The noise behind the curtain
昨日、ローワンが持ってきた話は実に愉快なものだった。
いま再び象徴となりつつあるセリウスの厄介な噂を“不揃いな神話として書き換える”——そんな内容だった。
以前に持ち込んだ政策を自ら汚し、型を破って生まれたそれを渡されたとき、さすがに笑いを抑えられなかった。
(……短期間で随分と、王族らしくなった)
『ティアベアラー』と呼ばれる存在は何者であるのか。彼らは如何にしてそう呼ばれ、この国の歴史を紡がされてきたか。
事実として追わせるのではなく、脚色あるいは誇張したそれは、下手をすれば神を貶めたと見做され兼ねない。だがあくまで"噂"だ。
教会が不都合を隠し事実を"整えた"ように、その不都合が誰彼ともなく囁かれたとして、彼らは何も言えまい。
「コホン……」
さて、それからもう一人。
(あの若造。一人しか知らん癖に、ベアラーを"数人"とはな……)
タリクが一礼し、人波に飲み込まれる頃、アーサーは喉の奥で、短く息を鳴らした。
ちょうどいい。その程度のことだ。
いばら道を厭わないローワンの覚悟は賞賛に値するが、ベアラーへの誤った期待を正すための新しい神話は、あの子が考えるほど簡単には浸透しないだろう。
時間を要するのは明らかで、その間に、教会にも王宮にも守られていないセリウスは、最悪どこかで消費されてしまう可能性が高い。
次は指二本では済まないかも知れない。
国外に出してしまえば、友の安全は守られる。
それを、国王然としてやればいいだけの話。
それで恨まれるなら、それも王の務めだ。
その先にセリウスが安息を得られるのならまたそれも良いかも知れないと思う。
あの第三王子の思惑がなんであれ、願ったり叶ったりというものだ。
(だから隠しておけば良かったものを、アルヴェルめ)
アルヴェルは、間違ってはいない。
セリウスを縛らず、選ばせ、自由を尊重した。その選択は人として美しく、また恋人としては誠実で優しい。自覚の無かった若い頃の様な強引な手段を選ばなかったのは、彼なりの覚悟でもあったのだろう。
だが、私は王だ。
憎まれると分かっている手段を敢えて選ばなければならない局面がある。
国の平穏を守るため、そして、より確実に彼の命を守るために——他のすべてを奪う覚悟を持たねばならない。
お前が個人的にあれを囲おうと見逃してやれたのに、中途半端な自由を与え、危険に晒した。
それは、アルヴェル——お前の失態だろう。
残念だがこうなった以上、私がやるしかない。
友が生き延び、その先で選び直す余地を残せるのなら。しかもその手段が、若き弟の描く未来への新しい一歩となるのなら。
「……やれやれ。今夜の主役は、どうにも嫁探しに身が入っておらんようだな」
杯を傾けたまま、アーサーは独り言のように言った。
一拍置いて、視線だけをアルヴェルに向ける。あの地獄耳が、聞いていないはずがなかった。
「選択肢の外から、お気に入りを持ち帰るつもりかも知れんよ、アル」
アルヴェルの視線は自分でもタリクでもなく、広間の向こうに向けられていた。
「……国のことは、兄上が考えればいい」
「おや、諦めるのか。張り合いがないな」
「いいえ」
アルヴェルは視線を固定したまま静かに答えてから、漸くこちらを見た。
「それで、先ほどの使節の話ですが」
「うん?」
これ以上は話したくないのか、アルヴェルは話を即座にすり替える。
「今回の技術交流に名乗りを上げる商工人は過去最高人数とか。ローワンが国策の一端として出した以上、これまでの様に単なる商工使節団として遣わすには規模が大き過ぎます。まして……これにベアラーを数名連れて行くとなると、王家としても看過すべきではないかと」
口ぶりは淡々としていたが、まあよく喋る。
アルヴェルを寡黙だなどと称する者がいるが、そうじゃない。
「……ほう、それで?」
アーサーは楽しくなって、それでも顔には出さずに問うてやる。
弟の口元に薄らと悪戯めいた笑みが浮かんだ。
「私を今般の使節団団長に、任命して頂きたい。
経験も立場的にも、丁度いい。万が一海難事故に見舞われたとて、王太子やローワンに比べ、私が欠けても何の差し障りもない」
そこまで言って、下手な笑顔を見せる。
「如何でしょう?」
一瞬の沈黙。
それから、アーサーは堪えきれずに吹き出した。
「はは……っ、本当に。最初から、そのつもりだったな」
笑いながら、首を振る。
「いやいや。だが……私が許可しなければこの話は終わりだぞ?」
「それは、どうでしょう」
アルヴェルは不敵に笑う。
「反対なさるのなら個人的に渡る手もありますが……今私が管轄する西方地区で進めている事業、陛下も推し進めたいはずです。
いくら愚弟の行動が憎くとも、そんな合理的でない事をなさるお方ではないでしょう?」
救いようのない莫迦だ。本当に私の弟か?
