Imago
医局から外へと出ると、建物に沿うように延びる細い石回廊を、彼は真っ直ぐに進んだ。薬草庫の脇を足早に抜け、王族達の寝所に続く回廊の少し手前を曲がる。
タリクの『話し相手』の予定はないが、だからといって目的もなく歩き回るわけにはいかぬだろう。そうなるとセリウスの足はやはり坪庭へと向いた。部屋でじっとしていると良くないことばかり考えてしまいそうだった。
坪庭へと近づくほど、呼吸が楽になってゆく。
それは単なる懐かしさと説明するにはきっと足りない。まるで、あの庭の草木に授けた加護を取り戻さんと、この身体そのものが呼応しているようだった。
「……」
歩を緩め、息を吐く。
庭は、思った以上に緑が鬱蒼と生い茂っていた。蔦が他の草花を食うように這い、今にも回廊の縁を乗り越えようと伸びている。
セリウスは縁を跨ぎ、庭というにはほとんど足の踏み場がなくなったそこに降り立った。まだ弱々しい日差しがセリウスの肌をほんのりと照らす。
ふと、向かい側の回廊の柱の影から青い外套が覗いているのに気付いた。
もはや何の見所もないこの場所に来る物好きなど一人しかいない。
(ああ、そんな……)
胸がざわめく。
セリウスは踵を返し掛け、だがその足元で蔦の枝がぱきりと乾いた音が鳴り——思わず彼の方をもう一度見た。
「……!」
男は——こちらを、見ていた。
逆光の中に立つセリウスを捉えんと手で庇を作り、目を細めて。
「……風邪ひきますよ? 殿下」
少し考えてから、そんな陳腐な言葉をようやく捻出して、近づいた。
「お前の方こそ、薄着で寒くないか?」
すっと伸びてきた手に、右手首が掴まれる。力は強くないのに、身体が僅かに強張った。
「っ……いつから?」
「……半刻ほど前かな。部屋にいないようだったから」
「だからって、ここに来るとは限らないでしょう?」
「いや、来るさ」
返された声は、どこか柔らかい。
いたたまれず、掴まれていた手を引っ込めようとすると、彼は容易に離してくれた。だが、先ほどまでの感触と少し冷えた掌の温度だけが、まだ微かに残っているようだった。
セリウスは視線を逸らし、庭の中央に置かれた石鉢を見る。
「エルネスト先生のところに行ってました」
「訊いていないのに」
「そうですけど。一応、知りたいかなと」
「へえ」
それきり、アルヴェルは何も言わず庭を見た。
冬の光に照らされた枝先が、わずかに風に揺れている。
「……怒ってます?」
「なぜそう思う」
「殿下が静かなときは、大抵」
「……」
「殿下?」
「今、怒ったかも知れない」
アルヴェルは視線だけをセリウスに流すと、ふっと笑った。
こういうとき、どう返すべきなのかいつも分からない。セリウスの瞳に僅かな戸惑いを見て取ると、アルヴェルは一層笑みを深め、
「お前は俺のことを、あんまり知らないみたいだな」
そう言ってすぐにまた庭に視線を戻してしまった。
その通りだった。
この人のことなど、もう全然分からない。
子どもの頃は、もっと分かりやすかった。わがままで、弱虫で、それでもセリウスがそばにいれば途端に勇敢になれる人だった。
そして——それが依存だなどと、あのときは考えもしなかった。
「……」
声を掛けずに戻ろうとした自分に、彼はきっと気付いていた。
なのに、なぜ咎めないのか、いや、そうでなくとも、なぜ訊いてこないのか。
私ばかりが、なぜこんなにも余裕がないのか。
言葉を失ったセリウスの横で、アルヴェルが喉を鳴らす。
「怒っているのはお前の方じゃないか?セリィ」
からかうような声音。けれど、その笑みはもはや昔と同じではない。
いつの間にか、アルヴェルだけが大人になって——理解が追いつけなくなった。
