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女神の国 2  作者: 大福駒子


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Stirring


 教皇は、執務室にいた。

 そこは大聖堂とはまた違った静けさに満ちている。


「お加減はよろしいのですか」


 フェリットは挨拶代わりに伺うと、教皇は「うむ」と短く返す。それが「聞いている」だけという返事でしかない事を、フェリットは理解していた。


「あの子はどうだった」


「……どの子のことでしょう」


 にっこりと微笑んで返す。ささやかな仕返しのようなものだった。

 教皇はふっと空気が微かに震える程度の笑みを溢してから、


「まあいい、聞いてみただけだ」


と肩を竦めた。


「……いずれ隠れて暮らす事も難しくなる」


「……」


 なぜこうも確信できるのか、とフェリットは思う。

 こうなると、もはや信仰というより執着に近い。だが、その執着がなければ、この男がここまで教会を守り続けることもできなかったのだろう。


 醜くて、哀れだ。


 だが、それを利用している自分もまた、いずれ彼のようになるのだろうか。


「市場での騒ぎも、あながち悪くない偶然だった。神は私たちを今なお見離さずにおられる。

 では私たちはそのギフトを憐れな民草のために使わねばならぬ。

 そう思わんか、フェリットよ」


「……存じております」


 背を、蜈蚣が這うような感覚が走る。

 それを押し殺すように、フェリットは奥歯を噛み締めた。




 少年が回復したという噂は、夜明けとともに王都を駆け巡った。

 数日のうちに話は形を整えられ、角を削られ、やがてただ一つの結論へと収束していた。


 ——御子の御業。


「もう歩けるらしい」

「傷跡すら残っていないってさ」

「一昨日まで、死にかけてたんだぞ?」


 診療所の前には、朝から人だかりができていた。

 少年は確かに顔色もよく、包帯の下の傷の治りも早い。

 確かにセリウスとルチアの施した"加護"の影響もあるだろう。だが医師に言わせれば、それは本来辿る経過が、ほんの少し早まった程度に過ぎない。懸命な処置と少年の生命力を以てすれば、十分に予想できる経過だ。


