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女神の国 2  作者: 大福駒子


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Noli me dimittere


 ノックの音がして、アーサーは顔を上げた。


「ん? ああ……来たか」


 名簿を閉じ、コリンに視線だけで合図を送る。

 控えめに扉が開き、その向こうから、歳の離れた友人が入ってきた。

 だが、その表情は硬い。


(……また余計なことを言われたな)


 先ほどまで向かいに座っていた宰相の顔が、自然と思い浮かんだ。

 遠回しで、しかし決定的な言葉を選ぶ男だ。この様子では、相当抉られたに違いない。


「陛下、お待たせして申し訳ありません」


 律儀に礼を取る姿に、アーサーは小さく息を吐いた。


「いや、いい。座れ」


 言って、書卓の前の椅子を指し示すが、セリウスはすぐには腰を下ろさなかった。


 ——来る前に、腹を括ってきた顔だ。


 声も姿勢も乱れてはいない。だが、それがかえって、胸の内を雄弁に語っていた。


「……かねてからトルキアと進めていた話だが、向こうの承諾を得られそうでね」


 アーサーが切り出すと、セリウスの指先がわずかに強張った。

 それでも、気付かぬふりをする。


「我が国から使節団を派遣する。それで……条件がひとつある」


 ——それが最善の方法だから。


「ベアラーを寄越せと。王子様はお前をご所望だ」


 静かに友を見据える。


「……タリク王子が?」


「意外か?私には、かなりご執心のように見えたが」


「ですから……妙な言い方はおやめください」


 嗜める声にも、いつもの張りがない。


(随分と、弱っているな)


「……それより、市井はそれほど燃えているのですか?」


 セリウスが話を逸らすように訊ねた。


「ああ。これからな」


 ローワンの策がどういう結果をもたらすか、まだ分からない。

 だからこそ、今のセリウスを王宮に置いておくわけにはいかなかった。


「そういう訳で、教会側にも話を通した。トルキアからの要請ならば仕方なし、と既に承諾も得ている」


 アーサーは一度言葉を切った。


「約束と違う、などとは言うなよ。今はそなたの行動を制限しない方が危険だ。分かってくれ」


 打診ではない。

 決定事項だと、言外に含める。


「承知しました」


 声音は意外なほど平坦だった。


(口答えもなしか……)


 そんな顔をさせたいわけではなかったのだが。


「……正式な受け入れの書簡が届くまで、早くとも二週間はかかる」


 アーサーは続けた。


「その間、王宮に留め置きたいところだが……さすがに諸侯の目もある。そなたも心地良くはなかろう。

 王都を離れた方がいい。アルヴェルの——」


 セリウスの肩が、ほんの一瞬だけ強張る。


「どうした?」


「いえ……」


 即座に返る声は平静を装っている。

 だが、その間が不自然だった。


「喧嘩でもしたか?」


「喧嘩などと」


 苦し紛れに浮かべた笑みが、答えになっていない。


「まあ、そのあたりは任せる」


 それ以上は踏み込まなかった。

 二人のことは、自分が知る必要はない。

 国王は何も知らない。それでいい。


 国の判断としては、それで十分だった。


**


 呆れたような顔で、アーサーがこちらを見ている。


 今さら何もないとは思っていないだろう。

 それでも、ここであっさりと弟の名を出す。


 ——彼の恐ろしいところだ。


「……モルフォンド領に厄介になろうかと」


「ほう、そうか。……うん。それなら安心だな」


 思いもよらない返事だったのか、アーサーは数度瞬いてから頷いた。


「では、決まり次第そちらに通達する。そのつもりで」


「承知しました」


 静かに礼を取り、退室する。


 扉が閉まったところで、セリウスはようやく小さく息を吐いた。


 すぐにでも荷物をまとめて、ここを発とう。


 アーサーが彼の名を口にしたとき、ようやく腑に落ちたのだ。


 ——だからアルヴェルは、エミリアに会わせたのか、と。


 自分の領地を選ばなくてもいいように。

 それとも、私がまたどこかへ逃げてしまわぬように?