あの日、セリウス自身でさえ自覚しきれなかった欲を、男はこともあろうに拾い上げ、自ら王宮を離れた。
彼は何でもないことのように言ったが、それがどれほど難しいことだったのか——。それが分かるからこそ、セリウスは足が竦んだ。
自分がこれ以上何かを欲してしまえば、この人はやはり何の躊躇いもなく差し出すのではないか、と。
やがて、自分が当たり前に甘受するようになるのではないかと。
——それが怖くて堪らない。
それこそ、自分は彼にとって害悪でしかないのではないか。
何一つ彼に差し出せるものがないばかりか、近くにいるだけで、幾度も災いをもたらした。ただそばに居たいなどと願ったばかりに——。
だからせめて、自分の足で、たった一人で生きられている事を証明したかったのに。
それなのに、またこんなことになって。
それでも黙って寄り添う体温に、今も身を委ねたくなる自分がいる。
追いつきたいはずなのに。
対等でありたいはずなのに。
依存を抜け——ようやく心から慕っているのだと、安心さえしたのに。
全部違った。
この安らぎも、渇望も、全部。
彼に明け渡した力が呼応しているだけなのかも知れない。
「どうした?やはりまだ調子が……」
伸びてきた手を、反射的に払ってしまった。
乾いた音が、冬の庭に小さく響く。
「っ……すみません。今はちょっと」
また心を読まれてしまう気がした。
触れられれば、自分でもよく分からない自分さえも、見透かされてしまいそうで。
それなのに。
「勝手に覗いたりしない。……ただもう少しここに居ないか」
傷付いた顔ひとつせず、何でもないことのようにそう言うから。心配していたことすら、冗談にしてしまうから。
「……それも、ダメです」
「ケチだな」
「……だって、殿下が凍えてしまいます」
アルヴェルのわざとらしく尖らせていた唇が、すぐに綺麗な弧を描いた。それだけで、容易く嬉しくなってしまう自分が怖い。
アルヴェルが身を屈め、視線を合わせて来る。
(まずい)
笑ってしまったほうが、負けだった。
そして、距離を測る暇もないまま——気づけば、ほんの微かに触れるだけのキスをしていた。
冬の昼の冷たい空気の中で、それはあまりに短く、けれど確かな、温もりだった。
唇が離れると、互いに何事もなかったふりをして再び前を向く。
冷たい空気が戻ってきて、馬鹿みたいに淋しくなった。
「……もうあの王子サマの接待なんぞ良いから、領地に連れ帰ってしまおうかな」
アルヴェルが、庭を見たままぼやいた。
そこに先ほどまでの揶揄いはない。
「はは……ご冗談を」
そう笑って返したが、その言葉の空虚さにセリウスはますます情けない気持ちになる。
「……ああ、冗談だ」
アルヴェルは表情を変えず、手掌を差し出した。
「だからすまない、もう少しだけ」
冬の昼の光が、坪庭の白い石に反射して眩しかった。
傍にいるだけで、その肌に触れられるだけで、呼吸が楽になる。じわりと何かが戻って来る感覚が分かる。
なのに喉の奥がキュッと潰れて、目頭が熱くなるのはなぜだろう。
身体は確かに楽になるのに、それが堪らなく悔しい。
何もかもが、薄い霧の向こうにあるように思える中で、その感情だけは鮮明だったから——結局、差し出された手は取らなかった。
代わりに、ほんのわずかに距離を詰める。
肩が触れるか触れないか、その曖昧な間で、二人はただ並んで座っていた。
外套越しに伝わる体温が、そこにいることだけを静かに主張している。
今の自分にはそれだけで十分だと、言い聞かせるように。
*
昼の催しが終わったころには、タリクはもう笑顔を使い切っていた。