 だが、そんな些細な違いに、もう誰も興味を示さなかった。


 少年が窓際に姿を現した瞬間——歓声が上がる。


「奇跡だ!」

「御業だ!」

「見ろ、あれが——」


 少年の名が呼ばれることはなかった。

 代わりに与えられた呼び名は、ただ一つ。


 “奇跡の子”。


「母さん……これ、何なの?」


 少年は、ただ必死で母の腕にしがみついている。

 彼の世界は、昨日までと同じように始まったはずなのに、すでに別の物語が始まっていた。


「先生、あの治癒師は……」

「また来るんでしょう?」

「次は、うちの婆さんを——」


 祈るような声。

 縋るような目。


 奇跡は、望まれる形に整えられた。


「でも、一昨日確かに御子様は……倒れてたよな」

「お顔色も、真っ青で……」

「あの方では救えなかったから、教会からも別の御子様がいらしたんでしょう?」


 ひそやかな囁き。

 だが、すぐに別の声が重なる。


「何を言う。祈りの最中に膝をつかれただけだ」

「あの子は死にかけだったんだぞ。大水の頃を知らないのか?あのときだって何人もの御子様が手を尽くしていたじゃないか」


 一度そう言われれば、反論は難しい。


「尊いお姿を、軽々しく語るな」


 たしなめるような声音。

 諭すような笑み。


 それは、“正しい解釈”。


「やれやれ。迷惑な話だ……」


 診療所の奥で、医師が深く息を吐く。

 あの治癒師の男は確かに力を使いはしたのだろう。冷や汗を滲ませ、自らもやっとで立っているようだった。

 だが、だからと言ってあの手技に妥協はなかった。最後まで気を抜くことなく、医師として立っていた。


 奇跡が触れたのは一瞬だ。

 止血し、縫合し、経過を見守った。

 直接少年を支えたのは医師たちの力であるはずなのに。懸命に脈を打ち、生きようとしたのは少年自身の力であるはずなのに。


 人は、完全な奇跡を欲しがっている。

 揺らぎも限界もない、神の御業を。


 白銀の男が小さな命を救うために必死だったことくらい、医師にも分かっている。


「でもこれは違うだろう……」


 やるせなさだけが、胸に溜まって冷えていくようだった。


**


「——今朝より市場で騒ぎが起き、近衛が出動致しました」


 朝一で伝えられたのはそんな簡素な報告だった。

 ローワンは茶器に伸ばしかけた手を止めて、無言で横に控えていたエドガーを見る。


「一昨日の件です」


「ああ」


「左様でございます。少年が無事回復したとのことで、お祭り騒ぎになっているとか……」


 文官の話ぶりはいかにも“良い話”として解釈しているのだと、声色で分かる。

 だが、その言葉はローワンの胸をざらつかせた。


「……お祭り騒ぎ、か」


「……あ、ええと」


 文官は一瞬、言葉を選ぶように視線を泳がせた。


「奇跡の証として、です」


 救われた命。

 それ自体は、疑いようもなく喜ばしい。

 しかし——その喜びが、今まさに別の何かを飲み込み始めていた。


 ローワンは、ゆっくりと息を吐く。


「エドガー。セリウス先生は?」


「はい。あまり顔色は良くありませんでしたが、先ほど朝食も召し上がった、と伺っています。

 今はエルネスト医師のところへ」


 完全に退出するタイミングを失っていた文官に、エドガーが掌で「行け」と合図する。

 それを見ながら、ローワンはもう一度、セリウスの顔を思い浮かべていた。


「そう。できるならしばらくは休ませてやりたいね」


 そう言うと、ローワンは顔を洗うように両手で顔を覆って、天井を仰いだ。


 やはり、まだ本調子ではないらしい。

 昨日の一件も——本人が言うには大したことではないようだったが、それでも身体に負担が掛かっているのだろう。

 力を持つ者には、力を持つ者なりの不調がある。

 セリウスが力を使うことを望んでいないのは分かったが、その所為で泉の流れまでおかしくなって、かえって身体に何か影響しているのでは、本末転倒ではないか。


(いや、待てよ——)


 ローワンは押し黙って、あのとき感じた違和感を辿った。


 肝心な事ほど、彼は露骨に距離を取る。

 それでも、『力を持たない人間と同じように、生きたい』——その言葉は、本心に違いなかった。

 人と関わり心が揺らげば、泉は潤いも淀みもするだろう。それでも、彼は往く先々で人と関わってきた。

 だとすれば、医師として人に対しては力を使わないと課した上で、上手く発散していたはずだ。


 (それではあの窶れ様は他に理由が——)


「殿下?」


 ……これ以上考えても仕方がない。

 今、すべき事。自分の目の前にある問題と混同してはいけない。


「……」


 もし、このまま“お祭り騒ぎ”が続けば、セリウスの掴んだ穏やかな日々は終わりを迎えてしまうだろう。望まない生き方を、再び強要されるかもしれない。

 それを防ぐためにも、まずはベアラーそのものが「何でもできる存在ではない」と、人々に知ってもらわなければなるまい。


「ねえ、エドガー」


 指の隙間から、茜の瞳がエドガーを窺っている。


「やっぱり、ベアラーの力は何でもできるわけじゃないって、ちゃんとみんなが知るべきだと思うんだ。少なくとも教会にとって不都合な部分さえ協議して公開範囲を決めれば、衝突は免れると思うんだけど……どう思う?」


「……」


 驚いた。


 この間まで、自分の力だけで突き進んでいた少年が、初めて、答えを自分の外に求めている。

 それほど彼の中では、考えがすでに形を成しているのだと理解し、エドガーは口元を緩めた。


「……理屈としては、正しいと思います」


 エドガーは一拍置き、慎重に言葉を選ぶ。


「ベアラーの力が万能だと信じられている限り、人々は“次”を求め続けます。

 ……殿下はまだ生まれる前のことでしたからご存知ないでしょうが、あの大水のときもそうでした。治らなかった者、救われなかった者、人はそのすべてを——力を持つ者の責にします」


