第78話 あなたの血で、生きる
急がなければ、ならなかった。
これだけの騒動が起きた。追手が必ず来る。エレナとイゼルが消えたことに、教会が気づくのは、時間の問題だった。
「行きましょう」
リリムはミモザに言った。
ミモザは頷いた。
フェンリルの傍に、二人は歩み寄った。傷ついた巨体は、まだ完全には癒えていなかった。しかし六つの目には、力強さが戻っていた。
「ありがとうございました」
リリムは頭を下げた。
「あなたがいなければ、私は今、こうしていられませんでした」
フェンリルは答えなかった。ただ鼻先をそっと、リリムの手に寄せた。
それからミモザの方へも、同じように鼻先を向けた。
「ありがとう」
ミモザが微笑んだ。
フェンリルの三本の尾が、ゆっくりと揺れた。まるで応えるように。
二人は森の外れへと、向かって歩き始めた。
木々の切れ間に、朝の光が差し込んでいた。
その光の下を、ミモザが通り過ぎた瞬間だった。
「――あ」
ミモザの足が止まった。
「ミモザさん?」
リリムが振り返った。
ミモザの手の甲に。
黒い染みのようなものが、浮かんでいた。それがじわじわと、広がっていった。皮膚が乾き、ひび割れていくような、感触があった。
ミモザは慌てて、木陰に戻った。
染みは、すぐに収まった。
「……日の光」
ミモザが呟いた。
「日に、当たると」
声に、動揺が滲んでいた。
リリムは記憶を探った。冥界の魔女として得た古代の知識の中に、答えがあった。
冥王の契約によって、蘇った者は太陽の光に弱い。
もとが太陽神に仕える陽光の乙女であればこそ、その皮肉はより深かった。光そのものが今のミモザにとって、脅威に変わっていた。
「陽が沈むまで、待ちましょう」
リリムは言った。
他に選択肢は、なかった。
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森の奥木々の陰に、二人は身を潜めた。
時間が、ゆっくりと過ぎていった。
リリムはその間、これからのことを考えていた。
「ミモザさん」
「はい」
「陽が沈んだら、街に向かいましょう」
「街、ですか」
ミモザの声に、戸惑いがあった。
「教会の支部がある場所も、多いですよ」
「わかっています」
リリムは頷いた。
「それでも、人が多い場所の方が、いいと思うんです」
指を折りながら、考えを話した。
「人が多ければ、紛れやすい。教会も簡単には、見つけられない。血液を手に入れる方法も、街の方が多いはずです。宿も仕事もあります」
ミモザは、しばらく黙っていた。
「危険もあります」
「はい」
「それでも」
リリムは、ミモザを見た。
「隠れ続けるだけでは、いずれ限界が来ます。私はそう思います」
ミモザは、少し考えてから頷いた。
「わかりました。リリムさんに従います」
その直後だった。
ミモザの体が、微かに震えた。
「……ミモザさん?」
ミモザは答えなかった。
両手で口元を覆った。
肩が震えていた。
「大丈夫、ですか」
リリムは、近づこうとした。
「来ないで、ください」
ミモザの声が、鋭く遮った。
リリムは足を止めた。
ミモザの指の隙間から見えた。
犬歯が伸びていた。
瞳が赤く染まっていた。
喉が焼けるように痛んだ。理性ははっきりとしていた。しかし、体の奥から湧き上がってくる、抗えない衝動があった。
「見ないで、ください」
ミモザは目を閉じた。
「お願いです」
リリムは迷わなかった。
腰に下げていた、小さなナイフを抜いた。
自分の手首に、刃を当てた。
「ミモザさん、これで――」
赤い血が、一筋流れた。
その瞬間だった。
「やめてください!」
ミモザがリリムの手を、強く払いのけた。
ナイフが地面に落ちた。
ミモザの目に、涙が浮かんでいた。
「私は」
声が震えていた。
「あなたの血なんて、飲めません!」
「ミモザさん」
「そんなことを、するくらいなら」
ミモザは、首を振った。
「私はこのまま、朽ちます」
本気だった。
その目には、迷いがなかった。
リリムは静かに言った。
「それは、駄目です」
ミモザを見つめた。
「私はルークさんを、救えませんでした」
声が震えた。
「だから今度は、絶対にミモザさんを、失いたくありません」
ミモザは答えられなかった。
拒絶の言葉が、喉の奥に詰まっていた。
それでも、リリムの血の匂いが。
その拒絶をじわじわと、蝕んでいった。
「――ぁ」
声が漏れた。
犬歯がさらに伸びた。瞳の赤が濃くなった。喉の渇きが耐え難いほどに、なっていった。
理性では拒否している。
それなのに体だけが、血を求めていた。
「見ないで、ください」
ミモザは、また繰り返した。
その声は、悲鳴に近かった。
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リリムは動いた。
ミモザをそっと、抱きしめた。
「大丈夫です」
静かな声だった。
首筋をそっと見せた。
「私は、怖くありません」
「だから」
声に優しさを込めた。
「生きてください」
ミモザの体が震えた。
「ごめんなさい……」
涙がこぼれた。
「ごめんなさい……」
繰り返した。
もう止められなかった。
ミモザは震える唇を、リリムの首筋に近づけた。
牙が。
皮膚に触れた。
ミモザの肩が大きく震えた。
一滴。
また一滴。
温かな血が。
喉を、潤していった。
涙は止まらなかった。
吸っているのか。
泣いているのか。
ミモザ自身にも、もうわからなかった。
リリムはただ静かに、ミモザの背中を撫でた。
痛みはあった。それでも、リリムは動かなかった。
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やがてミモザは、そっと体を離した。
口元を拭った。
その顔が涙で濡れていった。
「ごめんなさい」
声が震えていた。
「私……あなたを……」
言葉が続かなかった。
リリムは笑った。
精一杯の笑顔だった。
「謝らないで、ください」
リリムは言った。
「私はミモザさんに、生きていて欲しいです」
ミモザの目が、リリムを見た。
しばらく何も、言えなかった。
やがて。
「……ありがとう、ございます」
その一言と共に。
ミモザは泣き崩れた。
リリムはその体を、もう一度抱きしめた。
冷たい体だった。しかしその中に、確かに生きようとする意志があった。
ミモザの肌に、わずかに色が戻っていた。
黒い染みが消えていた。
リリムの血が、その腐敗を止めていた。
二人はしばらく、そのまま抱き合っていた。
言葉はいらなかった。
ただ互いの存在だけが。
この森の静けさの中で。
確かに、そこにあった。
つづく…
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