第86話 王女を匿えば村は滅ぶ
街道を歩き始めた。
しかしラグナルたちは、まだ拘束されたままだった。
マリーは静かに言った。
「縄を解いてくれないか」
アイリは警戒した。
「信用できるのか」
ラグナルは苦笑した。
「逃げるつもりなら、最初から姫様に頭は下げません」
アリシアが判断した。
「解きましょう」
アイリの剣が抜かれた。しかしそれは脅すための刃ではなかった。縄が一本ずつ切り落とされていく。
敵から同行者へ。立場が静かに変わった瞬間だった。
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夜が来た。
焚き火を囲み、五人とラグナルたちが座っていた。静かな時間が流れていた。
やがてラグナルが口を開いた。
「姫様が国を離れてから二年」
炎を見つめながら続けた。
「ヴァルケリアは、もう別の国になりました」
マリーは黙って聞いていた。怖くて聞けなかった話だった。この二年、あえて目を背け続けてきた話でもあった。
「まず最初に行われたのは」
ラグナルは続けた。
「王国騎士団の解体です」
アリシアたちが驚いた。
「騎士団を?」
ラグナルは頷いた。
「先王に忠誠を誓った者は、全員粛清されました。従わなかった騎士は処刑され、家族ごと消えた者たちもいます」
リアナが顔を曇らせた。
「……そんな……」
マリーが小さく呟いた。
ラグナルは続けた。
「今ある軍は王国軍ではありません、ハラルド直属軍です」
ラグナルはさらに説明を続けた。
「軍の再編に始まり、貴族の粛清、反対派の処刑」
「徴税の強化。密告制度の導入。秘密警察の設置」
一つひとつが静かに、しかし重く積み上げられていった。
「恐怖によって、民を支配する政治です」
誰も声を発しなかった。
その沈黙が、ハラルドの支配がどれほど徹底していたかを物語っていた。国民が逆らえないのは、忠誠でも納得でもなかった。ただ恐怖という鎖に、一人ひとりが縛られているからだった。
ラグナルが地図を広げた。
「味方はいます」
地図の上に、いくつかの印があった。
「北部諸侯連盟」
「旧王国騎士団の残党」
「世界樹神殿」
「王都地下組織」
「商人ギルドの一派」
それぞれの勢力の名を、指で示していった。
「しかし、全部バラバラです」
誰も動けない。理由は一つだった。
「旗印がないのです」
ラグナルはマリーを見た。
「皆、姫様が生きていると知れば、立ち上がります」
マリーは黙っていた。
自分の存在が、これほど多くの人々の希望になり得るという事実を、改めて突きつけられていた。
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ヴァルケリア連邦王国との国境を越えて、半日ほど歩いた頃だった。
旅の一行は、小さな村へ足を踏み入れた。
畑が広がり石造りの家々が並ぶ、ごくありふれた農村だった。屋根には雪よけのわらが厚く積まれ、軒先には冬支度の薪が、高く組まれている。北の国らしい、質朴な暮らしの気配があった。
しかし。
「……静かですね」
リアナが小さく呟いた。
村人たちは畑仕事や薪割りの手を止めることなく、それぞれの仕事を続けていた。
誰一人として旅人である十人に、近づこうとはしなかった。
視線だけが時折こちらへ向けられる。そしてすぐに逸らされる。子供が母親に袖を引かれ、家の中へ連れ戻される光景もあった。
「歓迎されている、雰囲気ではないな」
アイリが腕を組んだ。
「警戒しているのかしら」
マイアも周囲を見回した。人の温もりはあるはずなのに、どこか氷の膜が張られているような、そんな距離感があった。
マリーは黙ったまま歩いていた。
母国の村。
昔と何も変わらない景色のはずなのに。
畑も家々の並びも、記憶にあるままだった。それなのに漂う空気だけが、どこか重かった。まるで村全体が、息を潜めているようだった。