(……まるで信用がないのだな)


 そう思って、すぐに苦笑する。


 当たり前か。


 実を言えば、あの枢機卿の言う通り、教会に身を置くのが最も良いのではないかと考え始めていた。

 こんな自分に良くしてくれた人たちへ、これ以上迷惑を掛けたくなかったからだ。


 けれど、そんな考えさえ見越したかのように、アルヴェルによって既に道が用意されていた。


 情けない。

 屈辱的ですらある。


 いつも見えないところで助けられ、守られている。その度に、アルヴェルの存在が遠くなる。


 そんなことを思っているだなんて、きっと本人は知る由もないだろう。


(そういえば……)


 ふと、先ほどの言葉が蘇る。


 『アルヴェルの——』


 あの時、アーサーは何を言おうとしたのだろう。


 諦めろ。


 清算しろ。


 そんなところだろうか。


 どうせ二週間後にはトルキアへ行く。

 では、アルヴェルが問うたのは。


 その前に、最後の時間を過ごすか——と、そういうことか?


「まあ……そうか……」


 むしろ、その方がよっぽど妥当だろう。


 覚悟を聞いたわけではなかったのだ。

 アルヴェルが自分なんかのために、国も教会も裏切るはずがない。


 一瞬でもそんな風に理解した自分が忌まわしい。

 身の程知らずに自惚れて。


 どうせ遅かれ早かれ、力を失ってしまうだろう。

 それならまだ、価値のあるうちに——


 悪魔ではなく、女神の使徒として全うしたい。


 