「……好きにしなさい」
アーサーは言った。
「ありがとうございます」
軽く一礼して、アルヴェルは人波へ戻っていく。
到底、王にはなれない。
だが王でないからこそ、見える景色があるのだろう。
人波に消えていく弟の背を眺めながら、アーサーはふと思う。
——もし自分も王でなければ、同じように生きられただろうか、と。
「羨ましいだなんて、くれぐれも思わないで下さいませね」
羽扇子で口元を覆いながら、隣からソフィアが釘を刺す。
「……まさか」
「どうだか」
*
ここは相変わらず騒がしい。
友好国の王子は噂に違わずハンサムなだけでなく親しみやすい人柄だと、ここにいる令嬢の誰もが浮き足立っていた。
けれど彼女にとって、その賑わいはただの背景にすぎなかった。
(……やっぱり来なきゃよかった)
淡いモーブ色のドレスの裾をほんの少し持ち上げ、エミリアは広間を見渡した。コルセットも息苦しいし、香油が混ざり合ったこの空気も好きじゃない。
挙句、いくら待っても待ち人は来る気配すらない。
エミリアは数歩前にある従兄の背中に手を当てる。
「どうした?エミリア」
「……少し疲れたの。アランお兄様、私少し休みたい」
呼ばれたアランは少し屈むようにしてエミリアを見る。心配そうに眉を下げた顔は、彼の父ベルトランよりも、むしろシャルルに似ていた。
「そうか、すまない。散々付き合わせてしまったね。そこの椅子に腰掛けて休んでいるかい?なるべく気にしているから、何かあったら——」
「やあやあ、ここにいた!モルフォンド"侯"!」
言い切る前にまた一人誰かがやって来たようだった。
「ご無沙汰しております——」
挨拶を交わす二人の視界から逸れるように、エミリアはそっとアランの背後に下がったはずだったが、
「ところで、お連れのご令嬢は?君のところは男のチビちゃんしかいなかったはずだろ?まさかこんな大きな娘さんを隠して……あ、さては」
「いえ、この子は——」
アランの言葉も聞かずに男はにやりと笑うと
「隅におけんな。爵位を継いでますます男っぷりを上げたってわけか」
と、肘で突いた。
——ああ、イライラする。
「……お初にお目にかかります、ザッケローニ伯。
シャルル・モルフォンドの娘、エミリアでございます」
男は記憶を辿るように、ほんのひととき停止した。
「アラン兄様は私から見ても夫人ひとすじなのです。そういじめないであげてくださいませ」
「ああ、いやいや……これは失礼。エミリア嬢に嗜められるとは」
男に気を悪くした様子はない。
「どうもすみません。家族への愛情が強いせいか、私を守ろうとしてくれたのでしょう」
アランが隣で精一杯の冗談を言った。
「ははは。今の様子で、完全に思い出したよ。
いやぁ、あの時はまだあどけなかったが、ますます美しくなられた」
あの時、ね。
またこの流れかと、エミリアは思った。
「殿下とは残念だったが、あなたならどこへ嫁いでも立派な女主人が務まるでしょうね」
「それは困ったな」
アランとも伯爵とも違う声がして、エミリアは声の方を見た。
人垣を割って現れたのは、愛想の良い笑みだった。けれど、視線が合った瞬間。その表情が、ふっとほどける。
「やあ、来てくれたんだね」
彼女は小さく頷いた。
「……お呼びになった事をお忘れのようね」
**
しばらくはアランが心配そうに見つめて来ていたが、エミリアはそれを振り切るようにして、ローワンと二人でテラスに出た。
「……出て来て大丈夫だった?」
ローワンが困惑した面持ちで訊いてくるのが可笑しい。
