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女神の国 2  作者: 大福駒子


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23/25

Messiah


 翌日もまた、セリウスの姿は迎賓館にあった。


 自分を先導するタリクの従者に続くようにして、見慣れてしまった廊下を歩いていた。王宮にその身があった時でさえ、この迎賓館には踏み入ったことがなかったので、こういう機会がなければ、ここは未知の領域のままであっただろう。

 王宮から少し離れた場所に建つ迎賓館は、余計な目が届かない。意図せず舞い戻ってきてしまった事を思えば、それは都合が良いことなのかも知れなかった。


(これも見越してのことなら、ますます陛下という人が恐ろしい……)


 しばらく歩けば、目の前を歩く従者の背中が止まり、廊下の突き当たりの大きな扉の前にやって来ていた。

 扉を開け「どうぞ」と促されるままにセリウスは中に入る。窓辺に置かれた長椅子に王子の姿を見つけると、瞼を伏せ礼を取った。


「や、いらっしゃい」


 市中で見たのと同じ、王子らしからぬ笑みで、タリクはこちらを見ていた。

 第三王子らしい奔放さと、掴みどろころのない飄々とした態度。それでも、初めて会った日から一貫して、危険な人間ではないとセリウスには思えた。

 他国の人間の前で平気で寝てしまえるほど無防備で、不用意に踏み込んでくるくせに、そこに利用してやろうという意図がない。


(変な人だ……)


 礼を解き、顔を上げる。


「今日はもう、ご予定はございませんか」


「うん。夜会まではね」


 そうか、今夜は送迎の宴が予定されていたのだった。

 それはつまり、明日にはもうトルキアへ戻るのだ。

 少しだけ、肩の力が抜ける心地がしたことが後ろめたくて、セリウスは居住まいを正す。


「では午後はゆっくりしていたほうが良さそうですね」


「うん、でもずっとこの部屋に一人きりだと退屈しちゃって」


 少しおどけた口ぶりのあと、タリクはまたにこりと笑って「でも、君が来てくれたから」と言った。

 セリウスはピクリと眉を動かした。少し距離感のおかしい人だと、この数日で理解しているつもりだったが。


(何だろう、少し……)


 セリウスはそっとタリクから視線を外し、窓の外を見た。


 「では、……少し歩きませんか?ここは私も馴染みがないので、庭園を歩くのもいいかもしれません」


 実際、少し気が引けたのもあった。

 昨日は自分に余裕がないばかりにこの場に留まってしまったが、後になって考えれば、人の目がないところで国賓と二人きりというのは、あまり賢い行動ではなかった。


「いいね。そうしようか」




 庭に出ると、冬の空気は思ったよりも柔らかかった。

 陽は高いが、光はどこか薄い。白い砂利を踏む音だけが、やけに澄んで響いた。


「静かだね」


 タリクが空を見上げたまま言う。


「迎賓館の庭ですから。人の出入りも限られていますし」


 他愛もない応酬を繰り返しながら、歩幅を合わせるでもなく、離れるでもなく、二人は並んで歩いた。

 しばらくして、タリクがふと思い出したように言う。


「セリウスは、ずっと国中を旅していたんだろう?

 今みたいに騒がれて、困ったことにはならなかったの?」


 足元の小石を一つ避けながら、セリウスは肩をすくめた。


「以前、仕事で関わった方の伝手を頼って転々としていましたから。そう目立つこともありませんでした」


「へえ」


「元々、ほとんど人に対してこの力は使いません。

 あの時は、でも……違いましたね」


 油断すればすぐに後悔の渦に呑まれそうで、振り払うようにセリウスは話題を切り替えた。


「それよりも、このなりですから。困ったことといえば、むしろこちらの方で。道すがら石を投げられるくらいのことは、ありましたけど」


 自分の髪を指で摘み、苦笑する。

 砂利を踏む音が、そこで止まった。


「……笑って言うことじゃないだろ」


 タリクには珍しく、甘さのない低い声だった。

 見上げれば唇を尖らせてこちらを見ていた。


「あ……」


 セリウスは瞬きをひとつして、首を横に振る。


「ご気分を害したのなら、謝ります。……トルキアでは忌避の色ではないと仰っていましたものね」


 タリクが言いたかったのはそういう事ではない。

 それを分かっていながら、セリウスはそれっぽい言葉を並べるしかなかった。

 どうにも、こういうときが苦手だ。自分のことを話せば、結局この種の話になる。可哀想だと言われたいわけではない。だが、何もなかったと嘘をつくのも違う。だから事実だけを置いて、場の空気を濁さぬように、平然と話す癖がついた。