諸侯との対談、形式ばった歓談、当たり障りのない称賛と、当たり障りのない期待。
すべて滞りなく終えたはずなのに、迎賓館へ戻る回廊はやたらと長く感じられた。
「……あー、やっと空気が自分のものだ」
外套を脱ぎながら、軽く肩を回す。
彼の侍従ナズが慌てて歩調を合わせ、すぐさまその外套をサッと受け取った。
「殿下、お疲れでしょう。少しお休みに——」
「うん。……あ、そうだな」
タリクは立ち止まり、思い出したように首を傾げる。
「そういえば、本、返してなかった」
「……本、ですか?」
「うん。借りたまま」
にこり、と笑って視線をサイドテーブルに流した。そこには貴賓室に不釣り合いな麻袋が置かれている。
「ああ、例の……」
ナズは小さく頷くと、再び主人に向き直る。
ついさっきまでの“外交用”とは少し違う、砕けた笑顔でタリクは言った。
「セリウスを呼んでくれる?」
「……また出掛けるだなんて仰りませんよね?」
「まさか。昨日の様子じゃ無理もさせられないだろ。ちょっと暇つぶしに話でもと思っただけだよ」
「ね、心配いらないよ」とタリクが付け足すと、ナズは開きかけた口を閉じる。
「……承知しました」
呆れのような言葉を最後に、扉が閉まると、迎賓館の私室は、ようやく静けさを取り戻す。
「……」
昼の喧騒が嘘みたいに、王宮の庭は穏やかだった。
今日一日、ずっと後悔していた。
昨日、もしかしたらセリウスは怒ったかも知れない。ちっとも現実的でない選択肢を差し出されて呆れもしただろう、と。
ヴァルセニア王宮と教会の間には、彼を中心とした均衡があるのだろう。だけど、あんな顔をさせると分かっていたなら、同行させなければよかった。少なくとも自分にはそうさせる権限があったのに。
「まあ、今更か……」
控えめなノックの音がして、ほどなく扉が開いた。
入ってきたのは、王宮仕様の距離をきちんと保ったセリウスだった。
扉の前で足を止め、背筋を伸ばし、迷いのない所作で一礼する。
「お呼びでしょうか、殿下」
声音も、目線も、過不足なく整っている。
タリクは一瞬、返事を忘れた。
(……ああ、そうか)
もう、知っているのだった。
自分が“誰であるか”を。
「来てくれてありがとう。楽にして」
「はい、失礼致します」
そう言ってから、ほんの一拍遅れて歩み寄る。
「それと、先日はありがとうございました。
ここに舞い戻るのは想定外でしたが、殿下がいなければあの場から離れるのは難しかったので……助かりました」
そう言って、丁寧な礼をする。
口にする内容が、彼にとってどれほど不本意なものだったとしても——下げた頭を戻す所作まで、嫌味なほどに洗練されていた。
タリクは苦笑を浮かべ、ソファに腰を下ろした。
(うーん……町で会ったときは、もっと……)
もっと率直に、困ったり怒ったり、そういう彼が見たかったのに。
「……本を返そうと思って」
そう言って、例の荷物を指し示す。
「ああ、それで」
「うん。良かったらここで読んでいきなよ」
冗談めかして言ったが、あながち本気だった。それでも、セリウスはくすりともしない。
「お気遣い、恐れ入ります。ですが後ほど自室で読みますので」
きちんと一礼して返すその言葉が、やけに胸に引っかかる。
「……ねえ、セリウス」
「はい」
即答。それがまた、少しだけ寂しい。
タリクは肘をつき、頬杖をついた。
「そんなに“殿下”しなくていいよ。ここ、私室だし」
「……承知しておりますが」
一瞬、言葉を探す間があった。
けれど結局、選ばれたのは無難な答えだった。
「立場を弁えるべきかと」
あーあ。
タリクは笑った。柔らかく、いつも通りに。