「いいのよ、散々付き合ってあげたんだから。それよりも、ただ呼んだわけではないんでしょう?」
そう訊き返すと、彼はすぐに神妙な面持ちになった。
「……君に、伝えておくべきことがある」
「なに?」
ほんのわずか、言いよどむ。それが、彼には珍しかった。
「君の……いや、王宮の話なんだけど」
言葉を選ぶような間。
エミリアは、無意識に背筋を伸ばしていた。
ローワンはエミリアの肩口にそっと身を傾げると彼女にしか聞こえない声量で言った。
「今、王宮に……彼がいる」
それだけで、誰のことか分かった。
胸の奥が、かすかに揺れる。
「……お兄様?」
ローワンは、肯定も否定もせず、ただ目を伏せる。あくまで非公式の情報なのだとエミリアはすぐに理解した。
「それで、呼んだの?」
「……うん。君のことだから来ないかと心配したけど、良かった」
小声で問えば、今度こそローワンは頷いた。
(お兄様が、ここに?……どうして)
あの日——この王宮で見た姿を最後に、彼と直接会うことはなくなった。母のみが一度だけ彼と話したというが、それももう二年も前のことだ。
時折、遠くの町から彼の噂が届き、それが生存確認の代わりになっていた。
ただ、最近その噂の質が、良くないものに変わりつつある。
彼と決別することになったあの時に似た——セリウスという人間が、人ならざるものへ置き換えられていくような、あの手の噂だ。
「ねえ……」
エミリアは口を開いたが、続きは飲み込んだ。ここでする話ではない。
ローワンも同じことを考えたらしく、周囲へ視線を巡らせていた。
(ほんと……相変わらずお節介というか)
エミリアがくすりと笑ったちょうどその時——二人の足元へ光の筋が伸びた。
広間の喧騒から二人を遮っていた分厚いカーテンが、開けられ、歓談に興じる人々のざわめきの中、一人だけ誰かがこちらを見ている。
「……ノエルド」
先に声を発したのはローワンだった。
彼は小さく会釈を返し、近づいてはこない。だが、仕草だけで二人を「こちらへ」と促した。
「あの方って……」
「アルヴェル殿下の侍従だよ」
エミリアの顔を見て、ローワンが微笑んだ。
あの頃よりずっと凛々しくなった顔に浮かぶ優しさは、ちっとも変わらない。それがエミリアにとって、この上ない安心感をもたらすのだった。
ノエルドに先導され、二人は広間を離れた。
音楽と笑い声が遠ざかるにつれ、回廊の空気は静けさを取り戻していく。
いくつか角を曲がった先、人目につきにくい位置にある扉の前で、ノエルドは足を止めた。
控えめに、二度。
間を置いて、もう一度。
それから、扉をほんのわずかに開ける。
「……え?」
思わず、エミリアは声を漏らした。
ローワンを見るが、彼も事情を知らないらしく、小さく首を振っている。
「ノエルド、兄上は……一緒じゃないの?」
おずおずと問いかけた、その言葉に応えたのは、侍従ではなかった。
「ここだ」
落ち着いた、聞き慣れた声。
扉の向こうから、静かに響く。
「このような形ですまない。
……久しぶりだな、エミリア嬢」
扉が、もう少しだけ開いた。
そこに立っていたのは、やはりアルヴェルだった。
簡素な礼装。王族としての威圧は抑えられているのに、立ち姿だけで場を制するような気配。
「驚かせないで下さいよ……」
ローワンは、ほっとしたように息をついた。
「ローワン。昨日、君に言ったことをもう忘れたのか?あれのことは私に任せろと言ったのに」
まるで先ほどの場面をどこかで見ていた様な口ぶりだ。ローワンのすることなど、アルヴェルにはきっとお見通しなのだろう。
