第95話 揺らぐ摂政
摂政執務室。
ハラルドは書類に目を通していた。
扉が叩かれた。
「失礼いたします」
フレイが入室した。その表情に、いつもと違う硬さがあった。
ハラルドは顔を上げた。
「報告か」
「はい」
フレイの声には、わずかな緊張が滲んでいた。
「黒曜騎士団が、全滅しました」
部屋の空気が変わった。
ハラルドの手が止まった。
「……なんだと」
珍しく声に、動揺が混じった。
「詳しく話せ」
「北部街道にて、マリアンネ様一行と交戦」
フレイは淡々と続けた。
「六名全員が戦闘不能。ゼーヴェリンを含めて」
「敵の戦力は」
「報告によれば」
フレイは、一度言葉を区切った。
「たった一人の女剣士に、全滅させられた、とのことです」
ハラルドはしばらく、何も言わなかった。
その沈黙が、これまでの彼からは想像もつかない、深い動揺を物語っていた。
想定外だった。
マリアンネが生きて戻ってくることは、二年前から頭の隅に常にあった。備えてもいた。
しかし国家最強と謳われる黒曜騎士団を、たった一人で壊滅させる戦力を連れているとは、思ってもいなかった。
ハラルドは椅子の肘掛けを、指で静かに叩いた。
その瞳の奥で、何かが静かに疼いていた。
(力が必要か)
その思考は誰にも聞こえない、内側だけの声だった。
自分の中に封じている、あの力。あの代償の大きな力。
まだ使う時ではない。そう自分に言い聞かせた。
しかしその封印の蓋が、わずかに緩んだような、そんな感覚があった。
「フレイ」
ハラルドは静かに口を開いた。
「マリアンネの、次の目的地は」
「まだ確定はしていません」
フレイは答えた。
「しかし、北部へ向かっているという報告が」
「北部……」
ハラルドの思考が、素早く動いた。
北部にある大きな拠点。反ハラルド派の拠点。そして世界樹神殿。
その名前が頭に浮かんだ瞬間、ハラルドの表情が変わった。
「まさか」
立ち上がった。
「神殿へ向かうつもりか」
フレイは答えなかった。まだ確証はなかった。
しかしハラルドの直感は、既に確信に近かった。
王印。王家の血を引く者にしか触れられない神器。
その力をマリアンネが証明してしまえば、自分の摂政としての立場は根底から崩れる。
ハラルドは誰よりも、その神殿の意味を知っていた。
「軍を動かす」
静かに、しかし迷いなく命じた。
「表向きは……盗賊討伐、とでもしておけ。実際には、神殿封鎖を強化する」
ハラルドの目に、冷たい光が宿った。
「軍で、神殿を包囲する。大神官を軟禁しろ。神官たちには監視をつける。神器には、誰一人近づけるな」
フレイはその命令を、静かに書き留めていった。
「大神官には」
ハラルドは続けた。
「戴冠を認めるよう要求しろ。拒否すれば、そのまま軟禁を続ける。神殿を完全に沈黙させろ」
フレイは、一度だけ確認した。
「よろしいのですか。世界樹神殿に直接手を出すことは、これまでどの王も避けてきた禁忌のはずです」
「知っている」
ハラルドの声に、揺らぎはなかった。
「だが」
窓の外、王都の街並みを見つめた。
「マリアンネに証明されてしまえば、全てが終わる。ならば、その証明の機会そのものを、与えなければいい」
フレイはそれ以上何も言わなかった。一礼し、部屋を後にした。
一人になった執務室で、ハラルドはしばらく窓の外を見つめ続けていた。
黒曜騎士団を一人で壊滅させた女剣士。白狼流を封印している王女。そして、その二人を支える正体不明の仲間たち。
想定を超えた脅威が静かに迫っていた。
ハラルドは自分の右手を見つめた。
その手の甲に、わずかに浮かび上がる暗い紋様があった。普段は決して表に出さない印だった。
その紋様を見つめながら、ハラルドは小さく呟いた。
「まだ、早い」
自分に言い聞かせるように。
紋様は静かに消えていった。
しかしその感触だけは、しばらく掌の中に残り続けていた。
つづく…
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