「すみません——」


 言いかけて、曖昧に笑った。


「ですが、他にどう言えばいいのか思いつかないのです」


 風が枝を揺らし、乾いた葉がひとひら落ちた。


「……ごめん、声を荒げて」


 タリクがぽつりと言う。


「私より、私の痛みに反応して下さる」


 半ば冗談めかしてセリウスが返すと、タリクは数歩、ゆっくりと歩いてセリウスの前に出た。


「僕は君を大切な……友だと思ってる。だから、何されても平気って顔をして欲しくない。それだけ」


 振り返った彼の黒曜石の瞳は、切実な何かを訴えて来るようで、セリウスはたまらず視線を逸らす。


 一昨日のように、正論を突きつけられると思っていた。ヴァルセニアだけが世界ではない。トルキアなら“白い悪魔”などとは呼ばれない。

 そんなふうに。


「……では今度からは、石を投げられたら腹を立てる練習でもしてみます」


 そうしてすぐに茶化してみせる。タリクもやれやれと肩を竦めてそれきりだった。


(なんだろう……すごく)


 ——居心地が悪い。

 

 例えばそれは、水面に落ちてしまった蟻を観察する様な、悪意も憐れみもない——タリクが自分に向ける興味は、そういう無邪気な類のものだと理解していた。


 なのに今日の彼は何か少し、違う。


 正論をかざすどころか、セリウス本人すら諦めてしまっていた綻びに手を充てようとした。

 人の懐に入るための手管ではない。もっと私的な感情を、「大切な友」という言葉に乗せて、こちら側へにじり寄られたような感覚だった。


 緩やかな石畳の小径をたどり緩やかな傾斜を登っていくと常緑の葉に覆われたパーゴラが見えた。

 近付くとその正体はアカシアで、ところどころ綻び始めている。


「少し、座りましょうか?」


「そうだね」


 午後の日差しは柔らかく、アカシアの黄色が、影の縁を淡く染めている。


「午前中は、どちらへ?」


 セリウスは視線だけを軽く隣へ流した。


「神殿で礼拝と、それから史跡をいくつか見させてもらったよ。とても素晴らしかった」


「そうでしたか。王宮神殿の彫刻と壁画は、ヴァルセニアの誇る職人技の結晶ですから。気に入って下さると国民として、誇らしい気持ちです」


 満足気に笑うタリクに、セリウスも応じた。


「建造物ほど国によって違いが出るものはないね。ヴァルセニアは白壁やテラコッタが特徴的みたいだけど、トルキアはもっとカラフルだよ。

 青い壁の聖堂や、細やかな模様のタイルが敷き詰められた礼拝堂なんかもある」


「へぇ。面白そうですね」


 こうして彼の熱がこもってくるのがわかると、目の前の人物が年相応の青年なのだと実感して、セリウスは小さく安堵した。


「美しいものが好きなんだ。絵画も、音楽も、物語も。だから、ヴァルセニアに来れて興味深いものが色々見られて満足してる」


「それは良かった」


 同じ血を分け、同じ神を戴く、遠い東の国。

 けれど今や、その文化も価値観もヴァルセニアとは大きく異なっているのだろう事が、彼の話から読み取れた。


「トルキアは、どんな景色なんでしょうね」


「気になる?きっと気に入るよ」


 タリクはセリウスの小さな呟きを聞き逃さない。

 にこりと笑って「おいでよ」と軽やかに言った。


「そうですね……いつかは」


 口から出たそれは、少なくとも社交辞令ではなかった。

 ベアラーの祖国。そして今やもうその力を手放した国、トルキア。興味が無いわけがない。

 だがそれは、タリクが想像しているだろう前向きな理由ではなかったし、そもそも現実的なこととは思えなかった。


 セリウスはタリクと視線を交わすことなく、膝の上に置いた右手を見つめて言った。


「初めてお会いしたとき、殿下は仰いましたよね。『ベアラーは役目を終えるだけ』『存在自体はいなくならない』と」


 タリクの視線を感じながらも、セリウスは膝の上に視線を落としたまま続けた。


「力を失ったベアラーは、その後どうなったのですか?」


 声音にただの興味を装わせたが、その奥にある迷いにきっとタリクは気付いていた。


「どうもこうも、何も変わらないよ」


 タリクは穏やかに答えると、視線を僅かに仰いで思い出すように続けた。


「彼らは“ベアラー”を終えただけで、死にはしない。力を失ったって人生は終わらない」


 癒しの力は、ベアラーの"本体"ではない。

 たまたま手にした"役割"なのだから。


「まさか、自分が消えてしまうんじゃないかって、怖いの?」


 身を傾け、視界を塞ぐように覗き込んだタリクの双眼は、やはり単なる興味以外の何かを孕んでいる。

 否定しようとした。

 だが、喉が動かない。セリウスはとうとうその瞳に捕まって、視線を絡めたまま「……どうでしょう」と言葉を濁した。

 