「それは……その時は、どうなったの?」


 その問いに、エドガーは一度躊躇うようにふと視線を逸らしてから、ぽつりと語りだす。


「……私はちょうどその頃、文書管理の下働きをしていました。命を賭して使命を全うした彼らの"奇跡"を記録する、それが私の最初の仕事でした。

 やがて、誰とはなしに囁かれるようになりました。不自由な身体から解き放たれたベアラーの魂が、大地を癒しているのだと」


 ローワンの瞳がわずかに細まる。

 エドガーは、続けなかった。


 昨日からの市井の語られ方を思えば、誰かが“解釈”を誘導したに違いなかった。

 否定も訂正もしない。だが、意味を固定する。

 それが教会のやり方だと、かつて神官であった彼はよく知っている。

 視線を上げ、ローワンを見る。


「公開範囲を決めるということは、信仰を守るのではなく、制御する側に回るということです」


「元神官に言われると、ヒヤッとするね」


「ですが、これが教会の理論です」


 エドガーは小さく苦笑してから、一つヒントだとでも言うように人差し指を立てる。


「祈っても、願っても、起きるかどうか分からない。だからこそ奇跡だと、私個人は思います」


 ローワンは椅子に凭れたまま窓の外を眺めていた。

 祈っても、願っても、起きるかどうか分からない。それでも、人はそこに意味を見出す。

 ならば——。


 暫くして、ローワンのまぶたがパチパチと瞬き、「あ」と声が漏れる。


「じゃあさ……奇跡の物語を、こちらで編めばいいんじゃない?」


「……はい?話聞いてました?」


 エドガーが瞬時に怪訝な顔をして見せた。


「ええと、なんて言ったらいいか……。

 そう、つまり……すべてが同じじゃない物語だよ。不揃いで、不完全で、誰の祈りにも応えない日もあって——それでも、時々起きる」


 一拍置いて、ローワンは続けた。


「萎れた花が咲くくらいの小さな奇跡から、アルヴェル殿下が生き帰った、あの大きなものまで」


「ふっ、ははは。……なるほど」


 一拍開けて、エドガーは笑った。

 真面目な顔して、突飛なことを言う。だけど、妙に核心を得ているから面白い。


「確かに、それなら"秘匿情報を漏らした"ことにはなりませんね」


「そう、これはあくまで"噂"だから」


***


 それから数刻後——。

 ローワンの姿は歳の離れた異母兄弟の元にあった。


「——で、私に話って?」


 黒髪の隙間から、自分と同じ色の瞳がローワンを見ていた。

 無駄なものがない無機質な執務室は、訪れた者に逃げ場のなさを感じさせ、ローワン自身も実のところほんの少し息苦しい。


「市井の情勢については、もうご承知ですよね?」


「……ああ、聞いている」


 そう返すアルヴェルの声は少々うんざり、とでもいうような色を含んでいる。

 市井の反応は想定内。そんな、うっすらとした諦めすら感じられた。


「悪魔の次は、奇跡の証だそうです」


 語られる人物は同じ。

 だが、五年前とは語られ方が違った。祈りの形をした——期待だ。


「だろうな。

 だが……奇跡が起きれば、人は縋る。行き過ぎた祈りは、やがて対価として数えられるようになる」


 淡々とした口調で男はそう返した。

 アルヴェルにしてみれば、王族として、そして“生き返った者”として、何度も見てきた光景なのだから。


 ローワンは一歩、踏み出す。


「このままでは、あの少年も、セリウス様も——

 奇跡の“結果”ではなく、また象徴として消費され続けます」


 アルヴェルの眉間に、小さな山ができた。

 だが、彼はすぐに表情を戻して、ゆっくりと息を吐く。


「前置きが長い、手短に」


 端的だが、続きを促す声音は意外にも穏やかだった。


「……私は、“奇跡の物語”をこちらで編もうと思っています」


 言葉の意味を掴みかねたアルヴェルは、一瞬考えるように眉を寄せ、だがすぐにその瞳がローワンを射抜く。


「……それは、信仰を守る話か?」


「いいえ」


 ローワンは、はっきりと首を振った。


「人を守るための話です」


 その答えに、アルヴェルは目を細めた。


「噂は止められない。でも、向きは変えられる」


 試されているような沈黙を割くようにしてローワンはそう言って、かつて書いた政策の資料を兄の前に差し出した。

 訂正線や、色のついたインクで何度も書き直されたそれ。

