第91話 白狼牙の罪
王城の訓練場。冬の朝だった。息が白く、空気は刃のように冷たかった。
マリーは木剣を構えていた。まだ十二歳だった。
向かい合う父。ヴァルデマール・ヴァルケリア。ヴァルケリア連邦王国国王。白狼流の継承者。
その目に、これまで見たことのない厳しさが宿っていた。
「お前の中に、まだ甘さがある」
静かな、しかし重い声だった。
「その甘さが邪念となり、剣を鈍らせる。甘さを捨てぬ限り、白狼牙は体得できない」
マリーは、木剣を握る手に力を込めた。
「次が最後だ」
ヴァルデマールは続けた。
「私はお前を、殺すつもりで行く。それに対応してみせろ」
「――――」
マリーは何も言えなかった。喉が動かなかった。
「行くぞ」
父の姿が消えた。
いや消えたのではない。動いた。それだけのことだった。しかし目で追うことすらできなかった。
殺気が押し寄せた。これまでの稽古とは、まるで違う。手加減というものが、一切感じられなかった。
(お父様は本気だ)
マリーの頭の中で、その考えだけが明滅した。
(本気で私を殺す気だ。そうしないと私は、白狼牙を習得できない)
目を閉じた。見て追いつく速さではなかった。ならば目を使わない。
気配を探った。殺気の輪郭を。空気の揺らぎを。
殺らねば殺られる。その一点だけが頭を支配していた。
「そこだ!」
叫びと共に、マリーは木剣を振り抜いた。
未完成の白狼牙。それでも、これまでにない鋭さがあった。
手応えがあった。確かな命中の感触。
(まさか)
マリーの胸に震えが走った。
(お父様を斬った?)
目を開けた。
しかし、そこに倒れていたのは、父ではなかった。
小さな体だった。四歳の弟、エーリックだった。
訓練場の隅で、いつも二人の稽古を見ていた。今日もそうだった。
それがどうしてか、気づけば二人の間に飛び出していた。
「お姉様、すごい」
といつも笑っていた、あの子が。自分を鍛える、あの剣に憧れて、真似したくて、ただそれだけの理由で。
マリーは殺気の輪郭を追っていた。目を閉じたまま。
その小さな気配を、父の殺気と見誤った。
「エーリック!」
マリーの悲鳴が、訓練場に響いた。
駆け寄った。小さな体を抱き起こした。
温かかった。まだ温かかった。それなのに。
「おね……え……さま」
声がこぼれた。最後の力を振り絞るように。
その目には、何が起きたのか理解できていない、無垢な色だけがあった。痛みも恐怖も、まだ実感できていないその目で、姉の顔を見上げていた。
エーリックの目から、光が消えた。小さな体が動かなくなった。
マリーは絶叫した。声にならない絶叫だった。
喉が張り裂けるほどに叫んでも、目の前の小さな体は、二度と動かなかった。
---
――マリーは目を覚ました。
全身が汗でびっしょりと濡れていた。呼吸が荒かった。心臓が早鐘のように打っていた。
周囲を見渡した。街道の野営地。焚き火の燠火が赤く残っていた。夜がまだ深かった。
夢だった。
いつもの、あの夢だった。何年経っても、その鮮明さは色褪せない。
マリーは震える両手で顔を覆った。声を殺して泣いた。
誰も起こさないように。誰にも気づかれないように。
ただ静かに、その涙だけを闇の中に流し続けた。
このまま眠りにつけば、また同じ夢を見る。
そんな気がした。
マリーは毛布を払い、静かに立ち上がった。物音を立てないよう、寝息を立てる仲間たちの間を抜けた。
焚き火のある方へと歩いていった。
そこに人影があった。
膝を抱えて座る、深紅の瞳。アリシアだった。
マリーは思わず声を出した。
「どうした、アリシア。眠れないのか」
「ええ」
アリシアは静かに頷いた。
「妹、リリムのことか」
「それもあるけれど」
アリシアの視線が、マリーの顔へと向いた。
「マリー、汗をかいているの?」
言われてマリーは、自分の額に触れた。冷たい汗が、まだ残っていた。
「あ、ああ」
