Confessio
背中を、大きく温かい手が撫でていた。
『ゆっくり吸うんだ。そうだ……落ち着いて』
心地の良い、アルヴェルの声だ。
時折、唐突に不安が襲ってくると、彼は何度も同じ言葉を繰り返し——呼吸が急く度、宥めるように唇を重ねた。
力を戻されているのだと、分かった。
*
セリウスが瞼を開くと、まだ辺りは宵闇に包まれていた。
——今、何時だ?
その日は夕餉を終えた後、ほんの少し横になるつもりが寝入ってしまっていた。
身体中ぐっしょりと汗をかいていて、その所為か、喉が渇く。
セリウスはのそりと起き上がると、暗闇の中を手探りで進み、部屋を出る。身体を拭きたかったし、水も飲みたい。
もう何もかもどうでもいいだなんて思っていても、相変わらず要求の多い自分が滑稽だった。
廊下に出ると階下はまだ明るかった。思うほど長い時間寝ていたわけではないらしい。
厨房の奥から女中たちの楽しげな声が聞こえてくる。せっかくほっと一息ついているだろうに用事を頼むのは気が引けて、セリウスは湯浴み処まで行くと水瓶から水を掬って手拭いを濡らし、身体を拭いた。
「王都では、妙な話が流れているそうよ」
それまで聞こえてきたコロコロとした女中声が、突然引き締まったものになる。
「なによ……妙って」
「ああ、私知ってるわ。御子だの、女神だの、奇跡だの。昔話を引っ張り出してきては、今と繋げたがってるのよ」
セリウスは思わず息を潜める。
手拭いから絞り切らなかった水滴が、ぽつりと落ちた。
「トルキア共和国の使節がいらしたことの影響でしょう?」
「それだけでこうはならないでしょ。去年は雨も少なくて、隣国は飢饉に見舞われている村も多いって行商のおじさんが言ってたわ。ヴァルセニアだって他人事じゃない。みんな不安なのよ」
廊下は静まり返っている。その所為で、顰めたはずの声さえセリウスにも届く。
「噂は、噂よ」
声の主はシンディだろう。
「さあ、もうお開きにして、私たちも休みましょ。今日は余計な話をしない。奥様に言われたでしょ」
「シンディったら優等生ぶっちゃって。その噂に一番取り乱していたくせに」
その言葉に他の女中たちもくすくすと笑った。
「だって、ベアラーが襲われたなんて聞いて、正気でいられると思う? 誰だってセリウス様だと思うでしょう? ランドフォードから来る道中、気が気じゃなかったんだから」
「ああ、そっか。シンディはセリウス様がそのとき王宮にいるって後から知ったんだものね」
「女の子だったらしいわ」
「……女の子?」
「ええ。噂が本当だったら、怖い思いをしたでしょうね」
「気の毒に……。女性だってこともそうだけど、北方領だって、場所まで分かっているんでしょ?」
「ええ。だから、ただの噂とも言い切れないんじゃないかって——」
北方だって?まさか……。
「でも、セリウス様じゃなくて本当に——」
ひとつの可能性が浮き上がるより先に、セリウスは持っていた手拭いを置くと、これ以上は聞かぬように足早に部屋を出る。
さもなくば、その場から動けなくなってしまいそうだった。
「おっと……」
すぐに正面から来た人影とぶつかり、よろめいたセリウスを、その手が即座に支えた。
「父上……」
「セリウス。良かった、ここにいたのか」
暗がりでよく見えないが、シャルルは明らかに安堵した様子でセリウスを見ていた。その腕にセリウスの外套が抱えられている。
「……少し、汗を掻いてしまって」
事実なのに言い訳じみて聞こえるのは、今まさに逃げ出そうとしたからだった。
物音に気が付いたのか、厨房の奥の話し声は途絶え、すぐに女中がひとりふたりと顔を出した。
「旦那様、どうなさいま——」
「あ……セリウス様?」
逆光で、女中たちの表情は窺えない。
けれどきっと皆、同じ顔をしている。
痛ましさと、憐れみ。それから——
「いかがなさいました?セリウス様」
シンディの声は、セリウスが確かにここにいることを確かめるような響きがあった。
「ええと、水を……もらえるかな」
セリウスは笑った。
水を受け取ると、シャルルも薬袋を開いて差し出した。
「セリウス、そうだった。薬を飲まずに寝てしまったから、渡しに来たんだった」
なのに部屋に姿がなく、慌てて探しにきたのか。
それほどに、いまの私は何かをしでかしそうに見えているんだろうか。
「……今日はもう、休もう」
「そう、ですね」
セリウスはそう応じ、空になったグラスをシンディに返した。
「おやすみなさい」
そう言って燭台を受け取ると、いつも通りの歩調で自室へと向かった。その後ろをシャルルが続く。
「父上も……ご存知でしたか?」
セリウスは絶えきれず、背後にいる養父に問いかけた。
「単なる噂だ。これまでだってあっただろう?」
そうだ。
アーサーも「これから燃える」と言っていたではないか。
であればこれは、仕組まれた噂なのかも知れない。
でも、もし本当だったら?
