Amor et Superbia
夜会の名残をまだ引きずっているような、柔らかな光が長卓を満たしていた。
王宮の朝は思いのほか静かで、すでにテーブルウェアが不足なく整えられた食卓には、上座から順に、アーサー王、その隣にソフィア王妃。それから三人の子供たち。アレックス第一王子、ロサリア第一王女、フローラ第二王女、そしてローワン王弟。
タリクは一礼し、勧められた席に腰を下ろした。
(……余計な人がいないと、また違って見える)
そう思いながら視線を巡らせて、ふと、止まる。
探していたわけではなかったけれど、王族の面々が整然と並んでいるのを見ると、彼はやはり公には認められていない存在なのだと改めて思い知る。
昨日まで、自分の傍らにいた人物。王族でも、従者でもない。ここには初めから存在し得ない存在。
それでも、昨夜アーサーに打診した話は早急に教会へと進達したようだとナズが言っていた。その対応の速さが、かえって王宮の“無関心”が建前に過ぎなかったことを示していた。
それに、少なくともローワンは、個人的な情をセリウスに向けている。加熱する信仰により、セリウスは市井に喰われかねない。そして彼自身はおそらく、その力を失いかけているのだろう。隠してはいたが、昨日の口ぶりからしておそらくこの推察は、そう的外れでもないはずだ。
「どうした?タリク殿下」
不意に、アーサー王の声が落ちた。
「誰か探して……ああ、アルがまだ来ていないな。まったく客人をお待たせするとは」
揶揄うような笑みに、場の空気がふっと和らいだ。
「いえ……。昨晩と同じ空間に思えなくて」
タリクも考え事を追いやる様に、曖昧に首を振った。
「はは、そうだろうな。ここは本当は昼間の方がいいんだよ。庭園も、王都の景色もここが一番よく見える」
「ええ、おっしゃる通りですね」
意識を完全に今に戻し、笑って応じた視界の端。
卓の末席に、ようやくアルヴェル王弟が静かに腰掛けた。
簡素な装い。昨夜の宴といい、今朝といい、その存在感を意識的に抑えている。
若くして国王となったアーサーを、無二の兄弟として、最も忠実な臣下として支え続けてきた人物——。
クーデターを疑われ、時を同じくしてローワンが王宮入りした。結局、本人の意思とは関係なく祭り上げられただけだったが、関係した反王政勢力諸共に自ら責を負ったと聞いていた。
継承権は剥奪されたのではなく、辞退したのだと。
(……そういう話だった、はずだ)
今は左遷されたような地で、妃も娶らず日々国境を睨みつけているのだと揶揄するものもいたが、従者たちの口ぶりでは相変わらず人気が高そうだった。
タリクはアルヴェルの背後に立つ侍従に、ふと視線が吸い寄せられた。
(あれって確か……)
町で見かけた二人組を裏で手引きしていた男。
そして、馬から下ろしたセリウスを、さりげなく自分から引き離したのも彼だ。
アルヴェルが僅かに顔を上げ、視線が合う。
まずい。……じろじろ見ていると誤解されたか?
(いや、見ていたには見ていたんだけど……)
今更目を逸らすのも余計に怪しまれる気がして、タリクは思わず息を詰めた。
だが男は僅かに口角を上げ、ほんの挨拶程度の笑みを寄越す。
(さすが……。試練を乗り越えて来た男は違うってか)
タリクは、背筋を正して応じる。こっそりと息を吐いた時には既に彼はこちらから視線を外していた。
*
朝餉が終われば、王族たちはそれぞれの動線へ散っていく。タリクもまた、案内に従って迎賓館へ向かっていた。
「タリク殿下」
廊下は広く、音がよく響いた。
少し高音の柔らかい声。ローワンだ。
振り返れば、公の場で見せる顔ではない、数日前に庭園で話した時のあの表情だった。
「少し、いいですか」
「もちろん」
年下らしい甘えたような問いかけに頷くと、二人は廊下の脇に設えられた小さな庭へと歩き出す。
空気はまだ寒いが、太陽が昇るのはこの国に来た日よりいささか早く、長くなっていた。
「先日の会談の後、話したことなんですが……改めて、決めました」
ローワンは立ち止まり、そう切り出す。
迷いのない声音だ。
「やっぱり僕は、セリウス個人もベアラーという存在も……どちらも神話の檻から出してやりたい」