**


 アルヴェルは窓辺の椅子に腰を下ろし、手元の書物を閉じた。


 ——「話は……また、機会があればいい」。


 ……機会、か。

 そんなもの、来るはずがないだろう。


 先ほどの反応が、胸に堪えていた。


 いくらでも待ってやるつもりだった。

 どれだけ時間がかかってもいい。

 セリウスが言うように、同じ目線で向き合える日が来ることを、アルヴェル自身も願っていた。

 けれど、もう悠長なことを言ってはいられないのかも知れない。


「まったく……待ちぼうけてばかりいるな」


 情けなくて、滑稽で、笑える。

 それでも。


 アルヴェルは立ち上がり、椅子に掛けていた外套を手に取った。

 微かに残る消毒と香草の匂いを、確かめるように抱き寄せる。


「……なに、しているんです?」


 扉が開く音とほとんど同時に、セリウスが言った。


「相変わらず物音を立てないな。陛下との話は終わったか?」


「何をしていたんです?」


「……淋しくて?」


 冗談めかして言ったつもりだった。

 けれど、つい感情が乗った。

 事実だったからだ。


「……」


 戸惑うか、顔を真っ赤にするかと思った。

 だが、セリウスは先ほどよりもずっと、死んだような顔をして立ち尽くしていた。


「なあ、一緒に行こう」


 仕切り直す。

 選んでもらおうだなんて、もう考えない。駄目だった時は他人に預ける用意をする——そんな弱気なこともしない。


「……来て欲しい」


 そうじゃなきゃ——

 どこかへ行ってしまう気がした。


 なのに。


「……いえ、帰ります。陛下にもさっき、モルフォンド領へ向かうと伝えたところでした」


 セリウスはそう言うなり、アルヴェルの目の前まで歩み寄る。

 外套とは異なる、セリウス本来の柔らかな匂いがした。


 思わず抱きしめたくなったけれど——

 セリウスはアルヴェルが抱いていた外套を抜き取り、淡々と羽織った。


「どこへ?」


「言ったでしょう? 帰ります」


「今?」


「はい。不孝を謝らなければならないし、きちんと……挨拶をしないと」


「なあ」


「何です?」


「なぜ、こっちを見ない?」


 さっきからずっと、こちらを見ようともしない。

 今も背を向けたまま、外套の釦を留めている。


「……すみません」


「いや、怒ってるんじゃない」


 声が微かに縮こまったことに気付き、アルヴェルはすぐにそう切り返した。


「勝手に部屋に入ったのは悪かった。それから、その……外套も」


 腕を掴んで振り向かせたら、怒るだろう。いや、怖がるかもしれない。最近は殊更に拒むから。


「なあ……もう、うんざりか?」


「どうして……!」


 書物や筆記具を鞄に詰め込んでいたセリウスの手が、ようやく止まった。


「なぜ殿下が……そんなこと言うんです……」


 顔が見えない。


 それが、こうも不安にさせる。


 アルヴェルは振り向かせる代わりに、ほんの少しだけ近づいた。


「違うなら……やっぱり、どこか悪いのか?」


 セリウスが小さく息を詰めた。


「力の加減を間違えたなんて、嘘なんだろう?お前、また……。ほら、手を貸せ。しんどいなら力を——」


「やめ……!」


 セリウスは咄嗟にアルヴェルの手を払い退け——そんな自分に驚いた顔をした。


 ひゅっ、と短く喉が鳴る。


「あ、違う……違い、ます!そうじゃない……!ごめんなさ……」


 様子が——。


「セリィ?!」


 崩れかけた身体を抱き止めた。

 軽い。


 セリウスは胸を押さえ、浅く短く息を吸っては、うまく吐けずにいる。

 まるで溺れているようだった。


「ちが、……わた、し……ハァ、ハァッ」


 唇の色が悪い。


(どうすれば……)


 震える指が、溺れまいとするようにアルヴェルの腕を強く掴んだ。


「ハッ、ハァッ、殿……」


「もう、喋るな——」


**


 どれほど経ったのか。


「は、……ふぅ」


「落ち着いてきたか。お前の方が要領を心得ているだろ? そう……ゆっくり、深く息をするんだ」


「ふう……は、……はぁ……」


 長い間アルヴェルの袖を掴んでいた指は、白く冷たくなっていた。


 ようやく全身の強張りが解れると、呼吸は深い寝息へと変わった。


 アルヴェルはそのまま寝台へ彼を横たえ、汗ばんだ額を拭ってやる。


 規則正しく胸が上下している。


 それを確かめてから、ようやく息を吐いた。


 ——怖かった。


 このまま消えてしまうのではないかと、思った。


 セリウスの纏う泉の気配が弱々しく、与えた加護を還しても、手応えがなかったからだ。


 やはり教皇の言った通り、セリウスは役目を——?


 だとしたら。

 セリウスは、どうなるんだ。


**



 翌日には、セリウスはモルフォンド領へと護送された。

 あの発作は——強いストレスによるものだろうとエルネストによって結論付けられた。


「気力が落ちとるとは思っていたが……これはノイローゼだな。ずっと無理をし続けていたのだろう」


 目を覚ましたセリウスは、アルヴェルの姿を認めると、一瞬だけほっとした顔をした。


「これ以上、お手を煩わせることは出来ませんし……モルフォンド領へ帰ります。……可愛い妹も待っていますから」


 セリウスはエルネストにそう告げ、あとはキャリッジの用意が整うまで一言も発さず、じっとしていた。

 一人にしておくには危うい。そう思ったのはエルネストも同じだった。


「ここにいたとて、セリウスにとっては苦痛でしかないだろう。それに実家なら安心だろう」


 想定通りじゃないか。


 自分が選択肢を与えたくせに、いまさら何を落ち込むことがある。





 セリウスを乗せたキャリッジが門を出てゆくのを、アルヴェルはぼんやりと眺めていた。


 その背後で、躊躇いがちにノエルドが訊ねる。


「あの状態で……二週間後には海を渡らせるんですか?もう、そのまま領地に居る方が良い気がしますが」


「それはそうだが、いくら領主一族の養子とはいえ、これから風向きがどう変わるか分からん」


「……でしたら、連れ帰れば良かったでしょうに」


 ノエルドにしては、わざとらしく少しムッとした声だった。


「なんで怒る?」


それがなぜだか可笑しくて、声音に苦笑が混じった。

 慰められている気がしたからかもしれない。


「怒ってはいません。叱っているんです。……この! この!」


 振り向いたアルヴェルの肩を、ノエルドがぺしぺしと叩く。

 叱責だと言ったが、その手はやはり、慰めるように温かい。


「殿下がしっかりしないとダメでしょう……!」


「そうだな……俺が悪——」


「あの……」


 背後から声を掛けられ、ノエルドがすっと身を引く。


「これは一体……」


「……失礼しました。さ、殿下。これで汚れは取れましたよ」


 何食わぬ顔でノエルドが脇へ下がるのを待って、アルヴェルは来訪者に向き直った。


「忙しいときにすまない、エドガー。……少し聞きたいことがある」


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