第84話 揺れる使命
誰も答えなかった。
その沈黙を破ったのは、ラグナルではなかった。
拘束された、シグルドだった。
「それは、話せば」
低く掠れた声だった。
「俺たちの、家族が殺される」
俯いたまま、唇を噛み締めていた。
「ハラルド様は……必ずやる」
「家族、だけじゃない」
ガルムも苦しげに続けた。
「故郷も、全部だ」
その言葉に。
リアナは思わず、息を呑んだ。
「ひどい……」
震える声だった。
人の命を、駒として扱う。
家族を鎖にして、忠誠を強いる。
あまりにも、残酷なやり方だった。
(……ハラルド)
マリーは胸の奥で、小さく呟いた。
(やはり、そこまで……)
摂政となってからの噂は聞いていた。
実際にその被害者を目の当たりにすると、胸が締め付けられた。
リアナが、アリシアを見た。
「アリシア様……どうしましょう」
全員の視線が集まった。
アリシアは、すぐには答えなかった。
拘束された五人を、一人ずつ見ていった。
怯え。
諦め。
そして、覚悟。
そこにあるのは、狂信ではなかった。
脅迫だった。
「……無理にこれ以上、聞き出す必要はないわ」
静かな声だった。
「えっ?」
リアナが、目を見開いた。
「今ここで口を割らせても、彼らの家族が危険に晒されるだけ」
アリシアは、落ち着いた口調で続けた。
「そんな情報に、価値はない」
ラグナルが、ゆっくりと目を開いた。
初めてアリシアを、正面から見た。
「……話さなくて、いいのか」
「ええ」
アリシアは、頷いた。
「ですが、一つだけ教えてください」
ラグナルは、黙っていた。
「あなた方は自分の意思で、ハラルドに従っているのですか」
その問いに。
五人は誰も、答えなかった。
しかし。
その沈黙こそが。
答えだった。
アリシアは、静かに息を吐いた。
「わかりました」
「あなた方は敵ですが、今この場では捕虜です」
「私は捕虜を、虐げる趣味はありません」
拘束された五人の暗殺者たちを、見下ろしながら。
アリシアが、静かに言った。
ラグナルは、しばらくアリシアを見つめていた。
「……なぜだ」
声に、疑問の色が滲んでいた。
「俺たちは、お前の仲間を狙った。マリアンネの命を狙った」
それでも。
アリシアの表情は、変わらなかった。
「使命を果たすためです」
それだけ答えた。
多くを語る必要はなかった。
ラグナルはしばらく、その言葉を噛みしめるように黙っていた。
やがて。
小さく、笑った。
「……敵に、情けを掛けられるとは、思わなかった」
乾いた笑いだった。皮肉でもあり、どこか諦めにも似た、色を帯びていた。
これまで生きてきた世界とは。
あまりにも違う、論理だった。
ハラルドのもとでは。
弱さも失敗も、家族への情も。全てが鎖として、利用された。慈悲などというものは、そこに存在しなかった。
それなのに、目の前の女は。
命を狙った敵である自分たちに対して、あっさりとそれを示した。
ラグナルの目に初めて、複雑な色が浮かんだ。
それが何であるか。
ラグナル自身にも、まだうまく言葉にできずにいた。
森を吹き抜ける風が、木々を静かに揺らしていた。
拘束された五人の襲撃者は、それぞれ木に縛られたまま、項垂れていた。
長い沈黙の末。
ラグナルが、ゆっくりと顔を上げた。
その視線は、まっすぐマリーだけを見ていた。
「……マリアンネ様」
静かな呼びかけだった。
王女としての名を、口にした。
マリーは何も答えず、その続きを待った。
ラグナルは一度、目を閉じる。
覚悟を決めるように、小さく息を吐いた。
「お願いがあります」
その場にいた全員が、彼へ視線を向けた。
「我々と共に」
ラグナルは真っ直ぐに言った。
「ハラルドを倒して、いただけませんか」
「……何?」
思わず声を漏らしたのはマリーだった。
ラグナルは続ける。
「そして」
拘束されたまま、深く頭を下げた。
「ヴァルケリア連邦王国の王として、お立ちください」
森が静まり返った。
風の音だけが、木々の間を流れていく。
マリーは言葉を失っていた。
先ほどまで、自分の命を狙っていた男が。
今は王として、国へ戻ってほしいと願っている。
その変化があまりにも急で、理解が追いつかなかった。
リアナが、小さくマリーを見つめた。
「……マリーさん」
その瞳には、不安も迷いもなかった。
ただ、彼女の答えを待っていた。
「我々はあなたの命を狙った。ハラルドを倒した後、罪を償います」
ラグナルは、潔い視線をマリーに向けた。
「その、戦力では」
マリーが静かに言った。
「ハラルドは、倒せない」
図星だった。
自分たちのような小さな集団だけでは、摂政として五年かけて権力を固めた、あの男を倒すことはできない。
しかし今のヴァルケリアを、このまま放っておくわけにも、いかなかった。
マリーも俯いていた。
自分の故郷。自分の国。そこで、今も苦しんでいる民たちのことを思うと、動かないという選択肢は、ありえなかった。
それでも。
自分一人の力では、何もできないことも。
同じくらい、わかっていた。
---
「アリシア」
アイリが、静かに口を開いた。
その視線が、アリシアへと向けられた。
言葉は、それだけだった。
しかし、アリシアには。
アイリが何を言いたいのか。
はっきりと、わかっていた。
マリーを、助けてほしい。
その旅に、力を貸してほしい。
言葉にせずとも、その視線だけで十分だった。
アリシアの胸の中で。
二つの想いが、静かにせめぎ合っていた。
妹を、救わなければならない。
リリムをこの手で、取り戻すために。ずっと旅を続けてきた。その決意は、今も変わっていなかった。
しかし、マリーを。
一人で行かせるわけにも、いかなかった。
ここまで共に旅をしてきた。互いの事情を知り、支え合ってきた。その絆を簡単に、切り捨てることもできなかった。
どちらも譲れない。
どちらも失いたくない。
その答えは。
すぐには、出なかった。
---
「少し」
アリシアは静かに言った。
「考えさせて、ください」
誰も何も言わなかった。
アリシアは踵を返した。
森の奥へと歩いていった。
その背中に、迷いが滲んでいた。
---
「アリシア様」
リアナが思わず、後を追おうとした。
その腕を。
マイアが、静かに掴んだ。
「――えっ」
リアナが振り返った。
「一人にさせて、あげましょう」
マイアの声は、穏やかだった。
「今、必要なのは」
森の奥へと消えていくアリシアの、背中を見つめながら。
「言葉じゃ、ないと思います」
リアナは、しばらく迷っていた。
それでも、マイアの言葉に頷いた。
腕から力を抜いた。
アリシアの姿が。
木々の間に、静かに溶けていった。
誰もそれ以上、追わなかった。
ただ森の静けさだけが。
その場に残された四人と、拘束された五人の暗殺者たちを。
静かに、包んでいた。
つづく…
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