……違う。ニコルじゃない。
人違いであって欲しい。
でも、じゃあ——
……誰なら良かったって?
「……」
階段の途中で、セリウスの足が完全に止まる。
シャルルは、まずい、と瞬間的に思った。
「……私では、なかったですけど」
唇を噛む息子に、シャルルは眉を寄せ小さく舌打ちをした。
「セリィ」
嗜めるような声に、セリウスは養父のいう通りにしようと試みた。だが口を噤もうと、結局は出口を失った感情が渦を巻く。
ニコルじゃなくても、誰であっても。
自分という例外の所為で。
教会の外にいる、というだけで。
「私が惑わせた……ダメだと言っていれば……」
「そこまでだ」
絶えきれず漏れた陳腐な後悔さえ、シャルルの低く短い言葉が遮断した。
「もう、寝なさい」
幼い頃から、いつもそうだった。
怯えたり、取り乱したりすれば、大丈夫だと宥めてくれた。
「何も怖くないよ」と。
「心配いらない」と。
可哀想な子。
だけどきっと幸せになれる子。
そんな風に笑って。
辛いことはもう忘れなさい。
過ぎたことは嘆いたって変わらない。
それが、優しさだということは分かっている。
けれど時々思うのだ。
まるでとっくに治ったはずの傷を、いつまでも痛がっている自分がおかしいのだと。
本当の息子なら、せめてただの人間だったら、きっと彼らの顔を曇らせはしないのに。
「ごめんなさい。……少し疲れていて」
セリウスはもうそれ以上、言葉を探さなかった。
「気にするな。おやすみ」
背中に向けられる視線はあたたかい。
だが、ここに帰れば忽ちに『何も考えず、ただ守られていればいい存在』になる。
ただただ惨めで、申し訳ない。
静けさの中で、ひとりでいるという事実だけが、やけに際立った。
(……ついていけば、よかった)
自責や後悔よりも先に、思考は抑える間もなくそこへ辿り着いた。
それほどに滅入っていたのだと思うことにした。
言葉を濁して、距離を取って向き合うことを拒んだのは——自分の方なのに。
そのくせ、同じ話を聞く事になるなら、ここではなく、あの人といるときに聞かされれば良かったなどと思ってしまう。
ただ黙って隣にいてくれただろう。
支離滅裂でみっともない懺悔を、時折相槌をうちながら。
「あはは……」
乾いた笑いがやけに響く。
「……とうとうイカれたか」
都合の良い妄想なんかして。
暖められた部屋の中、胸の奥だけがひどく冷えていた。
*
モルフォンド領では、マグノリアが咲き始めていた。
まだ蕾の多い白は、冬の名残を抱えたまま、それでも確かに春を告げている。
領主の館では、セリウスの叔父ベルトラン、そして彼から爵位を譲り受けたばかりの次男——アランが待っていた。
「……お久しぶりです。叔父上、アラン兄さん」
少し遅れて、頭を下げる。
「すまんな、セリウス。もう少し早く戻るつもりだったんだが」
ベルトランは、以前と変わらぬ落ち着いた声でそう言った。だが視線は、無意識のうちにセリウスの手元へと落ちて、ほんの一瞬だけ止まる。
「はい……おかげさまで」
その視線から逃れるようにセリウスは欠けた指を握り込んだ。
「もう堅苦しいのはやめやめ。ほら、父さんも。ただでさえ顔が恐いんだから」
そう言って口を挟んだのは、アランだった。
新しい爵位がまだ身体に馴染んでいないのか、どこか居心地悪そうに肩をすくめる。
「話は聞いた。またすぐ発つ事になるんだろう?ここに居る間くらいゆっくり休め。な?」