 アルヴェルが目を通している間に、ローワンは先ほどエドガーとした会話と同じ内容を話した。


 アルヴェルは資料に視線を落としている。


 だが、その口角がわずかに上がっているのを見て、ローワンは思わず口を引き結んだ。


「……随分、書き直したな」


 感想は、それだけだった。

 叱責でも称賛でもない、ただの事実確認。

 ——それでも。

 どう頑張っても追いつけないでいた男の、その僅かな緩みに、ローワンの胸は熱くなった。


「はい……!」


 ローワンは短く答えた。


「最初に書いたものは……今見ると、ずいぶん独りよがりでした」


「確かに」


 アルヴェルは口元だけで笑い、先を促すように視線を寄越した。


「……でも」


 小さく、けれど確かな声で答える。


「奇跡を管理したいんじゃない。ベアラーを神にしたくもない。ただ、人として生きさせたい。

 それは、最初から変わっていません」


「それで、これか」


小さく息を吐くアルヴェルに対し、ローワンは自ずと肩に力が入った。だが、


「一度は噂の渦中にいたお前が、今度はそれを利用する側に回るか。……ローワン、お前、実は性格が悪いな?」


笑みは消えていたが、その表情はどこか穏やかだった。


「それは……兄上も同じでしょう?」


ほっとして、つい余計なひと言を漏らす。

 それでも男は表情を変えず、どこか懐かしむように言った。


「……人の口ほど、当てにならんものもないが——使いようではある」


 その声色には、かつて噂を利用し、また噂に翻弄された者の、わずかな苦味が滲んでいた。


「決めたなら、はやく行け」


 不意に視線が強くなる。

 ローワンの喉が、小さく鳴った。


「私はもうお前の指導係でもないし、この国の管理者でもない」


「……」


「お前の上司に持って行って、説明してこい」


 アルヴェルは立ち上がり、小さく伸びをすると


「全てのベアラーを解放するんだろ?なら、セリウスのことは気にするな」


と言って、ローワンに歩み寄る。


「あれの心配は俺だけで間に合っている」


 ローワンの肩に触れ、覗き込むようにして言う。


 近い。

 思わず息を詰めるほど、その顔が近くにあった。


「あの……ひとつだけ」


「ん?」


「セリウス様、なんともないですよね?」


「……ああ」


 一呼吸遅れて届いたその声音は、やけに優しかった。彼には珍しい、まるで窘めるような響き。

 不安が顔に出ていたのか、アルヴェルはローワンの肩を軽くポンポンと叩いた。

 そのまま彼を背にして、コートハンガーから外套を取り上げる。


「陛下も忙しいから、早く行った方がいい」


「殿、……兄上は?」


「兄と言い難ければ呼び捨てで構わん」


 ぎこちなく問うローワンに、くすくすとアルヴェルの肩が揺れる。


「ちょっとな」


 肩越しに振り向いた男の眉が優しく下がる。


 (ああ……野暮なことを)


 ローワンも肩をすくめた。



 今朝、近衛師団の列が王門を出て行くのを見た。

 だからセリウスは、まだ王宮の誰からも何も聞かされていなくても、この後のことが容易に予想できていた。

 昨日のルチアの一言で、十分だった。


 市井は癒しの力の正体を知らない。

 だから“不完全”という言葉が独り歩きすれば、きっと信仰は揺らぐ。それは教会にとっては、不都合であり、同時にうまく利用すれば信仰心を煽るきっかけにもなり得るということだ。


 ルチアの言葉は、きっと正しい。

 彼女自身がどう思おうと——信仰を守ること、それが教会にとっての正解なのだから。


 そして、そのきっかけを与えてしまったのは他ならぬ自分自身だ。


 セリウスは眉根を寄せ、小さく息を吐く。


「どこか痛むか?」


 エルネストの声に、セリウスはハッとする。

 吸い込んだ空気に消毒の匂いが混じっている。


「一昨日よりは顔色は良いが……。その……わしでは特殊な力のことは診てやれんしなぁ」


 疲労や栄養失調の類ではないのだろうと、恐らくエルネストは察していた。


「それは自分で分かっていますから、ご心配いただかなくても大丈夫です」


 セリウスは努めて何でもないことのように笑って見せた。

 昨日、見送りに立っていた枢機卿の顔が脳裏をよぎる。彼もまた触らずとも自分の状態に気付いていた。そして、あの場所でルチアが自分に接触し、何を喋るかも——全て、織り込み済みだったかも知れない。


