第8話 救いを求めた少女は、嘘をついた
夕暮れの光が、アルビオンの小さな町を赤く染めていた。石畳の道は一日の熱をまだ残し、行き交う人々の足取りもどこか疲れている。
その中を、アリシアは無言で歩いていた。
目的はただ一つ――休息。
体力の回復と、魔力の安定。それだけを考えて、町の中央にある酒場の前で足を止める。
「……少しだけ」
自分に言い聞かせるように呟き、重い扉を押し開けた。
中から溢れ出したのは、熱と喧騒だった。
酒の匂い、焼けた肉の香り、笑い声と怒鳴り声が入り混じる。木造の室内には長テーブルが並び、農夫や商人たちが肩を寄せ合って酒を酌み交わしていた。
――だが。
その空気の中心に、不自然な“空白”があった。
人々が意図的に距離を取っている一点。
そこに、一人の少女が立っていた。
純白の神官衣。腰まで届く青い髪。細い肩は震え、握り締めた手は白くなるほど力が入っている。
「妹が……妹がゴブリンに連れ去られました!」
張り上げた声は、必死すぎるほど必死だった。
「このままでは生贄にされてしまいます!どうか……誰か、助けてください!」
だが、その声に応える者はいない。
視線を逸らす者。
聞こえないふりをする者。
小さく舌打ちをする者。
「無理だろ……」
「ここには戦える奴なんていねえよ」
「よそでやれ」
押し殺した声が、彼女の周囲で静かに積み重なっていく。
それでも少女は、諦めなかった。
一人、また一人と声をかけていく。
拒絶されても、顔を歪めながら次へ進む。
その姿を、アリシアは入口で静かに見ていた。
胸の奥に、鈍い痛みが走る。
(……似ている)
自分と。
妹を救おうとする、その姿が。
気づいた時には、足が動いていた。
「――詳しく、話を聞かせてください」
静かな声だった。
だが、確かに届いた。
少女ははっと顔を上げ、アリシアを見つめる。
その瞳に、絶望の底から浮かび上がるような光が宿った。
「……助けて、いただけるのですか……?」
「状況次第です」
即答はしない。
感情ではなく、判断で動く。
それが今のアリシアだった。
「話してください」
少女は何度も頷き、言葉を繋ぎ始めた。
「私はリアナと申します……隣村の者です。巡礼で村を離れている間に、ゴブリンに襲われて……」
声が震える。
だが、止めない。
「村人は戦えません……多くが死ぬと分かっていました……」
唇を噛む。
「だから妹が……ミリアが、自分から……」
そこで言葉が詰まった。
息が乱れ、視界が揺れる。
それでも、絞り出す。
「陽光の巫女である自分を差し出す代わりに、村を襲わないでほしいと……!」
酒場の空気が、わずかに変わった。
誰もが完全に無関心ではいられない話だった。
だが――それでも誰も動かない。
「ゴブリンは妹を連れて行きました……でも、ゴブリンが約束を守るはずがありません……!」
リアナの声が崩れる。
「邪神ゾグラシュの生贄にされてしまう……時間がありません……!」
沈黙が落ちた。
アリシアはその沈黙の中で、静かに問いを重ねる。
「ゴブリンの数は」
一瞬。
リアナの目が揺れた。
(本当は……二十五)
だが、その数字を口にすれば。
この魔術師は去るかもしれない。
そう判断した。
「……十体ほどです」
短い沈黙。
アリシアは目を閉じ、ほんの一瞬だけ思考を巡らせた。
(リリムを優先すべき)
それが正しい。
合理的だ。
だが――
目の前の少女が、消える。
助けを求めながら、誰にも届かずに。
(……それは違う)
静かに目を開く。
「場所は」
「村の近くの洞窟です!」
即答だった。
希望に縋る声。
アリシアは頷く。
「急ぎましょう」
その一言で、空気が変わった。
リアナの目から涙が溢れる。
「……ありがとうございます……!」
アリシアは踵を返した。
迷いは一切ない。
扉へ向かうその背中は、すでに戦場へ向かう者のそれだった。
リアナも必死に後を追う。
二人は酒場を飛び出した。
冷たい外気が頬を打つ。
次の瞬間。
アリシアの周囲に魔力が展開される。
足元が浮く。
「え……!?」
「掴まって」
短く告げ、リアナの手を取る。
淡い光が二人を包み込む。
そして――
空へ。
町の灯りが一気に遠ざかる。
夕焼けと夜の境界を裂くように、アリシアは加速した。
「どちらですか」
「……あ、あちらです!」
震える指が示す先へ。
迷いなく進む。
(リリム……)
胸の奥で、確かに感じている。
遠くにある、闇の気配。
(待っていて)
その想いを抱えたまま。
アリシアは夜空を駆け抜けた。
やがて視界の先、森の闇にぽっかりと口を開けた洞窟が現れた。
その入口に、影が二つ――ゆらりと動く。
「……見張りがいます。二体」
アリシアの囁きに、リアナも目を凝らした。
一体は錆びた短剣を弄びながら、落ち着きなく周囲を見回している。
