第7話 暁の剣(つるぎ)
女性の腕が、そっと離れた。
温もりが消えた瞬間、リリムの胸に、小さな不安が差し込む。
「……ここ、長くいられない」
低く抑えた声だった。だが、その奥に張り詰めた緊張がある。
女性は周囲に視線を走らせる。折れた枝、抉れた地面、焼け焦げた痕――戦いの名残が、まだ生々しく息づいていた。
「動ける?」
「……はい」
頷いたものの、足はわずかに震えていた。
女性はそれを見て、一瞬だけ迷うように視線を落とす。だが、すぐに顔を上げた。
「行きましょう」
背を向け、歩き出す。
リリムは、ほんの一拍遅れて、その後を追った。
森の奥へ、足早に進む。
枝葉が頬をかすめるたび、リリムの体は小さく強張る。背後から何かが迫ってくる気がして、何度も振り返りたくなる。
けれど――前を行く女性の背中が、かろうじてそれを引き止めていた。
やがて、呼吸が少しだけ落ち着いた頃。
リリムは、途切れそうな声で問いかける。
「……どうして」
女性の足が、わずかに止まる。
「どうして、助けてくれたんですか……?」
沈黙。
風が木々を揺らす音だけが、間を満たした。
女性は振り返らない。
ただ、少しだけ肩が揺れた。
「……さあ」
短く、そう答える。
「理由なんて、考える余裕……なかった」
それきり、言葉は続かなかった。
リリムは、その背中を見つめる。
何かを隠している――そう感じた。けれど、それを問い詰める勇気はなかった。
代わりに、胸の奥に残っていた言葉が、こぼれる。
「……ありがとうございます」
かすれていた。
それでも、確かに届いた。
女性は足を止める。
ほんの少しだけ、横顔が見えた。
その表情は――どこか、痛みを含んでいた。
「……言わなくていいのに」
小さく、そう呟く。
それから、ゆっくりと向き直った。
「あなた……」
視線が、まっすぐリリムに向けられる。
「何者なの?」
その問いに、リリムは息を詰まらせた。
答えようとして、言葉が出ない。
喉の奥で、記憶が引っかかる。
――思い出したくない光景。
体が、無意識に震えた。
女性は、それを見て、ふっと視線を和らげる。
「……無理に話さなくていいわ」
一歩、距離を取る。
その仕草は、はっきりとした“配慮”だった。
「ただ……」
言いかけて、少しだけ迷う。
それから、静かに続けた。
「そのままだと、危ないわ」
「……え?」
「あなたの魔力」
言葉を選びながら、女性は言う。
「隠しきれていない。あれを感じ取れる人間は、少なくないわ」
リリムの肩が、びくりと震える。
エリザの顔が脳裏に浮かぶ。
「また……襲われるってこと、ですか……?」
「可能性は高い」
はっきりと言い切った。
その冷たさが、逆に現実だった。
リリムは、唇を噛む。
「……どうすれば」
声が、弱い。
女性は答えない。
すぐには答えられない、というように。
代わりに、静かに言った。
「まずは――落ち着いて」
「感情が揺れると、魔力も揺れる」
リリムは、自分の手を見る。
わずかに、黒い靄が揺れていた。
慌てて、息を整える。
「……こう、ですか」
「ええ。今は、それでいい」
女性は小さく頷いた。
それから――少しだけ、柔らかく笑う。
「名前、聞いてもいい?」
「あ……はい」
リリムは、一瞬だけ迷ってから答える。
「リリム、です」
「リリム……」
その名を、確かめるように繰り返す。
「私は、ヴァレリア」
短く名乗る。
それだけなのに、不思議と距離が縮まった気がした。
「……ヴァレリアさん」
リリムが呼ぶと、彼女はわずかに目を細める。
「“さん”はいらないわ」
その声音は、少しだけ柔らかかった。
森のざわめきが戻り始めていた。
危険は、まだ消えていない。
それでも――
リリムの足取りは、ほんのわずかに軽くなっていた。
さっきまで一人だったはずの道に、
今は、もう一つの足音が重なっている。
それだけで、世界の色が少し変わって見えた。
その瞬間だった。
ヴァレリアの表情が、わずかに変わる。
風の流れが、止まった気がした。
「……来る」
低く、ほとんど息のような声。
リリムが顔を上げるより早く、ヴァレリアの視線は森の奥――まだ何も見えない闇を射抜いていた。
次の言葉は、唐突だった。
「あなたは、生きて」
一拍。
言葉が、喉の奥でわずかに引っかかる。
「……まだ、引き返せる」
振り返らないまま、そう続けた。
その声音は静かで、けれどどこか必死だった。
「え……?」
理解が追いつかない。
リリムが一歩、近づこうとしたその瞬間――
ヴァレリアが、振り向いた。
その瞳に宿っていたのは、先ほどまでの穏やかさではない。
決意と――
わずかな、恐れ。
「ごめんなさい」
短く、はっきりと。
それだけを言うと、ヴァレリアは手をかざした。
闇が、音もなく集まる。
空気が、ひやりと冷えた。
「――遮断」
低い詠唱。
瞬間、リリムの周囲に半透明の結界が立ち上がる。
漆黒と深紫が絡み合い、静かに、しかし確実に彼女を閉じ込めた。
「な、なに――」
駆け寄ろうとする。
だが、見えない壁に弾かれた。
手のひらを押し当てる。冷たい。硬い。びくともしない。
「ヴァレリアさん!」
叩く。
叩く。
叩く。
けれど音は、外へ届かない。
まるで世界から切り離されたような、完全な静寂。