アランと会うのは、かれこれ十年ぶりくらいだろうか。父ベルトランの仕事を手伝いながら、一方で自身も起業し一時期は領地を離れていた。
兄さんと呼びはするが、実のところ、ひとまわり近く歳が離れている。そんな彼にとっては、セリウスはいまだに幼い子どもに見えている様だった。
「……ありがとうございます」
頭では別のことを考えながら、口先だけはタイミングを合わせて呼応した。
聞いている、という言葉が重い。知っているからこそ、何も問わないのだ。
アランも、ベルトランも、シャルルも。
アランは、セリウスの返事に満足したのか、それ以上深追いはしなかった。
「エミリアがうるさくて寛げそうになければ、奥の書斎を開けておくよ。勝手は覚えているだろう」
「……ええ」
覚えている。
成長してからは、もうずっと訪れていなかった部屋だ。だが今日は何故か「少し、見てきてもいいですか?」と口にした。
どうしてかわからないが、そんな気分だった。
ベルトランは一瞬驚いた顔をしたが、すぐに「構わんよ」と目尻の皺を深くした。
書斎の扉を開けると、かすかに古い木の匂いと紙の香りが漂った。
昼間でも仄暗く、書棚の影や机の下は、小さな子どもが隠れるには十分な空間だ。
モルフォンド一族に迎え入れられたあの日も、この匂いと影に包まれて、セリウスは静かに息を潜めていた。
口内に突っ込まれた砂利の味が薄れ、肌を突き刺した無数の針跡が無くなっても、幼いセリウスは夜毎泣き叫び、身体中を掻きむしった。
毎晩、ベルトラン夫妻や養父母が自分の手を握り、背をさすり続けていたことを、今でも鮮明に憶えている。
(それなのに、何ひとつ返せていない)
本棚の脇にある小さな納戸が目に留まり、しばらく見つめた後、躊躇いがちに手を伸ばした。
ギギ、と扉が軋んだ音を立てた。
ほとんど荷物の入っていないそこからは、黴と埃の臭いがほんのりとするだけだった。
セリウスは小さく息を吐いて、納戸の前にしゃがみ込んだ。
——僕が守ってあげる。
そう言った彼の顔は、自分を見る他の誰の表情とも違っていた。
「……ア——」
半開きにしていた部屋の扉が開く気配がして、セリウスの肩がぴくりと跳ねた。
「あ、ごめんな。お茶でもと思ったんだが」
部屋の入り口で、アランは手元の盆から視線を室内に移したところだった。
こういうところが領主らしくないと、いつだかベルトランが言っていたことを思い出す。
中途半端に身体を屈めるセリウスを見るなり、アランは目を瞬いて「探しもの?」と覗き込む。
「い、いえ…っ、違います」
悪戯が見つかった子供のように、すっくと立ち上がり、口を噤んだ。
アランは少し笑みを浮かべて、盆を机の上に置くと、床に膝をついてセリウスと納戸を順に眺める。
「懐かしいな。お前たちが子どもの頃、ここから出すのに苦労したよ」
そう言って、ぽんぽん、と自分の横を叩いて座るように催促する。
セリウスはぎこちなく、でも拒むことをせずに彼の横に腰を下ろした。
アランはしばらく黙ってくれていた。
セリウスは小さく息をつき、目を閉じる。ここにいると、外の世界の重圧も少しだけ遠くなる気がした。
「昔、こうやって皆がお前を抱きしめたのを憶えてる?」
アランがそっと肩を寄せ、ポツリと問うた。
セリウスは小さく頷く。昔の自分と今の自分の距離を、静かに感じながら。
「今でも——」
セリウスもまたポツリと言葉を紡いだ。アランに聞かせるというよりは殆ど呟きみたいなものだった。
