Dicere / Dici
王宮の西翼、日当たりの良い執務室。
これまで散々唸り声が聞こえて来た扉の向こうから、生き生きとした話し声と、軽快なペンの音が聞こえてくる。
ローワンは机に広げた数枚の覚書を、指先で軽く弾いた。
「ねえエドガー。“御子は神の遣いではなかった”って聞いて、どう思う?」
「異端者」
即答だった。
「信仰を否定するのと新たな解釈を持たせるのは天と地ほどの差があります。特に今のは、殿下の感情が先に立ちすぎています」
「だよねえ」
侍従の言葉に、ローワンはあっさり頷く。
素直なところが彼の長所だと、エドガーはローワンに仕えるようになってから幾度も実感する。
「じゃあ——こうするのはどう?」
王弟はは一枚、別の紙を引き寄せた。
「御子は、神が遣わしたのではない。人が神を欲した結果、そう“呼ばれた”存在だった」
エドガーは一瞬黙り、それから口角を上げた。
「……なるほど。うむ、否定していません。
評価をこっちで下ろさない。が、結果は変えない」
ローワンは素直だ。
そして、思いのほか勇敢だった。
自分の考えを曲げることを、恥じない。
間違っていると分かれば、あれほど躊躇なく自分の言葉を捨てられる人間を、エドガーはあまり知らなかった。
「人が勝手に決めたなら、人が勝手に語り直していいでしょ?」
ローワンは肩を竦める。
「はは……性格がよろしいですね」
「褒め言葉?」
エドガーは応える代わりにくすりと笑って、几帳面なローワンのほんの少しくだけたその文字を、もう一度眺めた。
「つまり陛下は——奇跡は“彼がいたから”ではない。“信じる人間がいたから”起きた——そう言いたいのですね」
「うん、そう」
ローワンは即答した。
「しかもこの形だと、セリウス個人を持ち上げても、叩いても、どっちも噂の中に吸収される」
「神でも悪魔でもなくなるわけですね」
ローワンの茜の瞳を覗き込むと、確かめるようにそう言った。
「ただの“象徴”。それ以上でも以下でもない存在に」
そこまで言って、ローワンは一度、視線を落とす。
「……それでいいんだ」
セリウスの状態は、ローワン殿下には伝えていない。
彼はいま正に進化の途中にいて、しょうじきなところ、またあの御子のことで気を逸らして欲しくはなかったからだ。
(すっかり、情がわいてしまったな)
初めは、おかしな理想ばかりを口にする、世間知らずのお坊ちゃんだと思っていた。
ところがどうも、単なる血脈だけで王宮に迎え入れられたのではないらしい。そう知ってからは、ローワン殿下を見る目も変わった。
それだけではない。陛下やアルヴェル殿下のことさえ、以前とは違って見えるようになった。
聞いていた話とは違った。少なくとも、これまで自分が知っていた王族の在り方とは。
セリウスが王宮を去ったのも、単に事態を収めるためだけではない。
セリウス自身の思惑があり、教皇の思惑があり、王族にもまた、それぞれの思惑がある。
そのすべてが絡み合った結果なのだ。
時代は変わる。
いつか、ベアラーを必要としない日が来るかもしれない。
神さえ、忘れ去られてしまうかもしれない。
だからこそ——
今、殿下がしようとしていることは、本人が思うよりずっと大きな意味を持つ。
(こんなやり方は……教会では、できないことだ)
黙ったままのエドガーを、ローワンは不思議そうに眺めていた。
「で、どこから流します?」
草案の紙束を揃え、エドガーは何食わぬ顔でローワンに訊ねた。
「あ……ええと、そうだな。下町、語り部、酒場でしょ。あとは……善意の信徒?」
ローワンは試すように笑う。
「最悪に最高ですね」
「ありがとう」
*
「——モルフォンド卿、到着しましたよ」
御者の控えめな声で、セリウスは目を覚ました。
「……ありがとうございます」
顔を上げると、一面の葡萄畑と見慣れた屋根が見えた。
実際にここで生まれたわけではない。それでも、セリウスにとっては息をつける場所だった。
門扉を開け、前庭を歩いてゆく。足元では綻んだばかりのクロッカスが淡い光を返していた。
玄関ポーチに差し掛かる、その直前。
扉が勢いよく開いた。
視界いっぱいに金色の髪と、柔らかな桃色のスカートが揺れて——次の瞬間、無遠慮な体温が胸元にぶつかる。
「お帰りなさい!」
「……っだから、抱きつくのは」
かろうじて出た声は情けなく、途中で途切れた。
エミリアは気にした様子もなく顔を上げる。
「でも、人前じゃないわ」