「……お願い、やめて……!」
声が震える。
自分の声すら、どこか遠くに感じる。
結界の外。
ヴァレリアは、動かない。
ただ、静かにこちらを見ていた。
その表情は――
笑っていた。
けれど、それはあまりにもかすかな、壊れそうな笑みだった。
「しばらくは、大丈夫」
唇が、そう動く。
声は聞こえない。
けれど、なぜか意味だけが、伝わった。
リリムの胸が、強く締め付けられる。
「……なんで」
呟きが、こぼれる。
「なんで……私を……」
言葉にならない。
問いは途中で崩れ、ただの嗚咽になる。
ヴァレリアは、一歩だけ後ろへ下がった。
その一歩が――
決定的な距離だった。
もう、届かない。
「――生きて」
今度は、はっきりと口の形が読めた。
それだけを残して、
ヴァレリアは、背を向ける。
黒い影が、森の闇に溶けていく。
「待って……!」
リリムは叫ぶ。
何度も、何度も。
手を伸ばし、結界を叩く。
魔力をぶつける。
けれど、すべてが吸い込まれ、消えていく。
届かない。
何も、届かない。
やがて、力が抜ける。
膝が、崩れた。
その場に座り込み、リリムはただ結界の外を見つめる。
もう、誰もいない。
さっきまで、確かにそこにいたはずの背中が――
どこにも、ない。
胸の奥に残ったのは、
言えなかった言葉と、
触れた温もりの残滓だけだった。
その頃。
ヴァレリアは、迷いなく森を進んでいた。
気配を隠すこともせず、あえて足音を立てる。
誘うように。
導くように。
やがて、開けた場所に出る。
そこは――戦いの跡だった。
焦げた大地。
裂けた樹木。
そして、
光。
まばゆいほどの、純粋な光。
黄金の鎧に包まれた男たちが、そこに立っていた。
中心には、倒れた女性。
――エリザ。
ヴァレリアは、足を止める。
視線が、交差する。
一瞬で、空気が張り詰めた。
「……来たか」
低い声。
最も大柄な男が、一歩前に出る。
鋭い眼光が、ヴァレリアを射抜く。
「ヴァレリア」
その名を、吐き捨てるように呼んだ。
「エリザをやったのは――貴様か」
ヴァレリアは、答えない。
ただ、静かに彼を見返す。
その目に、揺らぎはない。
「……遅かったわね、ライザック」
かすかに笑う。
その余裕に、周囲の空気がわずかに揺れる。
「お前たち」
ライザックが低く告げる。
「構えろ。こいつは――」
言い切る前に、
ヴァレリアは、両手を上げた。
無防備に。
完全に。
その場に、差し出すように。
一瞬、沈黙が落ちる。
「……何のつもりだ」
ライザックの声に、警戒が混じる。
「戦う気はないわ」
ヴァレリアは、淡々と言った。
「もう、残っていないの」
嘘ではない。
だが、それがすべてでもない。
「……降るのか?」
「そうね」
あっさりと、頷く。
「命までは、いらないでしょう?」
その言葉に、空気が変わる。
ライザックの目が、細くなる。
「随分と都合がいいな」
「でしょう?」
ヴァレリアは微笑む。
その笑みの奥にあるものに、気づく者はいない。
「拘束しろ」
命令が下る。
光の鎖が、彼女の体に巻きつく。
焼けるような痛み。
それでも、ヴァレリアは声を上げない。
ただ――
一瞬だけ、
ほんの一瞬だけ、
森の奥へ視線を向けた。
誰にも気づかれないほど、わずかに。
(……見つからないで)
心の中で、呟く。
それだけで、十分だった。
鎖が締まる。
体が引かれる。
歩かされる。
それでも、足は止めない。
止めてしまえば、
きっと、振り返ってしまうから。
「……妙だな」
歩き出してしばらく。
ライザックが、ぽつりと呟く。
「何がです?」
部下が問う。
「気配だ」
短く答える。
「もう一つあったはずだ」
ヴァレリアの足が、ほんのわずかに止まりかける。
すぐに、踏み出す。
気づかれないように。
「ミロ、ガイ、レオ」
ライザックが振り返る。
「残れ。周囲を探れ」
その言葉が落ちた瞬間、
ヴァレリアの胸が、強く軋んだ。
「……やめなさい」
思わず、口をつく。
「無駄よ」
「ほう?」
ライザックが、ゆっくりと振り向く。
「何が無駄だ」
視線が刺さる。
見透かすように。
「……何もいないわ」
平静を装う。
けれど、
わずかな揺らぎが、残った。
ライザックの口元が、歪む。
「そうか」
静かに言う。
「ならば、問題ないな」
部下たちが、森へ散っていく。
その背中を、
ヴァレリアは、見なかった。
見てしまえば、
すべてが終わる気がしたから。
夜が、近づいていた。
森は静かに、闇へ沈んでいく。
その中で、
一人は閉ざされ、
一人は連れていかれる。
もう、手は届かない。
それでも――
あの結界の中で、
あの子が、生きている限り。
それでいいと、
ヴァレリアは、そう思った。
(次回、救いを求めた少女は、嘘をついた)
登場キャラクターのイラストをpixivで公開中です!
闇に堕ちたリリム、賢者アリシア、悪魔に魂を売った女ヴァレリア――
物語に登場するキャラクターたちを、高品質イラストとして制作しています。
「このキャラの姿を見てみたい」
「戦闘シーンをもっと想像したい」
そんな方はぜひご覧ください。
▼pixivはこちら
https://www.pixiv.net/artworks/144606685




