第88話 密告の夜
ヴァルケリア連邦王国、北部国境近くの小さな農村。
アリシア一行が去ってから、まだ一日しか経っていなかった。
夜の二つ時。村人たちはとうに眠りについている時刻だった。
その村に住む若い農夫の名はトビアスといった。今年二十三になる。妻のエルサと生まれたばかりの娘が一人いた。
今年の畑は、実りが良くなかった。夏の長雨で麦の収穫が落ち、税は例年通り取り立てられた。手元に残る蓄えは、冬を越せるかどうかも怪しかった。娘のために、薬も、暖かい布も、必要だった。それを買う金が、どこにもなかった。
監視所の壁に、通達が貼られているのを、トビアスは知っていた。
王家に関わる不審な人物の目撃情報。届け出た者には、褒賞金が支払われる。
その金額は、農家の一年分の稼ぎに、匹敵するほどだった。
トビアスは寝室の扉をそっと開けた。エルサと娘は深く眠っていた。娘の小さな寝息が静かな部屋に響いていた。
その寝顔をしばらく見つめた。
姫様を売るような真似だと、わかっていた。それでも、目の前で眠るこの二人を守るためだと、自分に言い聞かせた。
それから上着を羽織り家を出た。
夜露に濡れた畑の畝を避けながら、村外れの街道へと歩いた。目指す先は、村から歩いて半刻ほどの場所にある、監視所だった。
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監視所は木造の粗末な建物だった。中には灯りが一つだけ灯っていた。
夜勤の役人が、机に向かって書類を整理していた。名をコンラートといった。この監視区画を、五年間任されている古参の役人だった。
扉が叩かれた。
「こんな夜更けに、何用だ」
コンラートは、顔も上げずに言った。
トビアスは、震える声で告げた。
「昨日……姫様によく似た女性が、村へ来ました」
コンラートの手が止まった。顔を上げた。表情は変わらなかった。しかし目の奥にわずかな光が宿った。
「似ていただけか」
「……いえ」
トビアスは、俯いたまま続けた。
「顔や背格好が、あの時見た王女様に似ていました」
「あの時とは」
「建国祭で見た、王女本人の姿です」
以前王城で行われた建国祭で、一度だけ見たことがある。あの独特の姿勢。あの王家特有の足の運び。見間違えるはずがなかった。
コンラートは、静かに立ち上がった。
「報告は受理した」
それだけ言った。
トビアスは安堵したように頭を下げ、来た道を戻っていった。
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扉が閉まった。
コンラートは机に向かった。
引き出しから羊皮紙を一枚取り出した。
筆を取った。
書き始めた内容は、極めて事務的だった。
「件名、第一級監視報告」
「北部第七監視区」
「王女マリアンネ・ヴァルケリアと思われる女性一名を、住民が目撃」
「同行者多数」
「真偽確認を要請する」
感情の入り込む余地のない、簡潔な文だった。書き終えると羊皮紙を丸め、机の横に置かれた小さな軽量な筒へ収めた。
部屋の隅に控えていた部下が尋ねた。名をヨナスといった。まだ二十歳前後の若い部下だった。
「これを王都へ?」
「違う」
コンラートは窓辺へ歩いた。窓を開けた。夜気が流れ込んできた。
窓の外、木の枠に一羽の黒いフクロウが止まっていた。
情報伝達専門の伝書鳥だった。この監視所に常に控えている。
コンラートは軽量な筒を、フクロウの足へ括り付けた。
「情報院へ送る」
フクロウは一度大きく羽ばたいた。それから静かに夜空へと飛び立っていった。
その黒い影が月明かりの中、遠ざかっていくのを、コンラートはしばらく見送っていた。
この監視所だけの話ではなかった。
北部のこの小さな村から。王都の地下深くまで。国中に張り巡らされた、この情報網が、今静かに動き始めていた。
それから隣室にいたヨナスを、再び呼んだ。
「村人も監視対象だ、情報漏洩を防げ」
ヨナスは、一瞬戸惑った様子を見せた。
「密告してきた、あの若者もですか」
「当然だ」
コンラートの声に、感情はなかった。
密告したトビアスも彼の家族も、村の他の住人たちも、全てが等しく監視の対象だった。誰も信用されていない。誰もが鎖の一部として扱われていた。
それが今の、ヴァルケリア連邦王国の姿だった。
つづく…
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