「嫌な夢でも見たの?」
「――――」
図星だった。
この女の洞察力は鋭い。この女に嘘はつけない。そんな気がした。
「そんなところだ」
「そう」
アリシアは、それ以上何も聞かなかった。
---
マリーはアリシアの隣に、腰を下ろした。
焚き火の残り火が、二人の顔を赤く照らしていた。
しばらく無言の時間が流れた。
マリーはその沈黙の中で考えていた。
この女は自分の妹を後回しにしてまで、力を貸してくれるという。一か月という期限を切って、自分のために時間を使おうとしている。
自分は弟を失った。アリシアは妹を救おうとしている。
もし自分がアリシアの立場だったら、同じことができるだろうか。自分の妹を後回しにして、他人のために剣を振るう。
――できるわけがない。
そう思った。
それでもアリシアは、それをしようとしている。
この女になら。エーリックのことを話せるかもしれない。
いや。聞いてほしいと思った。
「弟が、いたんだ」
マリーは焚き火を見つめたまま、口を開いた。
アリシアは何も言わなかった。ただ静かにマリーの言葉を待っていた。
「エーリックという名前だった」
声が小さく震えた。
「四歳で、私の稽古を見ているのが好きだった」
マリーは両手を膝の上で握りしめた。
「私は白狼流最強の技を習得しようとしていた。父に稽古をつけてもらっていた」
「父は本気で私を殺すつもりで向かってきた。そうしなければ、あの技は体得できないから」
アリシアはじっと、マリーを見ていた。
「私は目を閉じて、気配だけで父の動きを追った。そこにエーリックが、飛び出してきた」
声が掠れた。
「私は……見誤った」
「父の殺気だと思い込んで」
「私は、あの子に向かって」
言葉が続かなかった。喉の奥が締めつけられるようだった。
しばらくマリーは何も言えずにいた。焚き火の爆ぜる音だけが静かに響いていた。
「私が殺した」
ようやくその言葉を絞り出した。
「守りたかったはずの弟を、自分のこの手で」
涙がこぼれた。止められなかった。
「それから、白狼を封印した。もう二度と、大切な人を傷つけないように」
「でも」
声が震えた。
「本当はわかっていた。白狼を封印しても、あの日のあの子は、戻ってこない。ただ逃げていただけなんだ、私は。自分の罪から」
アリシアは、しばらく何も言わなかった。
やがて静かに手を伸ばした。マリーの手を、そっと包み込んだ。温かい手だった。
「マリー」
優しい声だった。
「話してくれて、ありがとう」
マリーは顔を上げた。
「……怖くないのか」
「何が?」
「私は弟を殺した。反射的とはいえ、この剣で」
アリシアは静かに首を振った。
「怖くないわ。あなたはその子を、傷つけたくて傷つけたわけじゃない。守りたかった。ただそれだけだったのでしょう」
マリーの目から、また涙があふれた。
「それに」
アリシアは続けた。
「私も同じよ。妹を追い詰めたのは、私かもしれない。私は妹の分も、がんばらないといけない。そう思って、無理をしていた。それがリリムを、闇に追い込んだ」
「私たちは二人とも」
アリシアの目にも、静かな光が滲んでいた。
「大切な人を守れなかった、その痛みを抱えている」
マリーは、アリシアの手を握り返した。
「だから」
アリシアは続けた。
「あなたの痛みが、わかるとは言わない。でも、一人じゃないということだけは、伝えたかった」
マリーはしばらく、声を出せなかった。
やがて小さく頷いた。
「……ありがとう」
その一言だけを絞り出した。
夜が静かに更けていった。
焚き火の残り火が、二人を優しく照らしていた。
言葉はそれ以上いらなかった。
ただ隣に誰かがいる。その事実だけで。
マリーの胸の中の何かが、少しだけ軽くなった気がした。
つづく…
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