 煩わしいと思っていたはずだ。

 この力さえなければと、何度も願った。

 普通の人間として生きれたら、自分の培ってきた技術を、神の偉業なんかじゃなく医師としての誇りだと、正しく評価されたかも知れない。

 それより何より、自分が自分を疑わずに済んだ。


 だが皮肉なことに——この力があったから、白い悪魔と囁かれた存在が生きてこられた。


 それも事実で。


 御子だから、利用価値があった。

 関心を寄せてもらえ、嫌悪を解いてもらえた。

 もし、それがなくなれば——。


 ようやく、躊躇いがちに声が零れる。


「……怖いのかも、知れませんね」


 掠れた声はアカシアの葉音に掻き消された。

 だが一度言葉にしてしまえば訂正など利かず、足元の地盤が抜け落ちるような不安が胸に広がるのだった。


「セリウス。……もし、」


 視線を合わせたままで遠くに意識をやっているセリウスをタリクは呼び戻す。


「もし……力を失っても、君が怖がらずに生きていける場所があるって言ったら」


 風が外套の裾を揺らした。


 どのような意図を以て発せられた言葉なのか、そのことに思考を向けるより先に、目の前の青年の瞳が孕むその"何か"の気配にセリウスは気を取られる。

 思わず身を縮め、視線を逸らした。


「……その、すみません、個人的な話をしてしまいました」


 そっと笑って、拳ひとつ分距離をとった。


「夜会に差し支えます。そろそろ戻りましょう」


「………そうだね」






 先ほどの傾斜をセリウスが先導する形で下ってゆく。タリクはセリウスの後ろを歩きながら、その白い頸を盗み見る。


「いやいや……まずいな」


 ぽそりと溢れた自嘲に、前を行くセリウスが「何か仰いました?」と振り向いた。

 それにゆるりと首を振って返すと、彼は一度小首を傾げた後、また歩きだした。


 白い睫毛に縁取られた、透き通るような瞳。

 他者への警戒心を滲ませながら、見知らぬ他国の話になれば、その瞳の奥に未知への好奇心が見て取れた。最初は、それが強く印象に残った。

 可愛げもなければ、殺気立った猫のようでもあり、想像していたかつての少年御子とはまるで違ったから。

 セリウスの人生を、自分は知らない。

 白い形が彼にとってどれだけ重大な綻びであるかも、神に背負わされた使命の行末を案じる理由も、分からない。


 分からないが、傷付いて尚、耐え忍んで立ち続ける姿が気になって——胸がざわついた。


 きっと元来の彼は、誰かに、この世界に愛されたい人なのだろう。

 だから、露骨な線引きも、作り笑いも、全部暴いてしまいたくなる。

 そして、もう気を張らなくて大丈夫だと、手懐けてしまいたくなる。


「どうしました?」


 もうずいぶん先を歩いていたセリウスがまたしても振り向いて手を振っている。

 タリクは同じように手を振って応じてから、熱った耳を軽く摘んだ。




 夜会の灯りは、昼の光よりずっと残酷だ。


 無数の燭台が磨き上げられた床と杯に反射し、空間を過剰なほどに明るくする。