 これ以上燃えれば——大義名分が成立し、遅かれ早かれ自分は教会に“保護”されるのだろう。


「セリウス殿。これ、眩暈と耳鳴りに。ついでに胃薬だ」


 薬局から出てきたラシードがひょいと薬袋を寄越す。


「そんな、自分で——」


「自分で作る技術があるのは知ってる。だが自分の為に乳鉢を使うか?」


ラシードはくすりと笑った。


「残念ながら、その点において君はまるで信用がない」


「……そんなですか、私」


 顔を上げると、今度はなみなみと茶が注がれたコップが目の前に突き出された。


「ありがとう……ございます」


 溢さぬよう、丁寧に両手で包み込むようにして受け取ると、湯気とともにカモミールの香りが静かに立ち上る。


「そう、そんなふうに。君はひとまず、受け取ってみさえすればいい。それが相手の為にもなるというものだ」


 ラシードが満足そうに笑うと、エルネストも同意するように僅かに肩を揺らした。


(受け取ってみる、ねぇ……)


 アーサーは表向き、タリクの介添人として自分をここに留めている。だがそれも、市井の動きを見越しての判断だったのかも知れない。

 迷惑を掛けるよりは出て行くべきとも思ったが、広い目で見れば、ここに留まることも悪手ではないのだろう。

 けれど、そう思おうとしても上手くはいかなかった。何事も悪い方へと意味づけてしまえるほどには、セリウスは滅入っていた。


「飽きもせず……まだ己を責めておるのか?」


 エルネストは既に自席で学生たちの論文に目を落としている。


「……それはそうですよ」


 セリウスは視線を伏せたまま、静かに言葉を継ぐ。


「あの少年と家族の現状まで考えられていたかと問われれば、私のやったことはあまりにも……近視眼的でした」


 セリウスは、カップの縁に指先を添えたまま、そっと力を抜いた。


「それに……本当は、あの時怖かったんです」


 こんな事は言うべきではない。

 それでも、一度口を吐いて出た言葉は止まらなかった。


「あの場で、救えなかったら……私は悪魔だと呼ばれるんじゃないかって」


 私は一体、どうしてしまったんだろう。


「……へえ、驚いた」


 ラシードが揶揄うようにそう言い、テーブルに出されていた焼き菓子に手を伸ばす。


「……いや、済まない。君には君の悩みがあるよな」


 そう言って菓子を口に放り込むと、ラシードは天井を仰ぐようにしてほんの束の間考え込む。


「色素が薄いというだけで悪魔だなんて、全く科学的じゃない。私は医者だからな。つい、そういうものとしてしか見ていなかった。

 だけど、セリウス殿。その迷いこそ実に人間らしいと私は思うがな」


「……」


 ラシードの言うことは尤もで、もしこれが患者の言葉であれば、セリウス自身もそう思ったに違いなかった。

 だから彼の言葉に少なからず救われ、それと同時にまたひとつ分かる。


 己こそが、自らを悪魔たらしめていたのだと。


「何はともあれ。あの子どもが助かったのだから、もう良いにしないか」


「……はい」


 セリウスは、小さく頷いた。


「そういえば……ラシード殿にまだお礼を言ってませんでした」


 しばらくの沈黙を割いてセリウスは言った。


「ありがとうございました。あの場所を通りかかって下さって」


「おや……」


 セリウスの言葉に、ラシードは危うく口の端から菓子をこぼしかけた。


「偶然ではないぞ。なんだ……殿下から聞いていないのか」


「殿下?」


 ラシードはやれやれと肩をすくめ、次の菓子を選ぶ手を止めなかった。


「そう、殿下。必要だと思えば理由を説明せずに人を動かすお方。いるだろ?」


「……」


 セリウスは返す言葉を探して、結局やめた。

 確かに——あの人は、そういう人だ。


「感謝より、さっきの実に人間らしい悩みをお聞かせすれば良い。あの方を差し置いて私たちが聞いてしまうのも気が引けるしな」


 ラシードの後方で、エルネストも笑っていた。


 カップの中で、湯気が静かに揺れている。

 手の中のそれはぬるまっていたが、セリウスは、もう少しだけここに留まっていたいと思った。



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