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その日の夜。
一行は、村外れの小さな宿に泊まっていた。
安宿だった。壁は薄く、隙間風が入り込む。窓の外では、虫の声だけが響いている。他に物音一つしなかった。
不意に。
コン、コン。
控えめなノックが響いた。
「どなたですか」
リアナが扉を開けた。
そこに立っていたのは、白髪の老人だった。
背には薪を背負い、日に焼けた顔には深い皺が刻まれている。長年外仕事で鍛えられたであろう、節くれ立った手をしていた。それでいてその立ち姿には、どこかただの農夫とは違う、芯のようなものが感じられた。
「夜分、失礼いたします」
老人は周囲を気にするように見回すと、小さく頭を下げた。
「少しだけ、お話ししたいことがございます」
アリシアが頷いた。
「どうぞ」
老人は部屋へ入ると、扉を静かに閉めた。それから、ゆっくりとマリーへ視線を向けた。
その目が、大剣へ止まる。
そして足元へ。
歩き方を思い返すように、静かに目を閉じた。
(間違いない……)
老人の胸の内で、確信が積み重なっていった。
今日村へ入ってきた時から、違和感があった。
大剣を背負っているにもかかわらず、体の重心が一切ぶれていない。
歩幅。姿勢。足運び。
あれは、大剣使いではない。
白狼流。
ヴァルケリア王家だけが知る、唯一無二の剣術。
かつて自分が仕えた主君の娘が、学んでいた型そのものだった。
見間違えるはずがなかった。あの幼い日の稽古場で、何度もその成長を見守ってきたのだから。
老人は震える手を、胸に当てた。
「失礼を……承知で、お尋ねします」
部屋の空気が張り詰めた。
「あなた様は……」
老人は深く頭を垂れた。
「マリアンネ殿下では、ございませんか」
部屋が静まり返った。
アリシアたちは、一斉にマリーを見た。
マリーは驚いたように、老人を見つめていた。
「……あなたは」
老人は静かに膝をついた。
「私は、エドガーと申します。かつて王都で、《ストームレイヴン》に所属しておりました」
その言葉に。
マリーの瞳が大きく見開かれた。
「ストームレイヴン……」
幼い日の記憶が蘇る。
王城の訓練場。冬の朝の凛とした冷たい空気。父王の傍らで、自分を見守っていた近衛騎士たち。
その中に。
若き日の、この老人の姿があった。
「……エドガー」
老人は涙を滲ませながら、深く頭を下げた。
「ご無事で……本当によかった」
しかし、その安堵は一瞬で消えた。
老人は顔を上げると、切迫した声で言った。
「ですが、お願いです。どうか、この村をすぐにお発ちください」
「もし姫様が、ここにいると知られれば」
老人は唇を震わせた。
「この村の者は、全員処刑されます」
その言葉に、部屋の空気が凍りついた。
マリーは拳を握り締めた。
「……そこまで」
老人は静かに頷いた。
「ハラルド様は、見せしめを決して躊躇いません。姫様を匿った村は、反逆者の村として焼かれます」
「実際に……」
老人の声が、一段と低くなった。
「東のフリード村が、そうなりました」
その名前に部屋の空気が、さらに重くなった。
「わずかな噂だけで、です」
「姫様らしき人物を見かけたというただの噂だけで、村は焼かれました。逃げ遅れた者は……」
老人は、それ以上続けなかった。
続ける必要が、なかった。
「どうか……」
老人は再び深く頭を下げた。
「村の者たちを、お救いください」
誰もしばらく言葉を発せなかった。
マリーは拳を握りしめたまま俯いていた。
自分がここにいるという、ただそれだけで。
この静かな村が灰になる。
それが、今のヴァルケリアという国の現実だった。
アリシアが、静かに口を開いた。
「エドガーさん」
「はい」
「私たちは明日の朝には、この村を発ちます」
老人は、安堵の表情を浮かべかけた。
つづく…
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