 音楽は柔らかく、香は甘く、人々の笑顔は整いすぎていた。


 タリクは、その中心で今夜も微笑んでいる。


 ヴァルセア王国に来て、四日経つ。

 社交の場に立つたび、同じ空気を吸ってきたはずなのに、今夜は殊更に息が詰まった。


 ——送別の夜会。

 名目はそれだけれど、そこここで両国の諸侯が約束を交わし合っている。


「トルキア王国は、今の季節が一番美しいと聞きましたわ」


 令嬢の柔らかな声が、タリクの意識を現実へ引き戻した。


「……ええ。高原はまだ冷えますが、空が澄んでいて」


 言葉は淀みなく返る。癖のように。


「王都も、石造りの街並みが素敵だとか」


「風が強い国ですが、その分、星がよく見えます」


 令嬢は目を輝かせ、身を少しだけ乗り出した。


「まあ……素敵。いつか訪れてみたいですわ」


「そうですね。機会があればいらしてください。ご案内しますよ」


 そう答えながら、タリクの視線は、ほんの一瞬だけ、令嬢の肩越しを滑った。


 ——しかし、それは政治案件です。


 ほんの半刻前のナズの言葉を思い返して、思わず苦笑が滲んだ。


「殿下?」


「……ああ、すみません。ちょっと、外します」


 会話は噛み合っていた。求められている言葉を返したけれど——


(……お別れらしい事を言った方が良かったのかな)


 まあいいか。

 僕には、やらなければならないことがある。



(……今だな)


 楽団の旋律が一段落したのを見計らい、タリクは歩み寄った。

 王はすでに気づいていたらしく、先に軽く杯を掲げる。


「殿下。今夜は、なかなかお疲れのご様子だ」


「はは……顔に出ていましたか」


 形式的な挨拶を交わし、互いに声を落とす。

 夜会の喧騒が、かえって話を隠してくれる距離だ。


「先日のローワン殿下との会談についてですが」


 タリクは、唐突にならない程度に切り出した。


「技術交流の件、執政官府とも共有しました。トルキアとして、前向きな返答ができるかと」


「それは、ありがたい」


 アーサーは頷く。


「トルキアとしても、ヴァルセニアとの関係を深めることに異論はありません。むしろ、互いの利益になるでしょう」


 タリクは、ほんのわずか表情を緩めると、国王の琥珀に輝く瞳を捉えたまま、慎重に言葉を継いだ。


「その上で、一つ、こちらから条件というほどではありませんが……提案があります」


 アーサーは、続きを促すように顎を引く。


「同じ神を戴く友好国の証として、技術者だけでなく、ベアラーを数名、貴国の使節に加えることは可能でしょうか」


 空気が、一拍、張りつめた気がした。

 だがアーサーは、驚いた様子を見せない。むしろ、少しだけ考える時間を取るように、杯に視線を落とす。


「……なるほど」


 短く息をつき、王は言った。


「母国を出たベアラー達が今なお健やかであることを示すことは、貴国にとって重要なことですものね」

 

