第85話 決意の夜、旅立ちの朝
森の奥。
木々の間から、わずかに月明かりが、差し込んでいた。
アリシアはその光の下に、一人で腰を下ろし膝を抱えた。
純白の賢者ローブが、地面に静かに広がった。
誰もいなかった。
誰にも見られていない。
そう思った、瞬間。
「……私は」
声がこぼれた。
自分でも驚くほど、弱々しい声だった。
「どうすれば、いいの」
今まで。
誰の前でも、揺らがなかった。仲間たちの前でも。どんな状況でも。
常に冷静で、常に正しい判断を下してきた。それが、自分の役割だと思っていた。
賢者の娘として。
妹を救う姉として。
そして今は、四人の仲間を率いる、リーダーとして。
しかし。
今、初めて。
どうすればいいのか、わからなかった。
妹を、選ぶべきか。
それとも、マリーを選ぶべきか。
どちらも選べない自分に。
どちらも切り捨てられない自分に。
アリシアは、初めて気づいていた。
自分は完璧なんかじゃない。
ただの一人の、人間だった。
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目を閉じた。
瞼の裏に、遠い記憶が蘇ってきた。
幼い頃。
庭の隅で、泣いているリリムがいた。
魔法の才能がないと、また誰かに笑われたのだろう。小さな背中が、震えていた。
アリシアは、その隣に座った。
何も言わずに。ただ、隣にいた。
しばらくして、リリムが顔を上げた。
涙で濡れた顔で。それでも少し笑った。
「お姉ちゃんがいれば、大丈夫」
その小さな声を。
アリシアは、今も忘れていなかった。
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別の記憶。
中庭で駆け回る、リリムの笑い声。
花を摘んでアリシアの髪に、飾ろうとする小さな手。
「お姉ちゃん、綺麗になったよ」
得意げな、その顔。
あの笑顔が。
いつから、消えてしまったのか。
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父レオニスの姿も、蘇った。
学院長としての厳しい顔。
リリムに向けられた、期待という名の重圧。
魔法の才能がない娘に対する、失望の色。
その目が少しずつ、リリムから笑顔を奪っていった。
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アリシアは、目を開けた。
涙が一筋、頬を伝っていた。
「待っていて」
声が静かに、夜に溶けた。
「リリム」
その決意だけは、揺らいではいなかった。
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夜が、更けていった。
アリシアは、まだその場に座っていた。
足音が聞こえた。
静かな足音だった。
リアナが木々の間から、姿を現した。
両手に小さな器を、持っていた。湯気の立つ簡素なスープだった。
リアナは、何も言わなかった。
ただ、アリシアの隣に、そっと腰を下ろした。
器をそっと差し出した。
アリシアは、それを受け取った。
しばらく二人は、黙っていた。
月明かりが静かに、二人を照らしていた。
やがて。
リアナが口を開いた。
「まだ、迷っていますか」
「……ええ」
アリシアは、素直に答えた。
誤魔化す気力すらなかった。
リアナはしばらく、月を見上げていた。
「アリシア様」
声が静かに続いた。
「私は、妹を失いました」
その言葉に。
アリシアは、リアナを見た。
「ミリアという、妹がいました」
リアナの声は穏やかだった。しかしその奥に、深い悲しみがあった。
「ゴブリンに暴行され……身籠り……滝に身を投げました」
アリシアは、息を呑んだ。
知っている。アリシアも、ミリアを救えなかった。
「だから」
リアナの目が、アリシアを見た。
「妹を救いたい、その気持ちは、誰よりもわかります」
その言葉に、嘘はなかった。
同じ痛みを知っている者の、言葉だった。
「でも」
リアナは続けた。
「マリーさんも」
「今、誰かに、救ってほしい人です」
その一言が。
アリシアの胸に、深く突き刺さった。
「彼女はずっと一人で、抱えてきました」
リアナは静かに言った。
「王女という立場。逃げるように続けてきた旅。私たちがいなければ」
リアナの声が、少し震えた。
「彼女はまた、一人になります」