わざとらしく笑って見せる妹に、セリウスも眉を下げた。
「さあ、入って」
そう言ってエミリアはセリウスの腕を抱え込み、ぐいぐいと引いていく。
抵抗するのも馬鹿らしく、セリウスは身を委ねた。今は、この図々しさに救われていた。
セリウスが居間に入ると、養父母が揃って顔を上げる。
「父上、母上。只今戻りました」
形式ばった挨拶に、二人は眉を下げ控えめに笑う。
「ああ……よく戻ったね」
エルネストから事情はすでに伝わっていただろうが、養父——シャルルはそれ以上何も言わない。
セリウス自身も、到着して早々に気まずい雰囲気になるのは避けたかった。
気付かぬふりをして、そのまま視線を厨房の方へ向けた。赤毛の女中がちょうど顔を出したところだった。
「やぁ、シンディ。結婚したと聞いたよ、おめでとう」
「ありがとうございます、セリウス様」
シンディはにっこりと笑って、そう返す。
「帰ってきてくださって、嬉しいです」
ランドフォードへとついて来た頃はまだ、女中頭のナディアにそそっかしいとよく叱られていた子が、いつの間にか随分と落ち着いた物腰になったものだ。
「ねえねえ。相手、気にならない?」
エミリアが横からひょっこり顔を出し、見上げて来る。
「……うん?知っている人?」
「それはもう」
**
今宵の夕餉は賑やかだった。
セリウスが数年ぶりに帰郷し、それを待っていたようにシンディの結婚も祝われていた。
「それにしても、まさか相手がアンヘルだなんて……驚いたよ。そんな様子はなかったから」
アンヘルは、かつて孤児たちと共にランドフォード領へ受け入れられた男だ。その後は護衛として、そして少年たちの剣の指南者として、王都までついて来てくれていた。
真面目で、控えめで、よく気のつく男だった。
シンディと顔を合わせて話していた場面が、今さらになって幾つも蘇る。
セリウスがそう言うと、シンディは少し照れたように笑った。
「一度、ランドフォードに寄って下さったことがあったでしょう?」
「うん」
「あのとき……私、嬉しかったんです。セリウス様が子どもたちに何かを教えたり、一緒に遊んだり……そういう姿を見られて。ああ、私の知っているセリウス様が、帰って来たんだって」
「そう」
そうだった。あの場所もまた、自分をただ受け入れてくれた場所であった。
シンディには今も、私は同じように見えているだろうか。
……そんなことを訊けば、困惑させてしまうだろうが。
「また、いつでも帰ってきてくださいね。ナディアも、クロムウェルも……アンヘルも、みんな待ってますから」
本来なら会いに行けばいい。子どもたちのことも気になった。だがこの状況で、自分の存在があの小さな町の平穏を脅かすことだけはしたくなかった。
「……ありがとう」
結局、それだけを返してセリウスは笑った。
使用人たちも交えた賑やかなひとときは、あっという間に過ぎてゆき——
セリウスがこっそり息を吐いていると、養父と目が合った。シャルルはにこりと笑って、持っているグラスを小さく振る。
促されるまま、彼の座る長椅子の向かいに腰を下ろした。
「ここまで、どうやって帰ってきた?」
「領地に入るまでは、王宮の従者が先導してくださいました」
おそらくはアルヴェルが手を回したのだろうと、分かってはいた。従者のこともそうだが、モルフォンドに帰るという選択についても正しかった言える。『領主家の養子』という肩書きは、ここではセリウスを守る最強の盾だ。
元よりここの領民は騒ぎを好まない。この外見に多少冷ややかな視線を寄越しはしても、手を出されることはここでは起こり得ない。
長い時間をかけて、養父達が領民の信頼を得て来たからだ。
だからこそ、気が引けもした。
「そうか。それならよかった」
「……すみません」
もはや口癖のように口をついて出たそれに、シャルルは眉を下げて、困ったように笑った。
「またそれだ。まあ、君がそう言いたくなる気持ちも分かるが」
そう前置いてから、言葉を選ぶように、ゆっくり続ける。
「帰る場所があるのは、いいことだよ。君にとっても、……もちろん、我々にとってもね」
長椅子の背に腕を回し、いつもの調子で言い添える。
「それに、王宮の従者がついたということは、国としても君を見捨てたい訳ではない、ということだろう」
そうだろうか。
価値など、とうにないに等しいのに。
「さあ、お兄様も久しぶりにどうぞ」
エミリアが差し出した葡萄酒を口に含む。
甘く、芳醇なモルフォンドの酒だ。