 その言葉はまるで、まんまと罠にかかってしまった、そんな危機感をタリクに植え付けた。

 こちら側の建前を分かっていた様に並べ立て、アーサーは続ける。

「人選については、王宮の一存では決められませんが、その提案……検討しましょう」


 あくまで相手国からの打診だと、まるで周囲に示す様に。タリクはアーサー王の笑みに背中が粟立つのを感じたが、表情は人好きの良い笑顔のまま、


「ええ」


 と即座に応じた。


「時間はあります。必要なら教会側とも協議していただければと。信仰に関わることですから」


 王は、わずかに目を細め、そして静かに笑った。

 驚くほどすんなりと承諾されたが、それ程にセリウスはこの国にとって厄介なのかも知れない。その疑念は、余計にタリクの胸の中の火を強く燃え上がらせた。


「……殿下は、ずいぶん丁寧だ」


「乱暴な前例は、後が怖いですから」


「違いない」


 杯と杯が、軽く触れる。

 高くも低くもない、確かな音。


「では、正式な返答は教会との協議を経て。

 ただ——技術交流そのものについては、貴国側の許諾が正式に下り次第準備させましょう」


「感謝します」


 タリクは、深く一礼した。


 夜会の灯りが、二人の間に揺れる。

 政治の話としては、これで十分だ。

 胸の中のざわめきを嗜める様に深く息を吐く。人の波を縫う様にしてテラスへ出ると、寒空に月が浮かんでいた。


「殿下!」


「うわ、来ると思った」


 タリクはケラケラと笑って追いかけてきたナズを横目に見る。


「国王に直談判なんて……肝が冷えましたよ、まったく!」


「ごめんごめん。でもさ、いまのこの国は、トルキアと同じ轍を進んでいるだろ?」


 相変わらず軽い調子で謝ると、唐突にそう切り出した。


「この国では信仰が期待に変わって、奇跡は消費され始めている。じゃあ……先をゆく僕らが助けてあげないと。

 ね、そうでしょ?」


 今考えている事は、セリウスの望む答えでは、おそらくない。

 だが、それでもいつか「この選択も悪くなかった」と彼が思えるような未来を、自分なら叶えてやれる気がした。


 冷たい月を眺めながら、タリクの脳裏に浮かぶのは、それと同じ色の髪と肌の男。


 セリウスという男は、意図せずして他人の欲を刺激する。

 それも、かなり質の悪いかたちで。

 きっとあの顔を穢してしまいたい人間は、山ほどいるだろう。


 だけど、芽生えてしまったそれは、もうなかった事には出来そうになかった。


「他でもないアーサー王に発言してしまったんです。私が今更何を言っところで覆らないでしょう?」


 ナズは肩を落として言った。


「よく分かっているね。まあ僕は、妃候補でもなんでも、連れていく理由は幾らでも思いついたんだけど。ホラ、父上も言ってたでしょ?カムルセアを見つけてこいって」


 これにはさすがのナズも顔が引き攣った。


「殿下……!そ、それは冗談だとしても不用意です」


「あはは!そう言うと思ったから穏便に済ませたんじゃないか」


 だが口をついて出た言葉は、果たして本当に冗談だっただろうか。


 自分は第三王子、スペアのスペア。それに既に世継ぎもいて、自分が玉座に座る日は訪れない。

 それに万が一にもその機会が来ても、トルキアのそれはヴァルセニアの玉座と意味合いが大きく異なる。国のリーダーでも、絶対権力でもない、単なる椅子。誰が座ろうと、同じこと。

 トルキア共和国にとって自分たち王族は、国民に期待される生き物では、もはやない。


 誰も、王族ほどにはその"象徴"たる意味を考えてなどいないのだ。だったら。


「同性婚も珍しくないって話さ。王族に前例がないってだけで、禁じられてはいない」


 ……ああ、本当に。

 どうかしちゃったみたいだ。


 自分でも少し可笑しくなって、タリクは笑った。


「殿下、殿下!……もうそこまでで」


 ナズ、可哀想に。そんなに狼狽えて。

 

「……勝手なことしてごめんよ」


 タリクは、少しだけ声を落とす。


「国はこの先ずーっと平和で、……僕はこの先も、ずーっと幸せに暮らしていかなくちゃいけない」


 王族に求められるのは、国が豊かであるという果てしない証明。それを、示し続けなければいけない。ならば、せめて楽しく暮らしたい。


「少なくともあの人がいたら退屈しないと思うんだ。だから、今回は大目に見てよ」


「……今回も、の間違いでしょう」


 ナズは顔を手で覆い、盛大にため息を吐く。


「ははっ。ごめんごめん」


 君に出会えた。これはきっと神様の思し召しだ。

 だからきっと、救ってあげよう。

 だってそれが僕の救いでもあるんだから。





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