指に触れた。
当たり前のように鞄に入れたが、もはやさほど必要なものでもなくなっていた。
(王都に戻ってからは全く書いていなかったな……)
——コンコン。
「セリウス?」
慎重なノックと養母の声に、セリウスは弾かれたように顔を上げた。
「……っはい、どうぞ」
「まあ、それだけ?」
顔を出すなり養母がそう言った。視線は、膨らみのない鞄に注がれている。
「ええ。まあ……必要であれば向こうで用立てればいかなって……」
「それにしても少ないわよ」
即座に返され、言葉に詰まる。
トルキアまでは船で四、五日程かかる。向こうでの滞在期間は一週間程度と聞かされていたが、書状にその期間は明示されていなかった。
ヘレーネの言うことは尤もだったが、これまでの放浪の延長と考えることで、明示されていない部分に目を向けないようにしていた。
彼女はしばらく思案気に部屋を見回していたが、やがてタンスの前に立ち、引き出しを開けた。
「国のお勤めで行くんだから」
淡々とした声で言って、クロゼットから数着の上衣を引っ張り出す。
「もう少しきちんとしたものを持っていきなさい。道中冷えるし、公式な場にも出るでしょ」
セリウスは特に口を挟まず、その様子を眺めていた。
ふと、ヘレーネがソファに重ね置いた上衣に、セリウスの目が留まる。
見覚えのある、少しだけ光沢のある濃紺。肘の辺りに、当時ついた小さな皺まで残っている。
(う……)
胸の奥が、かすかにざわつくが、ヘレーネは気にしていない。それもそうだ。知らないのだから。
「向こうで夜会があるでしょうし、“きちんとした場”には、ちょうどいいわ」
丁寧にブラシをかけ、鞄に収められるのを黙って見届けながら、
「……それもそうですね」
とセリウスは曖昧に笑った。
まるで、清算できない過去を仕舞い込んで共に連れて行くような感覚だ。
(まあ、ちょうど良いのかもしれない)
立つ鳥跡を濁さずと言うし、ここでの未練ごと抱えて行くのも。
「さあ、あとはこれ」
「!」
ヘレーネは真新しい外套を広げ、トン、とセリウスの肩に押し当てた。
「……痩せたわね」
何気ない一言に、胸の奥が少しだけ詰まる。
「やっと渡せたわね。以前帰って来たとき、気になってたのよ。医者なんだから、少しは見た目を気にしなさい」
ヘレーネはそう言って、留め具をきちんと整える。
二輪の百合の花——ランドフォードの紋章だ。
「うん、格好いい」
「またそんな、からかって」
セリウスが苦笑すると、ヘレーネは小さく息をつく。外套の胸元にあしらわれた釦を、指先でそっと撫で、その百合の紋章がよく見えるように襟元を整えた。
「本当に素敵よ、セリウス」
外套の重みが、思ったよりもしっかりと肩に残る。
祈りのようでもあり、鎖のようでもあった。
誰かに思われるのは、こんなにも温かくて、苦しい。
「……ありがとうございます」
*
迎えが来たのはそれから一日半後の事だった。
「セリウス様、……いらっしゃいました」
扉の向こうから女中の声がした。
本家の書斎の、小さな納戸の中。
家族への挨拶を早々に済ませると、セリウスはしばらくの間そこに潜り込んでいた。
壁に描かれた太陽の落書きを指の腹でなぞり、そっと息を吐く。
あれが最後だったかも知れない。
顔も見ず、下手な言い訳をして逃げた事を今更後悔したって遅いのに、最後まで中途半端にしか嘘をつけなかった自分にがっかりした。
セリウスは思考を振り切るように首を振ってから、扉の向こうに返事をした。
「今行くよ」
門扉を出ると、開口一番に軽やかな声を投げられた。
「やあ、セリウス殿」
「これは……師団長直々に。恐れ入ります」
驚くセリウスとは対照的に、ヘリオスは調子を崩さない。
「やだなぁ、驚いたりして。
君と僕の仲じゃないか。この間はせっかく泊まりに来てくれたのに、すーぐ王子様に横取りされちゃったからね。寂しかったなあ」
軽口とは裏腹に、近衛たちの動きは無駄がなかった。荷の確認はすでに済んでいるらしく、馬も落ち着いている。
「……相変わらずですね」
「相変わらずなのは君の方だろ」
へらりと笑いながらも、視線は咎めるようにセリウスを射抜いた。
だがそれも一瞬で、結局は
「たった二週間で、どうなるものでもないだろうに……陛下も酷なことをなさるよね」
と、労うに留まった。
馬車の準備は出来ている。
側に控えていた文官が勅命を読み上げると、セリウスは「謹んでお受け致します」と恭しく礼を取った。
一度振り返って、エミリアたちの顔を見る。
ヘレーネやエミリアが少し不安そうな面持ちで「気を付けて」だの「いってらっしゃい」だのと言うその横で、シャルルは一際神妙な面持ちで小さく頷くのみだった。
「では、行ってきます」
背筋を正し、努めて明るく笑って見せた。
もしかしたら彼らの目に映る自分の姿はこれが最後になるかも知れない。もしそうなら、記憶の中の自分は誇らしい息子であり、兄であったと信じさせるのが、せめてもの報いに思えた。
馬車に乗り込み、小さく手を振る。
葡萄畑沿いの私道を進み、やがて街道へと出ると本邸のテラスにアランと、ベルトランと彼を支えるアランの妻の姿が見えた。アランはまだ幼いジュニアを抱きかかえ、共に手を振っている。
「……まったく、大げさだな」
見送りは、もう十分すぎるほどだ。
「なんだ、ちゃんと愛されているじゃないか」
ヘリオスが、可笑しそうに息を弾ませる。
「君の器量も、あの家族も、何不自由なく育った箱入り息子のそれを思わせるのにな。……なのに君ったら実に難儀な性格だよね」
「やめてください」
思わず顔を背ける。
「……そんなんじゃありません」
ヘリオスは声を殺して笑った。
からかっているようで、その実、どこか安心した顔だった。
「でも、悪くないだろ。帰る場所があるっていうのは」
言われなくてもわかっている。
自己肯定感を傷つけるのは、いつだって自分自身で、でも他のやり方を知らなくて。
馬車が本格的に速度を上げる。揺れる枝の向こうで、手を振る人影が小さくなっていく。
セリウスはしばらく答えぬまま、流れていく葡萄畑を見つめていた。
「……ひとつ、伝えておかなければならないことがある」
モルフォンド領を出て、ようやくセリウスが窓から視線を戻すのを見量って、ヘリオスが口を開いた。
「件の女性ベアラーだが……大事ないとのことだ」
「……なぜそれを」
「やはり知り合いか。……君が心配しているだろうから伝えてくれと、弟殿下からだ」
ローワンが。ということは——
「なら、あの噂は……やはりただの噂なのですね」
そう都合よく、安堵した。
「……いや」
散々他人を惑わしておいて、よくも——
「噂は、事実だよ」
「……ああ」
また、心が削られる音がした。