タリクは、思わず笑った。
「そう言うと思った。ずいぶんすっきりした目をしているもの」
「そう……見えますか?」
「うん。面白いことを思いついたみたいだね」
背中を軽く押すように「君なら、やれるさ」と付け加えれば、ローワンは少しだけ目を伏せ、照れたように口元を緩めた。
随分嬉しそうだ。
ベアラー達よりもセリウスという個人を先に口にする辺り、やっぱりローワンにとっても彼は特別なのだ。
「……まあそうか」
市井で聞いた話を、ぼんやりと思い出す。
「そりゃあ……自分の命を助けてくれた相手を、特別に思うなっていう方が無理だよね」
冗談めかした口調だったが、そこに小さな苛立ちも混じっていたことに自分でも可笑しくなって、小さく苦笑した。
けれど、そんなタリクに反して、ローワンは一瞬きょとんとすると、すぐに可笑しそうに笑った。
「……驚いた。その話は市井で聞いたんですか?まったく……人の口に戸は立てられない」
噂には流れるだけの理由がある。
だが、もう時効だとでも言うように、ローワンは特に隠す様子もない。
そして、次にタリクが聞くことになったのは、あまりにも自然な否定だった。
「でもそれは僕じゃない」
言わなくても明白だったからか、立場上明言を避けたのかは分からないが、ローワンはそれ以上の説明を避けた。
「まあ……もちろん特別ですよ。贔屓してるって言われても仕方ない自覚はある。……だって彼は、王族になる前の僕を知っているし、僕だけが、人の輪に囲まれていた……ただのセリウスを知ってるんだから」
ローワンは空を仰いで、柔らかな声で続ける。
「今はもう、立場も関係性も変わってしまったけれど。でも……あの頃みたいに、心から安心して、笑って欲しい。
だって僕は最初から、そういう国を作りたくて、自分の血に従ったんだから」
王族の口から出るには、あまりに素朴で、家族を思うような平凡な願いだった。
「……なるほど」
タリクは、軽く息を吐く。
「君らしい」
不思議な青年だ。
話していると、あまりに純粋で、つい心配してしまいそうになる。けれど目的の為なら、何者にも屈しないという精神が、その親しみやすい笑顔の下から見え隠れしている。
「ローワン殿下」
「はい」
改まって名を呼べば、ローワンはピシリと姿勢を正した。
「僕の国でセリウスが除け者にされたり、下手に注目されたりすることはない。だから、安心して」
どうせ、"セリウスを使節団員に"と打診したことは耳に入っているのだから、わざわざ言ってやる必要もなかった。
だが、これはせめてもの餞別。それと、先程の回答のお礼だ。
「……そうですか。それは、よかったです」
そこは、顔に出すのだな、とタリクは思った。
*
タリクは再び迎賓館へと向かう。
だが数歩進んでから、不意に足が止まった。
「いかがしました?」
すぐにそう問うてくるナズに「ううん」と短く返してみたが、
「セリウスに挨拶するの忘れてたなって」
結局は彼の名を口にした。
「お会いになりますか?」
「いや、いい。帰りたくなくなっちゃうでしょ?」
ナズはほんの一拍逡巡したあと「そうですか」とだけ言って、タリクが再び歩き出すのに合わせて向き直った。
『それは僕じゃない』
その言葉が、頭の奥で反響していた。
命を救われた王弟。
ずっと、それはローワンだと思っていた。
(……王弟、アルヴェル)
末席に座っていた、あの男。
強すぎる存在感を、意図的に抑えていた理由が、ようやく腑に落ちる。
三兄弟の中で、彼だけがセリウスと言葉を交わさず、視線すらも合わせていない。年頃も同じで、長く王宮にいたセリウスとは親しくないまでも挨拶くらいはあってもおかしくない。
だから最初は嫌っているのかと思ったほどだ。
でも違った。
ここ数日、王弟アルヴェルはほとんど従者を伴わず、体裁を整える程度にしか姿を現さなかった。だから今朝になってようやく気づいたのだ。
ノエルドが、彼の侍従だったことに。
(……つまり、だ。)
あの王弟が、セリウスに尾行を付けていた。
王宮は表向き、彼を干渉も庇護もしていない。だが、ひっそりと監視を続けていたのか。
表舞台から退いた——王弟、アルヴェルを使って。
それはやはり、王族が彼を囲い続けるため?