ローワンと同じ茜の瞳がずっと細められ、自然とエミリアへ移った。
「どこに目があるか分からぬから、君と接触するべきでないとは思ったんだが……。私からも、直接伝えるべきだと」
ローワンと同じパーツなのに、その相貌は年輪を重ねた凛々しさと険しさを兼ね備え、近寄り難く、だがどこか柔らかい。
直接会うのは、すべてが白紙になった——あの日以来。
エミリアは一礼した。
もっとも丁寧にカーテシーをしたところで、その隙間からではほとんど見えてはいないのだが。
「お元気そうで、何よりです。
それで、彼はどちらに?」
敢えて前置きなど省いてそう尋ねた。
アルヴェルは数度目を瞬いて、それから破顔する。
「——ははっ、相変わらずだ。
君は本当に、私をぞんざいに扱うのが好きだな」
そう言って茶化す目の前の男の事は、やっぱり好きになれない。
兄の気持ちを知りながら、その立場を利用して都合よく束縛しているのだと疑っていたから。
——だが違った。
互いを思うが故にその手を離そうとしていたのを今のエミリアはもう知っている。そして、兄が自分を、そしてこの男を守ろうとして悪魔を演じたことも。
だから、好きにはなれないが大目に見てはやれる。
「——そんな顔をするな。
そこにいる君の恋人に嫉妬されるのは不本意だから、お手柔らかに頼む」
先ほどの笑みがふと柔らかなものになると、そう言って男は二人それぞれに視線を合わせた。
エミリアは一瞬、言葉に詰まる。ちらと横を見れば、ローワンも同じ反応をしていた。
それもそうだ。
自分たちの仲をこうもはっきり明言されてしまうのは、少々堪えるものがある。
「さて、世間話はこれくらいにして。ローワン、もう話したのか?」
「いえ。丁度これから話すつもりで……」
「そうか、じゃあ私から話そう。……折り入って頼みたいこともあるし」
——頼みたいこと?
エミリアはちら、とローワンに視線を送ったが、彼も見当がつかないのか、小さく首を振った。
「あれがまた、しばらく厄介な状況になる」
端的に切り出された言葉に、エミリアの胸が静かに波立つ。
険しい顔をしている自覚があった。だが、アルヴェルは話を止めない。
「……今は一時的に王宮にいる理由を付けて匿えてはいるが、明日以降はそれも難しい。
すまないが、王宮から解放した手前……もう表立っては守れぬからな」
アルヴェルは一度だけローワンの目を見て一呼吸置くと、再びエミリアに視線を戻し、こう続けた。
「一時的に、あれは更に違う形で語られ、晒される事になるだろう。だがきっと、セリウスは誰にも頼らない」
断言だった。
淡々とした声で、その表情には切なさすら滲ませずに。
"厄介な状況"というのが何を意味するのかはエミリアには分からない。ただそれは、分かったところでエミリアには覆すことの出来ない事なのだろう。
「それは……殿下がお側にいてくだされば済む話では?」
二人は——少なくとも昔の二人のような関係ではないだろう。
アルヴェルは、そのつもりでいるはずだ。
「もちろん、そうは思っているさ」
アルヴェルはやはりそう答えたが、わずかに声の勢いが落ちる。
一拍の間が出来た。
「だが、拒むだろうことも、容易に想像がついてしまう」
それは、まるで歳の離れた友に漏らすような弱音で——王弟としての彼から聞くには、あまりに人間的だった。
(……相変わらず、恐ろしい人ね)
目の前の男は、いつだって、たった一人だけにその心を差し出している。
その相手が受け取れずに立ち尽くしていようと、手を引くことだけはせず、ただ、じっと待っている。