「そっか。残念」
でも、その笑顔の奥で、町の路地で交わした何気ない会話や、あの、肩の力の抜けた表情が、ふと脳裏をよぎる。
(……あのときの君は、どこに行っちゃったんだろ)
自分が王子だと知っただけで、こんなにも距離が生まれてしまうのか。
分かっていたことではある。だからこそアーサー王にお願いしたのだから。
「セリウス、こっちに」
腰掛けたソファの隣をポンポンと叩いた。
「そんな所じゃ、話し難いでしょ」
「すみません。ご用命ならはっきりと仰ってくださらないと」
きっぱりした言い方に、思わず笑ってしまう。
タリクは息をつき、背もたれに体を預けた。
「僕は陛下に話し相手が欲しいとお願いしたんであって、君を従者にするつもりはないよ」
「すみません……」
「怒っているんだろ」
セリウスのまつげが、微かに揺れた。
「君の事情を知りもしないで偉そうなことを言った。ごめんよ……」
言葉を濁して一拍、間を置いた。
「……でも僕は、君に自由になって欲しいんだよ」
冬の昼の光が、窓から斜めに差し込んで、床に白い影を落としていた。
「……勝手なことを」
「え?」
セリウスの言葉はほとんど独り言に近く、タリクは短く問い返した。
だが結局、セリウス「いえ」と小さく首を振るだけで、言い直すことはしない。
「殿下に……怒ってはいません」
観念したのか、セリウスはゆっくりと歩み寄った。
ソファに腰を下ろした彼に、タリクが思わず「嬉しい」とこぼすと、
「まったく……。ローワン殿下といい、あなたといい」
そう言って、呆れたようにセリウスは笑った。
「ま、まあ……ちょっと居てよ。僕も少しゆっくりしたいから、無理に話さなくていいし……。本当に、ここで本読んでいるだけで構わないから」
タリクは、視線を外したまま言った。
(参ったな……)
セリウスは呆れて折れてくれただけだ。ほんの少し、おまけで笑って見せてくれただけ。たかがそれだけの事が、嬉しくて、浮かれてしまいそうで。
「……?なら余計、私はお邪魔でしょうに」
意図が掴めないと訴える様に、セリウスは僅かに眉を寄せ、小首を傾げてタリクを見る。
その視線を真正面から受けるのが、少しだけつらい。
「人の気配がある方が、休めるんだ」
言葉を探すように、間を置く。
「……セリウスなら、気を遣わずにすむし」
苦しい言い訳に聞こえただろう。けれど、嘘じゃない。
しばらくの沈黙のあと、セリウスは小さく息を吐いた。
「……分かりました」
そう答えてから、手元の本に視線を落とす。
「では、少しだけ」
ページをめくる音が、部屋に落ちる。
それだけで、空気が静かに整っていくのを、タリクは感じていた。
何も話さなくていい。ただそこに、彼がいる。
それだけでこんなにも心が満たされるのは、彼がベアラーだからなのだろうか。それともずっと夢に見ていた存在だから?
どんな理由も、たいした価値はない。
出会った瞬間から、目が離せなかった。
誰の侵入をも許さないその心を覗いてみたい。
どうして自分がそう思ってしまうのか、知りたい。
こんな人に出会ったのは、初めてだから。
(……贅沢だな)
タリクは背もたれに体を預け、しばらくその様子を眺めていたが、やがて瞼が重くなり——眠りの淵へと落ちていった。
「……殿下?」
規則正しい寝息が、静まり返った空気を微かに震わせていた。
寝たか。連日精力的に動き続けていたのだから、無理もない。
セリウスは横目に王子の寝顔を確認すると、読んでいた本を一旦閉じ、丸まっていた背をゆっくりと背もたれに預けた。
「……ふう」
頭の中が、ぐちゃぐちゃだ。
自由になって欲しい、だと?