大して飲めはしなくとも、身体はよく憶えていた。
ふと、厨房の方から楽しげな声が上がった。
女中たちがシンディを囲んで、何か言っているらしい。
シンディが照れたように言い淀む声が、かすかに聞こえてくる。
「……美味しい」
ぽつりと呟くと、エミリアが嬉しそうに笑った。
セリウスも、つられるように笑う。
変わらずあり続けるものがある。
そして少しずつ変わっているものもある。
自分がいた頃と、いなくなった後と——
これからも、きっと。
そのことに、安堵していた。
**
つい先日、少年を救ったベアラーはどこへ行ったのか。
王宮か、教会か、それともまた旅に出たのか。次はどこに現れるのか——
そんな囁きが、街のあちこちで交わされ続けていた。
病める者の期待も、私欲を満たしたい者の欲望も、信仰に酔った者の祈りも、すべてが「次」を求めていた。
そんな中、恐れていた事態が起こった。
「そのベアラーは、無事なのか?」
ローワンがその知らせを受けたのは、噂を流し始めて数日も経たない内のことだった。
北寄りの小さな寒村で、一人の若いベアラーが襲われる事件が起きた。
恋人にだけ打ち明けていたはずの秘密は、いつの間にか村中に知れ渡っていた。
「はい。幸い彼女の恋人がそばに居て、未遂に済んでいるそうです」
「そう……それなら、良かった」
息を吐く。本心からの安堵だった。
「それで、今は?」
「教会に保護されています」
「……そう」
救われた。確かに、命は。
けれど——。
「……未遂で済んだのは、不幸中の幸いですね」
沈黙を破ったのは、エドガーだった。
淡々とした声色は、いつも通りだ。
「そうだね。恋人が居なければ、どうなっていたか分からない」
人は、奇跡を信じたいのではない。
——確実性が欲しいのだ。
努力すれば報われる。願えば叶う。正しく祈れば、選ばれる。
その幸いは、特別な誰かにだけ与えられるものではなく、自分にも、いつか、必ず回ってくるのだと。そう信じていたい。
もはや、奇跡は信仰ではない。
保険だ。
外れた時に責める相手を、当たった時に誇れる理由を、人は必要としている。
だからこそ——それを一身に背負わされた存在は、危ういのだ。
ローワンは気を紛らわせるように、手元の覚書の端を絶えず指でなぞる。
「ですが——」
エドガーが沈黙を割くと、ローワンの指が、ピクリと跳ねる。
「助かった。だから良し、と言える話ではありませんね」
「……もちろん、分かってるよ」
教会は娘を保護し、そして噂を“回収"しただろう。
間違ってはいない。だからこそ厄介だった。
結局、ベアラーにとって市井での暮らしは危険で、教会の外では生きられない——。
このままでは、そう決定づけられてしまう。
それでは今までと何ひとつ変わらない。
(何という偶然か……)
奇しくも、ローワンが最初に流した噂は、かつて旧ルーカス領で起こったあのアリスという悪魔の事件を模した内容だった。
当時、王国が伏せた事実を彷彿とさせるそれは、「隠されていた真実はこれだ」と人々に思わせるに十分であった。
「不謹慎ですが……いい伝わり方ではあります」
被害者には酷だが、確かにエドガーの言う通りだった。
舞い込んだ知らせは、紛れもない事実。だからこそ人々は、ローワンが流した噂と今回の事件を並べて語り始めるだろう。
まるで同一人物の逸話のようにも、あるいは時代を越えて繰り返される“型”のようにも、受け取られて。
御子は、祝福の象徴だ。
だが同時に、人の欲に引き裂かれた犠牲者たり得た。
願いは、時に人を救い、時に神をも壊す。
今、人々が語っているのは、奇跡そのものではない。それを信じ、消費しようとした人間の姿だ。
「……その彼女に、話を聞けないかな?」
エドガーはすぐには答えず、手元の報告書を一度閉じる。
「教会の保護下です」
「ダメってこと?」
ローワンは苦く笑った。
自分でも、どこまで踏み込む気なのか分からなかった。
「お気持ちは分かりますが、殿下。
撒いた噂と今回の件は無関係です。殿下のせいではありません」
「……違うよ、エドガー。後悔してるから言ったんじゃない」
他者からの報告、それだけでは足らない。
当事者から語られる事実を知っておく責任がある。彼女がどう壊されかけたのか、本人の言葉ひとつひとつを心に留めておく責任が——。
「分かりました。
では、国として"国民"の安否を確認しに参りましょう」
「流石だね」
時は、ほろ苦い形で味方をしていた。