全てを整えた上で。
エミリアはやれやれ、と肩をすくめた。
「事情は分かりました。もういいので、会わせていただけますか?」
彼女の仕草に滲んだわずかな同情を、男は見逃さなかった。
アルヴェルはほんの小さく笑うと
「我々は長く退席する訳にいかぬので」
そう言って、エミリアだけをノエルドに案内させるよう計らった。
ローワンもそこに異論を唱えない。
こくりと頷いた後、ローワンはエミリアの手を取り、その甲にキスを落とす。
表情には迷いよりも覚悟が濃く、触れた唇の温度が、祈りのように残った。
たとえ何が起きるか事前に知っていたとしても、
何も持たない女である自分に、介入する資格はない。
けれど家族であるという一点においてなら、自分を罰し続けるようなセリウスの生き方に、「それでも戻っていい場所がある」という例外を与えてやれる。
それはローワンが言うよりも、父が言うよりも、そして、この男が言うよりも。
(……私が言うのが、いちばんいい)
そう、私に——託されたのだ。
**
たどり着いた先、既視感のある風景に、エミリアは思わず呟いた。
「……ここって」
ノエルドは一度だけ振り返り、
「元気ですから。ご安心を」
それだけを告げると、余計な説明は加えず、間を置いて扉をノックした。
「私です、開けますよ」
「はい」
返ってきたのは、懐かしい柔らかな声。
扉が開くと、部屋の奥で訪問者を確かめるように首を傾げる兄の姿が見えた。
その瞬間、胸の奥がきゅっと締め付けられる。
変わっていない。
けれど、何かが変わってしまった。
嬉しさと切なさが同時に込み上げ、言葉を選ぶ前に、彼の方が先に気づいた。
「あれ、エミリアじゃないか」
驚いて、思わず声に出た——そんな間の抜けた言葉だった。
「お兄さま……」
視界が、じわりと滲む。
けれどそんなことはお構いなしに、エミリアは迷いなく駆け寄り、その胸に飛び込んだ。サボンとすずらんの花のような、爽やかで優しい匂いがする。
ずっと会いたくて、その無事を祈り続けた人物が、いまエミリアの目の前に、確かに存在していた。
「もう!あんなふうにいなくなったりして。許さないわよ」
声は震えていた。喜びと同じだけ、胸の奥にざらりとした感情が湧き起こる。
五年前のあの日——セリウスはすべてをひっくり返して見せた。
自分を奪わせて、全てを自分の望む通りにしたのだ。エミリアのちっぽけな覚悟など、最初から必要なかったとでも言わんばかりに。
「……こら、レディが人前で抱きつくものじゃないよ」
頭上から降るのは、相変わらず底抜けに優しい声だった。広げたままの腕を下ろし、エミリアの両肩をそっと包む。髪を梳く手つきも丁寧で、昔と変わらない。
まだこうしていたかったけれど、ほどなくセリウスはエミリアの肩をやんわりと押し返した。
「心配かけてごめんね。皆、元気かい?」
彼はただ穏やかにそう言った。どんな言い訳も初めから口にする気がないようだった。
それが、いちばんずるい。
まるで、自分ばかりが寂しくて悔しかったみたいではないか。
「ええ、元気よ」
言いたいことは山ほどあった。間違いなく怒っていたし、やろう思えば何時間でも詰ってやれるだろう。
けれど結局、エミリアの口からこぼれたのは、それだけだった。
「夜会に来たんだろう? 早く戻らないと、父上が心配するんじゃないかい?」
一見、気遣いの言葉。
けれどそこには、ただ“正しい距離”だけがあった。
エミリアは、はぁ、と短く息を吐く。
「ねえ、もういいのよ。そういうのは」
思わず語気が強くなると、セリウスの笑顔が、ほんの一瞬だけ軋んだ。