「なぜ父上たちが私を受け入れてくれたのか、不思議です」
「理由が必要?」
アランがセリウスを覗き見る。セリウスも目を開けて、アランを見た。
「必要、というか……」
「安心したい?」
はっきり言葉にされると、自分の情けない感情を直視せざるを得なくなる。
返答に詰まるセリウスの前で、アランは「そうだなぁ」と両手を床につけ、天井を仰いだ。しばし、何かを思案するように。
「お前はまだ幼かったし、信じて預けた教会で酷い仕打ちを受けていたし……。もっともらしい根拠なら、いくらでもあるよ」
そう言って、もう一度セリウスを見た。
「例えば、亡くなった私の兄がベアラーだったから、とかね」
「え……?」
今度はセリウスの方がアランを覗き込んだ。
大水の被害に遭って早逝した、ベルトランの長男。まさか、彼が——ティアベアラーだったなんて。
「叔父様は一度も……」
「ま、言わないだろうね。言ってどうなる事でもないし……。でも、一番尤もらしい理由っていうなら、それかな」
アランはそう言うと、一度立ち上がって卓上に置いていた盆を下ろす。
「……忘れていた。マナー違反だけど、どうぞ」
少しぬるくなった紅茶をセリウスに勧め、自分も茶器を持つ。
「あの人は遅くに力が発現してね。両親も本人も、教会に入るのを迷ったと思うよ。そのすぐ後のことだった。あの大水があったのは。
皆必死だった。元々兄は責任感の塊みたいな人でさ……領民を一人残らず救うつもりだったんじゃないかな」
セリウスがこの家の厩に捨てられているのを発見したのは、兄が亡くなってすぐのことだ。
「兄の代わりって訳じゃないけど……守ってやれなかった贖罪みたいなところはあるかもな」
「そういう……ものでしょうか」
口ではそう返したが、アランの返事に、彼らの眼差しの意味がようやく腑に落ちる気がした。
セリウスの曖昧な反応にアランは短く笑う。
「ただ、みんなで決めたんだよ。この子を大切にしようって」
アランは懐かしむ様に再び納戸の方へ視線を向けたが、ふいにその視線が止まる。
「……?」
セリウスもアランの視線の先を追った。
西陽が差し込み、開け放ったままの納戸の奥が照らされ、『何か』に気づく。
(あ……)
それは掠れた、小さな落書き。
「あれ、まだ消えずに残ってたのか。懐かしいなあ」
夏が終わっても一人じゃないよ——と。
茜の瞳の少年が、こっそりと描いた太陽。
「なあ、あれ描いたのって確か……」
アランは振り向いたが、あとの言葉は口にしなかった。小さく息を漏らす程度に笑って、セリウスの肩を一度叩くと、彼は静かに退室した。
アランの言う通りだった。
尤もらしい理由を得て、楽になりたいだけ。
理由のない愛情も善意も、自分には過分だから。
自分はそれに値しない。
与えられたものの半分の半分も返せない愚か者。それどころか、厄介ごとばかりを起こす悪魔なのだから。
ニコルのこともそうだ。彼女が傷付かずに済むのなら、最初から阻止すべきだったのではないか。
それは、かつて教会が言ってきた理屈と、王宮が採用してきた論理と、驚くほど近い場所にある考えだった。
だから言えなかった。
とどのつまりは、ニコルの安全よりも自分の願望を優先したのだ。
——結局、私は自分のことしか考えていない。
「私は……どうしたら良かったんでしょうか」
壁の太陽は、何も返してはくれない。
それでも、セリウスはしばらくそれを眺めていた。




