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紫の邪術師と深紅の賢者 ~落ちこぼれ妹は闇落ちし、姉に追われながら死人を従える~  作者: Nagiousen


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第89話 迫る包囲網

 翌朝。王都、ヴァルハイム。




 王城のほど近く、旧市街の一角にその建物はあった。




 情報院。窓の少ない灰色の巨大な石造りの建物だった。壁は厚く、外からは中の様子が一切窺えない。国中から届くあらゆる情報が、この建物の中に一度集約される。




 早朝から建物の中は、既に動き出していた。




 国中から届く密書は、毎日何百通という数に上る。地方の税収報告。治安状況。反乱の兆候の有無。密告の記録。それら全てが、ここを経由する。




 広い分類室に長机がいくつも並んでいた。窓から差し込む朝の光だけが、まだ人のまばらな室内を照らしていた




 担当官たちがそれぞれの机で、無言のまま書類の山を分類していく。一通、また一通。封を確かめ、印を確かめ、然るべき箱へと振り分けていく。単調だが決して気を抜けない作業だった。




 その日も、いつもと変わらない朝だった。




 その時、分類作業を続けていた担当官の一人の手が、不意に止まった。


 書類の束の中に一通。封蝋に押された印は、黒印だった。


 この職に五年ついているが、黒印を目にしたのは数えるほどしかない。




「北部国境……」




 担当官は消印の文字を読み、小さく呟いた。




 その一通だけを他の書類から抜き出した。手がわずかに震えていた。




 封を切った。中の文面に目を通した。一行、また一行。読み進めるうちに担当官の顔色がみるみるうちに変わっていった。




「……院長を」




 声が上ずっていた。傍らにいた給仕係の少年へ急いで告げた。




「すぐに院長をお呼びしろ。急ぎだ」




 給仕係の少年は報告書を受け取ると、駆け出した。




 分類室を出て、長い廊下を抜け、階段を上っていく。息が切れても、足を緩めなかった。




 建物の最上階。その一室だけが他とは明らかに違う空気を纏っていた。




 静かな部屋だった。壁の一面が丸ごと地図で埋まっていた。ヴァルケリア連邦王国全土の地図。その上に無数の細い糸が、張り巡らされていた。地点と地点を結ぶ糸。反乱分子の動向を示す木の駒が、いくつも地図の上に置かれている。




 机の上には届いたばかりの密書が、日々積み重ねられていく。




 この部屋の主がフレイだった。情報院院長。




 初老の女だった。銀色の髪を後ろで一つに束ねている。眼鏡の奥の灰色の目は常に冷静さを失わない。長年、国中のあらゆる情報を扱ってきたその経験が、静かな貫禄となって佇まいに表れていた。




 扉が叩かれ、給仕係の少年が息を切らしたまま入ってきた。手にした報告書を、フレイへ差し出した。




 フレイはそれを受け取った。椅子に腰を下ろした。ゆっくりと目を通していった。一文字一文字を確かめるように。




 読み終えると、しばらく何も言わなかった。目を閉じ、少し考えるような間があった。部屋には、蝋燭の芯が燃える小さな音だけが響いていた。




 やがてフレイは机の引き出しを開けた。中から一冊の古びた書類綴りを取り出した。表紙に記された日付は二年前。




 開いたその最初の頁には、こう記されていた。




「第一王女、失踪」


「捜索、失敗」


「生死、不明」




 この二年、幾度となく開いては閉じてきた書類だった。




 その書類の隣に、今届いたばかりの新しい報告書をそっと重ねた。




 しばらくフレイは、二枚の書類を見比べていた。二年前の絶望的な結論と、たった今届いた一つの可能性。その二つを天秤にかけるように。




 やがて小さく呟いた。




「……生きて、おられた」




 声にわずかな感慨が滲んでいた。




 二年前、王都中を探させても見つからなかった王女。生死不明のまま時が過ぎ、いつしか誰もが諦めかけていた存在。




 それが。




 しかしその感慨も一瞬だった。フレイの表情はすぐに平静な院長のそれへと戻った。




「確認班を出して」




 静かに、しかしはっきりと命じた。




「姿だけで、判断しないで」




 二年もの間行方の知れなかった王女だ。それらしき女性を見かけたという、たった一つの住民の証言だけで動くには、あまりに重い案件だった。誤報であれば、無用な混乱を招く。真実であれば、国の行く末を左右する。




 どちらに転んでも、軽々には扱えない。




 このとき、摂政宰相ハラルドは、まだこの報告の存在すら知らなかった。情報院の中でも最上位の判断を経て、初めてその耳に届く。それがこの機関の定めた手順だった。




 フレイはまだ、その手順を崩していなかった。崩す必要が、まだなかった。




 その日のうちに命令が下った。




 秘密警察の数名が、北部の街道へと派遣された。目的地はその村と、その周辺に点在する宿場町だった。




 街道沿いには、旅人向けの宿がいくつか並んでいる。確認班の一団は、その一軒一軒を順に訪ねて回った。




 目撃者への聞き込み。地味で根気のいる作業だった。しかしそれこそが、確認班の本分だった。




 三軒目の宿屋。




 軒先の看板は風雨に晒され、文字が半分ほど読めなくなっていた。それでもこの街道沿いでは、比較的大きな宿だった。




 隊長は宿の主人を呼び出した。恰幅の良い初老の男だった。




「少し話を、聞かせてもらいたい」




「はあ……何でしょう」




 主人は怪訝な顔をしながらも応じた。秘密警察の来訪は、この国で逆らえるものではない。




「数日前、この宿に大人数の一団が、泊まらなかったか」




 主人は少し考える様子を見せた。




「ああ、確かに泊まりました」




 隊長の目が細くなった。




「詳しく」




「十人組でした」




 主人は記憶を辿るように続けた。




「大剣を背負った女性がいましてね」




 隊長は手元の帳面に、書き留めていった。




「それから」




 主人は少し声を落とした。




「純白のローブを着た方も。あれは……魔術師様だったんじゃないでしょうか」




「魔術師?」




 隊長の声に驚きが混じった。




 王女らしき女性の同行者に魔術師。その組み合わせは、報告に記されていた単なる「同行者多数」という言葉より、ずっと具体的だった。




「他には」




「そうですね……」




 主人は思い出しながら、次々と口にした。戦士らしき女が二人。それぞれ腰の剣と、背中の槍を携えていたこと。夜も遅くまで五人で、何やら話し込んでいたこと。




 隊長はそれら全てを、丹念に書き留めていった。




 聞き込みが終わり宿を出たところで、部下の一人が隊長のもとへ駆け寄ってきた。




「隊長、別の班から報告が届いています」




 差し出されたもう一枚の紙。隊長はそれを受け取り目を通した。


 そこにはこう記されていた。




「ラグナル隊を確認」




 隊長の動きが止まった。




 大剣の女。純白のローブの魔術師。そして離反したラグナル隊。


 バラバラだった断片が、この瞬間一つに繋がった。




 王女らしき女性を、なぜか護衛している五人の暗殺者たち。単なる目撃情報の域を超えていた。




 場の空気が変わった。




 隊長は、二枚の報告書を重ね合わせた。




「間違いない」




 低く呟いた。その声には迷いがなかった。





つづく…




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