——ああ、どうしよう。声が揺れてしまう。
押し込めていたものが、気付かぬうちに溢れていた。
見られたくなくて俯くと、視界が滲む。
震える肩を抑えるように必死に呼吸を整えてみたが、無駄だった。
「……心配していたんだから……」
固く握られた拳が、小さく震えている。
それに気づいたセリウスは、先ほどよりも深く眉を下げ、困ったように微笑んだ。
「……うん。ごめんね」
ためらうような間のあと、彼は一歩近づく。
目線を合わせるために屈み、そっとエミリアの涙を拭った。
その指先は、昔と同じ温度だった。
けれど、抱き寄せることはしない。
「国中を、見て回ってるんだ。……ずっと、見てみたかったからさ。心配してくれて、ありがとう。エミリア」
セリウスの言葉を、エミリアは否定しなかった。それが全てではなくても、嘘でないことも分かっていたからだ。
兄はいつだってそうだ。自分がここにいることで、誰かの足を引っ張るのではないか。誰かに余計な負担を背負わせるのではないか。
そんな考えを、癖のように抱え込んでいる。
「……ねえ、お兄様。たまには、顔を見せて?」
少しだけ、声の調子を和らげる。
セリウスが瞬きするのを見てから、エミリアは続けた。
「モルフォンドに寄る理由がないのなら……そうね、シンディが結婚するの。ぜひお祝いしにいらして。きっと喜ぶわ」
命令でも、懇願でもない。ただ、選択肢をひとつ置いただけ。
セリウスは、すぐには答えない。思いがけない妹の計らいに、少し驚いた風でもあった。
「そっか、それはおめでたいね……うん、考えてみるよ」
やがて、そう返ってきた声は、どこか柔らかかった。
もうそれで十分だと、エミリアは思った。
*
扉が閉まり、小さな足音が遠ざかった。
部屋に残った静けさに、セリウスは小さく息を吐く。
ノエルドが彼女をここへ連れてきたということは、アルヴェルの差配だろう。あの人にしては、ずいぶん回りくどい。
だが、いつもなら必要以上に踏み込まず、放っておいてくれるくせに。どういう風の吹き回しだろうか。
椅子の背に身を預け、セリウスは天井を仰いだ。
胸の奥に残る、消えきらない温度を確かめるように。
「……」
苦笑とも溜息ともつかない息が零れる。
エミリアの目に映った自分は、淋しそうに見えていただろうか。
そんなふうに思ってしまったこと自体が、ひどく居心地が悪い。
(相変わらずというか……)
ローワンといい、アルヴェルといい——悉く、人のいるところに私を置こうとする。
まるで、私がそれを望んでいるとでも言うように。
確かに、そう願っていた時期はあった。
人の中で生きて、役に立って、受け入れてもらえたらと思ったこともある。
ランドフォードにいた頃なら、それはきっと、間違いなく私の望みだった。
けれど、それはもうずっと昔のことで——。
誰の記憶に残らなくてもいい。誰も傷付けずに済むのなら。二人の心配など要らないくらいに、ただ平凡に穏やかに自分の足で立っていられるのならそれでよかったのに。
頼むからもうこれ以上、勘違いをさせないで欲しい。
そうやってまた、誰かの人生を狂わせてしまったら目も当てられないじゃないか。
だって私は——。
もはや二人が思うようなものとは真逆の望みしか、持ち合わせていないのだから。
「だけど、確かに……。明日からはたしかに生きにくくなりそうだ」
口に出してみたが、その言葉の乾いた響きがいやに笑えた。
胸の奥に滲むざわめきの正体を見ないまま、セリウスは諦めるようにしてそっと目を閉じた。