アリシアは、答えられなかった。
リアナの言葉が正しいことを、わかっていた。
妹を救いたい。
その想いは、変わらない。
しかし。
目の前にいる一人の大切な仲間を、見捨てることもできなかった。
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夜が明けた。
朝の光が、森を静かに照らしていた。
アリシアは、街道へと戻っていった。
四人の仲間が、そこにいた。拘束された五人の襲撃者たちも、まだそこにいた。
全員の視線が、アリシアに集まった。
「マリー」
アリシアは静かに、口を開いた。
「え……」
マリーが緊張した面持ちで、アリシアを見た。
アリシアは、全員を見渡した。
「ヴァルケリアへ、向かいます」
その一言に、場の空気が変わった。
マリーの目が、見開かれた。
「本当に……いいのか?」
「ただし」
アリシアは続けた。
「期限があります。一か月」
声に迷いはなかった。
「一か月だけ」
「その間に、ハラルドを討てなければ」
アリシアの深紅の瞳が、静かに輝いた。
「私は、リリムを追います」
その言葉に。
誰も異論を、唱えなかった。
マリーはしばらく、アリシアを見つめていた。
やがて深く、頭を下げた。
「ありがとう」
声が震えていた。
「絶対に、一か月で決着をつける」
リアナが、静かに微笑んだ。
「この五人が、本気を出せば」
アイリが、腕を組んで言った。
「一か月も、かからないだろ」
「ぷっ」
その言葉に。
マイアが、思わず吹き出した。
「何がおかしい、マイア」
アイリの眉が、上がった。
「ご、ごめんなさい」
マイアは笑いを堪えながら、言った。
「あなたらしいと、思って」
「私、らしい?」
「敵の勢力も、わからないのに」
マイアの目が、悪戯っぽく細くなった。
「その、根拠のない自信」
「バカに、してるのか!」
アイリの声が、少し大きくなった。
「いいえ」
マイアは首を振った。
それから少し、真面目な顔になった。
「あなたのその振る舞いが、みんなに勇気をくれる」
その場が一瞬静まり返った。
「……だってそうだろ」
アイリが少し照れたように、視線を逸らしながら続けた。
「アリシアの大魔法がある。リアナの神聖魔法もある」
「いざとなれば」
ニヤリと笑った。
「マイアの、超必殺技もある」
「マイアさん」
アリシアが、興味を示した。
「そんな技が、あるのですか」
「えっ、まあ……」
マイアは、少し言葉を濁した。
「でも、成功確率は、高くないです」
「大丈夫だ」
アイリが、自信満々に言った。
「こいつは、本番に強い」
「ちょっと、アイリ」
マイアが慌てた。
「勝手なことを、言わないで!」
アイリは、動じなかった。
「実際に成功させ、強敵を退けた」
「あれは……」
マイアの頬が、少し赤くなった。
「たまたま、です」
「次も、たまたま成功する」
「だめ!」
マイアは真剣な顔で、首を振った。
「あてに、しないで」
「無理だな」
アイリは、あっさりと言った。
「もう、当てにしてる」
マイアが、ため息をついた。
それでもその口元には、小さな笑みが浮かんでいた。
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会話は、それからも続いた。
リアナが時折、二人のやり取りに笑い声を挟んだ。
アリシアも少し離れた場所から、その様子を静かに眺めていた。
昨夜まで、あれほど重かった空気が、今は少しだけ軽くなっていた。
これから始まる、旅の厳しさを。
誰もが、わかっていた。
それでも。
この五人が、共にいる限り。
乗り越えられない、壁はないような。
そんな、気がしていた。
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その和やかな様子を見つめながら、ラグナルがマリーに、静かに声をかけた。
「姫様。良いお仲間を、お持ちですな」
その声には。
これまでの冷徹な襲撃者としての色は、もうなかった。
どこか羨むような、そんな響きがあった。
マリーはしばらく、五人のやり取りを見つめていた。
「そうだな」
小さく頷いた。
その目には。
これまで抱えてきた孤独とは違う何かが、静かに宿り始めていた。
つづく…
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