違うな。少なくともそんな狙いがあるのなら、こちらの要求をああもすんなりと受け入れはしなかったはずだ。
むしろ、保護だといってこのまま王宮に連れ戻す方が遥かに手っ取り早い。だって、一度海を渡れば、セリウスはこの先もう二度と、この国に帰れないかも知れないのだから。
ローワンの理想はどうあれ、国王は教会との均衡、市井の状況を見て、セリウスを上手いこと逃した訳だ。
でも……。そんな判断のできる人が、わざわざずっと監視し続けるなんて、そんなまどろっこしいことをやるだろうか。
どうにも腑に落ちない小さな違和感が残った。
(まあ……僕には関係のないことだけどさ)
監視だろうが、警護だろうが。
他国の人間である自分に、その理由も善悪も干渉する権利はない。
それなのに、自分こそがセリウスが繋がれている見えない鎖を外してやれるかもと、もうずっと、いけない期待をしていた。
*
それから一刻も経てば、すでに外では出立の準備が整っていた。タリクが姿を現すと、見送りの一行が静かに動く。
「道中の無事を祈っています」
従者たちの先頭で、ローワンが微笑んだ。
「ありがとう。次に会う時は、もっと気楽な立場で話したいものだ」
穏やかに応じると、タリクはキャリッジへと乗り込む。
扉が閉まると、タリクは小窓からローワンに向かって手を振った。ローワンはさっきより砕けた笑顔を見せた後、従者と共に礼を取る。
胸がくすぐったくて、温かい。弟がいたらこんな感覚なのだろうか。
キャリッジはコンコースを抜け、迎賓館の敷地に沿うように進んでいた。
次第にローワンたちが小さくなってゆく。
結局セリウスとは挨拶を交わさなかったが、まあ、またすぐ会える。
そんなことを思って、カーテンを閉じようとした。
「あ……」
セリウスと歩いた庭園——その、アカシアの咲くパーゴラの下。
「……セリウス」
彼は淡く笑って、礼を取った。
目立たぬ様に、あえてその場を選んだのだろう。
小高い丘になっているそこは眺めが良く、おそらくは初めから、そして見えなくなるまでセリウスはそこにいる気だった。
(律儀だなぁ)
小さく笑みが溢れた。
けれど。
すぐに、まるで誰かに呼ばれたかのように、セリウスは背を向けた。
彼の視線は、館の方から上がってくる人物に向けられている。
嫌に既視感のある、地味な外套の色。
決して小柄でないセリウスですら、か細く見えてしまうほどの、がっしりとした体格。
(……うっそ)
自室で無防備に眠る自分を見守ってくれたあの時間。あのアカシアの下で本心を垣間見せたあの距離。
特別だと思っていたのに。
セリウスに向かって、アルヴェル・バルセニウスは笑っていた。
おそらく彼以外には見せたことのない、甘く柔らかな笑顔だった。
*
一団が前庭を出て行くのを確認し、セリウスは下げていた頭を、ゆっくりと上げた。
「セリィ」
それを待っていたかのように、名を呼ばれた。
穏やかで、よく通る声。
見なくても分かる。ここで自分をそんな風に私的な名で呼ぶのは、彼くらいなのだから。
セリウスは反射的にその声の方へと向き直った。
「おはようございます」
「……うん、おはよう」
アルヴェルはゆったりとした歩調で坂を登ってくる。やや見下ろすような位置に自分がいることが、少しだけ落ち着かない。
「ご挨拶は、よろしかったのですか」
「ああ、さっき済ませた」
そんな会話をしているうちにあっという間に登りきり、もうほんの数歩のところまで近付いてくる。
「……これから、どうするつもりだ」
また、茜の瞳に捕えられてしまった。
「……このまま王都に留まるのは、あまり利口な選択とは言えないが」
笑みはそのままなのに、どこか慎重な色を帯びている。
諭すようでいて、断定しない。
問うているのだと、セリウスは理解した。
「……その、」
少しの沈黙。
「俺の領地に来るか?」
命令ではない。誘いでも、保証でもない。
ただ、選択肢として差し出された問いだった。
(いつもなら……)
セリウスは言葉を探し、見つけられずに視線を落とす。
きっと、断るだろうと彼は思っているだろう。
その予感が、逆に胸を締めつけた。茜の瞳は、答えを急かさず待ってくれているのに。
求めているのに、押しつけない。
その距離が、ひどく優しくて——残酷だった。
セリウスは、息を整えるように小さく息を吸った。
「えっと……」
言い淀む声に、ほんの一瞬、アルヴェルのゆるく弧を描いていた唇が、きゅっと結ばれた。
——ああ。
それだけで、察してしまう程度には長い付き合いだった。
「あ、えと……」
セリウスは視線を彷徨わせる。
(……熱い)
頬どころじゃない。顔面から火を吹いている気分だった。
分かっている。
アルヴェルはただ、自分の置かれている状況を心配して尋ねただけなのだ。
そこになんの他意もない。
だから自分は、ただ頷くだけ。
それだけでいいはずなのに。
それすら、どうしても出来ない。
(……意気地なし)