何から?教会の求める理想からか。世の中の期待からか。それとも、この形への侮蔑からか。
……ローワンといい、この青年といい、随分と分かったような口を利く。
何ひとつ知らないくせに。
アルヴェルは——あの人は、何も言わなかった。
きっと何か訊きたいことがあって、あの場所にいたはずなのに。それでも。
……訊いてくれたら、良かったのに。
いっそ、あの頃のままであれば、この青年と同じ台詞を言ったかも知れない。
逃げ道がなくなるまで問い詰めてくれたら、きっと——。
卑怯だろうと、そうでなければ、口にできない。
この身体から、この世界から、もう自由になりたい。
「……疲れた」
**
セリウスは部屋の手前で、トルキアの従者に連れて行かれた。どちらの臣下でもないのに良いように使われて、少しくらいは悪態をついても良さそうなものなのに。
そんな事を思い出しながら、アルヴェルはぼんやりと庭園を眺めている。
重荷に感じているのだろうか。
継承権を放棄したことも、その為に僻地へ遠ざけられたことも、全て自分で選んだことだ。そこにセリウスの為だなんていう、青くさい理由はない。
それでもセリウスはそうは思わない。そもそもこうなった原因の一端が自分にあったのだと、未だに思っている。あの自罰的な性格は、こちらがどれだけ言っても変わらない。
「頑な過ぎるだろ……」
掴んだ手首は、服の上からでも分かるほど細かった。会うたびにぎこちない態度を取るのは毎度のことだが、今回は少し違う。
(リュミエールでやり過ぎたからか……?)
いや、そんな単純な話ではないだろう。アルヴェルは眉を寄せ、深くため息を吐く。
自覚しているのかどうか。
触れたときにじわりと伝わるあの感覚は何だったろう。リュミエールの夜に感じた強い憎悪とも、恐れとも違う。もっと空虚で諦めにも似た感覚は……。
「……」
何がお前をそんな気持ちにさせるのか。
わざと距離を取って、拒むふりをする。なのに、いざ触れれば、その眼はいつも何かを訴えている。
——暴かれたいくせに。
それが分かっているから、余計に訊けない。
訊けば、お前はきっと答えるだろう。不本意な顔をして。
……だからって、どうしろというんだ。
ローワンも恐らく気付いている。だから敢えて俺に訊いたのだ。「大丈夫なのか」と。
でも何が最善なのか、俺にも分からない。
放っておけばいいのか。それとも、昔みたいに勝手に決めて、嫌がろうが何だろうが自分の隣に居させればいいのか……。
——勘弁してくれ。そんなことはもう、したくない。
それでは教会とも昔の王宮とも、やっていることは同じだ。縛り付けたくない。苦しませたくない。側にいることが辛いなら離れていたって構わないから。
……あんな、何もかも諦めたような態度は——。
「締め出されたの?殿下」
急な声に、アルヴェルはハッと顔を上げた。
「おや、気付かなかったなんて、らしくないね。刺されちゃうよ?」
「ヘリオスか……」
思考が遮られたことに、内心安堵した。答えの出ないことを延々考え続けるのは性分ではない。
「ノックしても、返事はないぞ」
「……ああ。じゃあ帰りを待っているのか。殊勝だね」
ヘリオスは揶揄うようにそう言ってアルヴェルの側まで歩み寄り、回廊の縁に並ぶように凭れかかると、ふっと笑顔を消した。
「なにか良くないことでも?」
「……意外と早い戻りだな。騒ぎは収束したのか?」
返事を躱しても、ヘリオスは特段気に留める様子は無かった。やれやれと笑った後、
「あれじゃあ療養どころじゃない。拠点医院へ移動させたよ」
「そうか」
「……やはり教会はセリウス殿をまだ諦めていなかったってことかな?目障りなだけなら、異端だから癒しの力が不完全だったって話を捏造する事だってできたはずだ」
「だろうな。ベアラーの減少を前に、人心掌握のピースをみすみす逃したくはないのだろう」
「新しい司祭枢機卿にベアラーを据えたのに、今更になってセリウス殿に拘る理由が、僕には分からないけど」
かつて、教皇は言った。
『——教会は違う。
枯れる前に手を引く。壊れるまで酷使はせん。——王族は己の為に、あるだけ欲するが、我らは信仰の為に必要分だけを利用し、器が軋めばこれを保護する』
……まさか本当に保護を?
