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紫の邪術師と深紅の賢者 ~落ちこぼれ妹は闇落ちし、姉に追われながら死人を従える~  作者: Nagiousen


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第90話 黒曜騎士団、出動

 王城内、摂政執務室。




 広い部屋だった。しかし装飾は少ない。壁に掛けられているのは、ヴァルケリア全土の地図がただ一枚だけだった。華美な調度も家紋の刺繍も、そこにはない。




 執務机の向こうに、一人の男が座っていた。




 摂政宰相、ハラルド。




 年は五十を過ぎているはずだった。


 しかし、その姿に衰えは感じられない。




 灰色の髪は短く整えられ、こめかみにはわずかに、白いものが混じる。無精ひげ一つ許さぬ端正な顔立ち。刻まれた皺は老いではなく、長年政務と権力闘争を潜り抜けてきた歳月を物語っていた。




 最も印象的なのは、その瞳だった。


 淡い氷色の瞳。


 怒りも喜びも映さない。




 まるで相手を人ではなく、一つの駒として値踏みするような、冷たい眼差しだった。




 黒を基調とした摂政の礼装は、華美な装飾をほとんど持たない。それでも胸元に輝く黒曜石の紋章だけが、この国の実権が誰の手にあるのかを、静かに示していた。




 背筋は微動だにせず伸びている。


 その姿には、武人のような威圧感はない。




 部屋に足を踏み入れた者は皆、本能的に息を潜めた。




 この男の前では、一つの言葉が人を生かし、一つの沈黙が人を殺す。


 そんな絶対的な権力が、静かにそこに座っていた。




 扉が叩かれた。




「失礼いたします」




 フレイが入室した。




 ハラルドは、顔も上げなかった。




「報告か」




「はい」




 フレイが、報告書を差し出した。




 ハラルドは手を止め、それを受け取った。静かに読み始めた。




 部屋が静まり返った。ペンを走らせる音も時計の針の音も、この瞬間だけは聞こえなくなったように感じられた。




 報告書には、こう記されていた。




 王女らしき人物。白狼流を使う女性。ラグナル隊が同行。純白の魔術師。北へ向かっている。




 ハラルドはその全てに、ゆっくりと目を通していった。




 読み終えた。




 しかし驚かなかった。怒りもしなかった。表情一つ変えなかった。




 ただ一言だけ。




「……生きていたか」




 それだけだった。




 そのたった一言に、二年間片時も忘れることなく探し続けてきた執念が、静かに滲んでいた。




 フレイは、冷静に続けた。




「確認班の判断では、本人である可能性は極めて高いと」




 ハラルドはまだ、何も言わなかった。




「同行者には、離反したラグナル隊、魔術師と思われる若い女、確認済みです」




 ハラルドは椅子から立ち上がり、窓辺へ歩いた。王都を見下ろした。石造りの街並みが、朝の光の中に広がっていた。その遥か先に、王女が向かっているという、北の街道があった。




「王都へ向かっているな」




 静かに言った。




「はい」




 フレイが頷いた。




 ハラルドはしばらく、窓の外を見つめていた。頭の中で、静かに計算していた。




 逃げ続けるなら脅威ではない。放っておけば、いずれ野垂れ死ぬか、どこかで朽ち果てる。それだけの話だった。




 しかし、王都へ来るということは違う。


 それは逃げているのではない。王位を取り戻しに来ている。


 その事実だけで、意味は完全に変わった。




 「逃亡者」から、「反乱軍の旗印」へ。




 放置していい存在ではなくなった。むしろ今この瞬間から、最優先で潰さなければならない脅威となった。


 ハラルドの目に静かな、しかし冷たい色が宿った。




 ハラルドは卓上の鐘を鳴らした。澄んだ音が執務室に響いた。


 しばらくして、扉の外に近衛が控えた。




「黒曜騎士団長、ゼーヴェリンを呼べ」




 命令に一切の迷いはなかった。




「はっ」




 近衛が去った。それから、そう長くは待たなかった。




 扉が開き、一人の男が入室した。




ハラルドの前に進み出た男は、四十代とは思えないほど、均整の取れた体躯をしていた。




 身長は一九〇センチ近い。


 漆黒の鎧は一切の装飾を持たず、ただ黒曜石のような鈍い光だけを放っている。




 短く刈り込まれた黒髪には、白いものが混じり始めていた。




 鋭い鷲鼻。




 頬から首筋にかけて一本走る古傷。


 幾度となく死線を越えてきた証だった。




 そしてその金色の瞳は、感情を宿さない。


 命令だけを遂行するために存在しているかのような、冷たい眼差しだった。




 仮面は外していた。素顔を晒したまま、ハラルドの前に片膝をついた。




「お呼びでしょうか」




「任務だ」




 ハラルドは、報告書を机の上に置いた。




「マリアンネ・ヴァルケリア」




 その名を口にした。




 ゼーヴェリンは、一切驚かなかった。


 ただ静かに言った。




「生存しておりましたか」




「連れて来る必要はない」




 ハラルドは続けた。




 ゼーヴェリンは、わずかに目を細めた。




「……抹殺、でございますか」




「そうだ」




 ハラルドの声に、揺らぎはなかった。


 さらに続けた。




「同行者も、護衛も」




 一拍置いた。




「全員、始末しろ」




 部屋に沈黙が落ちた。




 ゼーヴェリンは、静かに頭を下げた。




「承知いたしました」




 立ち上がり踵を返した。扉を開け部屋を出た。




---




 廊下には既に、黒曜騎士団他の五人が待っていた。




 全員が漆黒の鎧を身に纏っている。




 その鎧は黒曜石を削り出したかのような鈍い光を放ち、豪華さよりも実戦だけを追い求めた造りだった。




 その六人の姿は、決して同じではない。




 一人は大柄な体躯で岩のような威圧感を放ち、一人は細身の長身で槍を携えたまま微動だにしない。


 腰に双剣を下げた若い騎士は、獲物を前にした猛獣のような鋭い眼差しを宿していた。黒い長衣を鎧の下に纏った男は、生者とも死者ともつかぬ青白い顔で、静かに立っていた。


 褐色の肌をした弓騎士は、廊下の壁に溶け込むように気配を消し動かなかった。




 年齢も体格も、それぞれ違う。


 共通しているものは、一つだけだった。




 誰一人として、表情を変えない。


 そこにあるのは、怒りでも誇りでもない。


 命令を遂行するためだけに研ぎ澄まされた、静かな殺意だった。




 五人が並ぶだけで、廊下の空気が重く沈む。




 彼らは王国最強と謳われた、旧王国騎士団とは違う。


 民を守るための騎士ではない。




 ハラルドの命令一つで、村も、町一つさえ消し去る。




 摂政宰相直属――黒曜騎士団。




 その名を聞けば、王国中の誰もが口を閉ざした。


 全員漆黒の鎧を纏い、黒い仮面をつけていた。番号だけで呼ばれる者たち。




 ゼーヴェリンは、彼らの前に立った。短く一言だけ告げた。




「狩りだ」




 その一言で、六人が一斉に踵を返した。




 重い足音だけが、誰も言葉を発することなく、静かに王城の廊下に響いていった。





つづく…




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