足元でジャリっと、小石を踏む音がして
「陛下に……朝餉が済んだら来るようにと言われていたんでした」
セリウスは、逃げるようにそう言った。
頭では、もう一人の自分が「だめだ」と制していたのに。
それでも、一度口を開いたら止まらない。さも今思い出したように言っていた。
真っ直ぐ見つめられるほど、意識してしまって、怖くなる。自分の招いた厄介ごとのせいで困らせているはずなのに、浮かれそうになっている自分がひどく気持ち悪かった。
沈黙の中で、アルヴェルが小さく息を吐いた。
「そうか」
声は、ただただ穏やかだった。
責める色も、失望も、押しつけもない。
「呼ばれているなら、行け。待たせるのは良くない」
それだけ言って、いつものように軽く笑う。
「話は……また、機会があればいい」
——“来い”とは、最後まで言われなかった。
セリウスは、もう一度頭を下げる。
「……失礼します」
背を向けて歩き出した瞬間、胸の奥に、じくりと遅れて痛みが走った。
それでも、振り返らない。
振り返れば、きっと——。
ただ頷くだけのことが、どうしてこんなにも遠いのだろう。
回廊を抜け、王宮内の廊下に出ても、セリウスは足を緩めなかった。
むしろ、無意識に早まっている。
向き合いたい。
けれど、向き合えない。
自分の中に芽生えた、あまりにも貪欲な感情が怖かった。一度受け入れてしまえば、きっと——離れられなくなる。
そうなれば、離れなければならなくなったとき、もう耐えられそうになかった。
「——セリウス殿」
不意にかけられた声に、はっと顔を上げる。
数歩先に立っていたのは、思いがけない人物だった。
「さ、宰相殿……!」
「珍しいですね。そんなに急ぎ足とは」
「すみません。少し、考え事をしておりまして」
慌てて一礼する。
その仕草の上に、ふっとため息が落ちてきた気がした。
「……派手に王宮の理を覆した割に、随分とあっさり出戻りましたな」
案の定の嫌味。
セリウスは静かに顔を上げると、穏やかな笑みを貼りつけた。
「……ご心配には及びません。すぐに王都を発つつもりですので」
「ほう」
宰相は細めた目で、じっとこちらを測る。
値踏みするようでいて、どこか試すような視線だった。
「では、今朝の件も耳に入っておりますかな」
「……何のことでしょう?」
「おや、まだご存知なかったか」
宰相の細い瞳がまた更に細くなった。
「トルキアへの使節派遣にあなたの名も、挙がっております」
セリウスは、一瞬だけ言葉を失った。
「さすが陛下だ。実に素晴らしいご英断。
巷ではまた御子に関する話題が浮上している。このままではまた、他意のない王弟殿下にまで噂が飛び火しかねん」
宰相はそう言いながら、口元だけで笑う。
「教会は……」
「 はは…、王宮を慮るとはいじらしい。心配せずとも喜んで同意したと聞いています。貴殿には、しばし国外で静養せよ、といったところでしょうな」
「……ですが、王宮も教会も、もう私に情けを掛けないはずでは——」
「恥を知りなさい!
看過できぬ事態を招いたのは貴殿ではないか!」
回廊に、宰相の声が反響した。
「……すみません。出過ぎたことを申しました」
「いや、うむ。……私もつい、熱くなった」
宰相の言っていることは正しい。自分が彼の立場でも、同じことを思うだろう。
だから、異論はない。
「……まだ王太子も幼い。ローワン殿下も、
アルヴェル殿下も、これからが大事なのです。貴殿ならよく分かっているでしょう?」
*
国王の執務室までの長い廊下を、セリウスはとぼとぼと歩いていた。
(……良かった)
アルヴェルの問いかけに頷かなくて、本当に良かった。
先ほどの宰相の言葉を借りるなら、自分の存在は、またアルヴェルを傷つけてしまうから。
(分かっていたことだろ……)
アルヴェルと再会してから今日まで、一度も自分から会いに行ったことはなかった。
来い、と言われたことはない。だが、来られる場所と時間は、いつも整えられていた。
視察、返礼、いくらでも名目を誂えて。
理由がなければ怖くて、近付けない。そんな私を知っているから。
「来い」と言えば、抗えない私を知っているから。
そんな私の最低限の妥協を見極めるようにして。
『俺の領地に来るか?』
不意に蘇るその声に、胸の奥がひくりと鳴る。
(……あんなふうな、聞き方をするんだ)
今日に限って、名目も理も用意せず、ただ“来るか”とだけ、尋ねるだなんて。
私の覚悟を、知ろうとしたのか。
試したのか。
それとも、もう——理由など要らないと、そう思ったのか。
アルヴェルのそばにいたい。
確かにそう思った。けれど、その気持ちが本当に自分から生まれたものなのか、それすら今の自分には分からない。
泉の力を取り戻したいだけかもしれない。
あるいは、長い年月をかけて刷り込まれたものなのかもしれない。
そして、それを確かめることのできる唯一の人にだけは、尋ねることができなかった。