教皇は、命拾いはしてもセリウスの器の軋みは戻らないとも言っていた。だからこそ、この先に起こるあらゆる困難も悲しみも、その軋みとやらも全て、引き受ける覚悟をしていたはずだった。
この命は、彼によって繋ぎ止められたものだから。
指先の血の気が静かに引いていくのが分かった。
「アルヴェル、顔色が悪い」
「……ああ。少し風に当たり過ぎたな」
そうか、それなら合点がいく。
保護が必要なほど、あの身にまた何かが起こっているのだ。
そうでなければ、力を返すと冗談で言っても嫌がるセリウスが、気付かないはずがなかった。
触れ合った唇から、微かに力を引き戻したことを。
「……戻る」
「ちょっと」
壁を押して背を浮かせた拍子に、ヘリオスが腕を掴んだ。
「……次はちゃんと言ってよ、殿下。俺にもそうだけど、月の精にはもっとね。
君が何を思っているのか口にするくらいは、押し付けでも何でもないんだから」
珍しい。
「らしくないな」
「おい、ふざけてないで」
「……分かったよ。ありがとな」
今度の返事には、素直に応じた。
アルヴェルは回廊を駆けることもなく、ただいつも通りの足取りで歩き出す。
セリウスを再び失うのではないかという、焦りにも似た予感を振り切るように。
***
既に辺りは翳り始めていた。
どれくらい眠っていたのか、感覚が曖昧だ。
タリクは身体を起こさずに、視線だけを隣へ向ける。
セリウスは、相変わらず少し俯いた姿勢のまま、本に視線を落としていた。
仄暗い室内で、彼の輪郭だけが白く浮かび上がって見える。
白い睫毛に縁取られた、透き通る淡い色の瞳。文字を追うその目は静かで、だが何も映していない様にも思えた。
「……起きましたか?」
こちらを見向きもせず、セリウスが言う。
まるで、いつ起きたのか分かっていてたかのような声音だった。
彼は本を閉じ、ふっと短く息をつく。
「暗くて、もうほとんど見えませんし……そろそろ戻ります」
こちらを向き、水色の瞳がようやくこちらを見た。
タリクは一瞬、言葉を探して、それから肩の力を抜くように笑った。
「……結構、寝ちゃった?」
「ええ。よく、休めましたか?」
冷たいのではない。だが淡々とした声だ。
「うん」
それだけ言って、少し間が空く。引き留める理由は、もうなかった。
「……ありがとう、居てくれて」
タリクは、ぽつりとそう言った。
セリウスは一瞬だけ目を瞬かせ、それから小さく頷いた。
「お役に立てたなら、何よりです」
立ち上がると、先ほどまでよりも一歩だけ距離を取る。
いつもの、王宮の距離。
セリウスはそれ以上何も言わず、静かに一礼すると、扉の向こうへ消えていった。
入れ替わりにナズが入室し、やがて扉が閉まる音が小さく響いた。
部屋には、夕暮れの翳りと、まだ消えきらない彼の気配が残っている。
「灯りをお点けしましょう」
「……うん」
タリクは背もたれに身を預け、ゆっくりと息を吐く。
(……浮かれてるな)
眠ってしまった自分を、起こさずに立ち去ることだって出来ただろうに、それをしなかった。
もちろん、自分の立場が彼にそれを強いたことくらい分かっている。
それでも——。
(少なくとも、嫌われてはいない)
そんな都合の良い解釈をしてしまう。
もっと、あの顔を見たい。
町で会った時のように、気兼ねなく笑う彼を。
王宮でも、教会でも、市井でも、彼を縛るものがあまりに多いのなら。
自分なら、そのいくつかを取り払ってやれるのではないか。
そんなことを考えてしまう。
「……僕ってこんなに欲張りだったかな」
「何か仰りました?」
「ううん」
タリクは小さく笑った。
知らなかったのだ。セリウスはこのとき何を思っていたかなんて。