もう一体は骨を握り、その先にこびりついた肉を舐め取っていた。
湿った音が、静かな森に妙に響く。
リアナの喉がひきつる。目を逸らしたい。
だが、逸らせなかった。
ゴブリンたちは笑っている。肩をぶつけ合い、じゃれ合うように。
――その無邪気さの奥に、捕食者の本性が透けて見えた。
「少し離れた所に降ります。音を立てないように」
二人は高度を落とし、茂みへと滑り込むように着地した。
足が地に触れた瞬間、リアナの膝がわずかに揺れる。初めての飛行の余韻が、まだ体に残っていた。
だが――
「リアナさんは、ここで待機を」
アリシアの声は、静かで揺るがない。
「私も行きます!」
反射的に、声が出ていた。
「いえ。一人の方が確実です」
柔らかな口調。だが拒絶は明確だった。
アリシアは杖を掲げる。赤い宝石が、静かに脈打つ。
「まだ制御が万全ではありません。暴走すれば……あなたを巻き込む」
言葉は淡々としている。だが、それが事実であることは疑いようがなかった。
リアナは言い返せない。唇が震える。
「必ず、ミリアさんを助けます」
短く言い切ると、アリシアは背を向けた。
「あ、あの――!」
呼び止める。だがその先が、続かない。
本当は、言うべきことがあった。
――ゴブリンは、あれだけじゃない。
喉まで出かかった言葉が、凍りつく。
もし伝えれば、この人は作戦を変えるかもしれない。
時間がかかるかもしれない。
その間に、ミリアが――
「……お気をつけて。妹を、お願いします」
結局、出たのはそれだけだった。
「はい」
アリシアは一度だけ振り返り、そして闇へと歩み去る。
その背が見えなくなるまで、リアナは拳を握りしめていた。
「ミリア……」
祈ることしかできない自分が、歯がゆかった。
洞窟の入口。
二体のゴブリンが、低い唸り声で言葉を交わしている。
灰色の皮膚、濁った赤い目。牙の間から唾液が垂れる。
痩せた体に似合わず、その動きは鋭い。
アリシアは木陰に身を沈め、呼吸を消した。
――正面からは行かない。
杖をわずかに振る。
「幻影」
岩陰で、小さな音が弾けた。石が転がるような乾いた響き。
「グルァ?」
一体が反応する。もう一体も鼻を鳴らし、音の方へ視線を向けた。
警戒しながら、二体は揃って足を動かす。
――今。
思考と同時に、杖が閃く。
「風刃」
音もなく放たれた刃が、先頭ゴブリンの喉を裂いた。
血が噴き出し、声にならない叫びが空気を震わせる。
「ギャッ――!」
残った一体が振り向く。視線が、アリシアを捉える。
だが、遅い。
二撃目の風刃が胸を貫いた。
ゴブリンは数歩よろめき、そのまま崩れ落ちる。
沈黙。
アリシアはわずかに息を吐いた。
魔力の流れに、ほんの一瞬だけ揺らぎが走る。
――やはり、安定していない。
視線を落とし、すぐに切り替える。
「……行く」
洞窟の内部は、冷えていた。
湿った土と、腐敗の匂い。
暗闇は濃く、光を拒むように奥へと続いている。
「光よ」
杖の宝石が淡く燃え、白い光が広がる。
岩壁、骨片、散乱した道具――隠れていたものが浮かび上がる。
一歩。
足音がやけに大きく感じる。
滴る水音が、心臓の鼓動と重なる。
「ミリアさんを、必ず」
呟きは短い。だが、その奥に揺るぎはない。
さらに進んだその時――
違和感。
空気が、わずかに歪む。
アリシアは足を止め、目を閉じる。
「罠探知」
青い光が広がり、魔力の線が浮かび上がる。
――ロープ。
天井から地面へ、不自然に張られている。
その先。
吊られた岩が、わずかに軋んでいる。
「……落石」
一歩、踏み出しかけて――止める。
足先が、石をかすめた。
わずかに、ロープが揺れる。
岩が、きしりと鳴った。
静かに、息を吐く。
――危なかった。
足場を選び、ゆっくりと迂回する。
一歩。もう一歩。
背後で、岩がわずかに揺れ続けている気配がする。
だが、振り返らない。
やがて、罠の範囲を抜けた。
「……」
短く息をつく。
ここは入口に過ぎない。そう理解している。
足元の岩の色が、わずかに違う。
杖を構え、風を放つ。
「風圧」
返ってくる音が、不自然に鈍い。
中央部――空洞。
「落とし穴」
端へ寄る。足場は狭い。
一歩踏み外せば、終わりだ。
慎重に、体重を移す。
石が、わずかにずれる。
――滑る。
咄嗟に壁へ手をつく。
指先が、湿った岩に食い込む。
数秒。
動かない。
やがて、ゆっくりと体勢を戻す。
呼吸が浅い。
それでも、進む。
やがて安全圏に辿り着き、アリシアは足を止めた。
「……まだ、先がある」
杖を握り直す。
洞窟の奥から、風が吹く。
それはまるで、何かが待っているようだった。
(次回、最奥の魔導ゴブリン)
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