第77話 夜明けの代償
森は、静かだった。
リリムはミモザを、まだ腕の中に抱いたままだった。
言わなければ、ならない。
わかっていた。
それでも、言葉が出てこなかった。
リリムはそっと、体を離した。
ミモザの目を見た。
「ミモザさん」
「はい」
「聞いてください」
声が震えた。
ミモザは、何も言わなかった。ただ、静かに待っていた。
リリムは、話し始めた。
冥王の契約のこと。
その体が、もう生者ではないこと。
心臓が、動いていないこと。
呼吸も、していないこと。
放っておけば、その肉体が腐敗していくこと。
それを止める唯一の方法。
人の血を、摂取すること。
言葉が一つ、また一つと、こぼれていった。
途中で何度も、止まりそうになった。それでも、最後まで伝えた。
伝え終えたとき。
リリムの喉は、からからに渇いていた。
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ミモザはしばらく、何も言わなかった。
ただ静かに、聞いていた。
驚きも動揺も、その顔には見えなかった。ただ事実を、受け止めているような、そんな静けさだけがあった。
やがてミモザは、自分の口元に、そっと指を触れた。
わずかに伸びた、犬歯に。
その先端に。
指の腹で、確かめるように。
しばらく、そのまま動かなかった。
「……私は」
声が、こぼれた。
「人では、なくなったんですね」
リリムは、答えられなかった。
答えたくても、言葉がなかった。
沈黙が、二人の間に流れた。
風が木々を揺らした。それだけが、音の全てだった。
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やがてミモザが、小さく微笑んだ。
「でも」
声は穏やかだった。
「後悔は、していません」
リリムは、その顔を見つめた。
「もう一度やり直しても」
ミモザは、続けた。
「私は同じように、リリムさんを庇います」
その言葉に、迷いはなかった。
しかし。
その笑顔が。
少しずつ。
崩れていった。
唇が震えた。目が揺れた。
「ただ……」
声が掠れた。
「誰かの血を吸わなければ、生きられないんですね」
その一言と共に。
ミモザの目から。
初めて、涙がこぼれた。
一筋。また一筋。
止まらなかった。
「私……」
声が震えた。
「そんなこと、できるでしょうか」
その問いは、答えを求めていなかった。
ただ溢れ出た、恐怖そのものだった。
誰かを傷つける。誰かの命を糧にする。それがどれほど、恐ろしいことか。ミモザ自身が、誰よりもわかっていた。
弱いものを、救うことを。
苦しんでいるものに、寄り添うことを。
その全てを信条として、生きてきた者が。
今度は自分自身が、誰かを犠牲にしなければ生きられない、存在になった。
リリムの目にも、涙が浮かんだ。
リリムは、ミモザの両手を握った。
冷たい手だった。それでも離さなかった。
「血が必要なら、私が必ず、方法を探します」
言葉に力を込めた。
「もう二度と、一人で苦しまなくていい」
誓いだった。
自分自身への、誓いでもあった。
ルークを救えなかった。ミモザも傷つけさせてしまった。もうこれ以上、大切な人を、失いたくなかった。
今度こそ。
守り抜く。
ミモザの涙が、止まらなかった。
しかしその顔は、もう恐怖に、歪んではいなかった。
「リリムさん」
声が震えていた。
両腕が伸びてきた。
リリムの体を、そっと包み込んだ。
「ありがとう、ございます」
その言葉と共に。
二人は静かに。
抱き合った。
冷たい腕だった。それでも確かな温もりが、そこにはあった。
夜が。
いや、この闇に染まった森が。
静かに二人を、見守っていた。
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抱き合ったまま、どれくらい、そうしていただろう。
リリムは、ふと気づいた。
空気が、変わっていた。
森を覆っていた闇が、少しずつ晴れていっていた。
黒く塗り替えられていた空に、朝の光が戻ってきていた。木々の隙間から、白い光が、差し込み始めていた。止まっていた風が、また木の葉を揺らし始めた。
鳥の声が、遠くで一つ聞こえた。
止まっていた時間が、ゆっくりと動き始めていた。
リリムは、自分の両手を見た。
背中の黒い羽根が。
瘴気の翼が。
一枚、また一枚と、光の粒子となって消えていった。
深紫黒のローブが静かに揺らめきながら、色を変えていった。深紫黒から、見慣れた黒へ。
右目の深紅。左目の金色。
その左右で異なる瞳の色が。
ゆっくりと、閉じられていった。
再び開いたとき。
そこには。
紫色の瞳が、あった。
いつもの、リリムの瞳だった。
髪も同じだった。
夜よりも深い黒紫の色から、もとの紫色へと。
根元から少しずつ戻っていった。
長く伸びていた髪も、いつもの長さへと戻っていった。
力が抜けていくのが、わかった。
膨大だった魔力の圧力が、静かに収まっていった。冥界の魔女という、あの高みにあった意識が、遠のいていった。
リリムは自分の体が、震えているのに気づいた。
立っているのが、やっとだった。
あれほどの力を、使った反動が。
今になって、押し寄せてきていた。
ミモザが、リリムを支えた。
「リリムさん、大丈夫ですか」
「……はい」
声が掠れていた。
リリムは、周囲を見渡した。
朝の光が、森を静かに照らしていた。
地面に抉れた跡があった。焦げた木々があった。少し離れた場所に、崩れ落ちたままの、剣が一振り落ちていた。
その傍らに。
人の姿は、なかった。
塵となって消えた者たちの、痕跡すら風に攫われていた。
フェンリルが傷ついた体を、ゆっくりと起こしていた。六つの目が、リリムを見ていた。敵意はなかった。ただ静かな、労いのような色があった。
小さな墓が、少し離れた場所にあった。
ルークの墓だった。
朝の光の中でその土の盛り上がりが、穏やかにそこにあった。
リリムは、深く息を吐いた。
全てが終わった、わけではなかった。
これから、どうすればいいのか。ミモザの体をどうやって、支えていけばいいのか。太陽神教会は、これからどう動くのか。わからないことばかりだった。
それでも今は、この静かな朝の光を、少しだけ感じていたかった。
「ミモザさん」
「はい」
「戻ってきました」
リリムはそう言った。
自分に言い聞かせるように。
ミモザが頷いた。
「はい」
「一緒に、戻ってきましたね」
二人はしばらく、その場に立っていた。
朝の光が少しずつ、森全体に広がっていった。
闇はもう、どこにもなかった。
ただ静かな光だけが。
二人と一頭の周りに。
優しく満ちていた。
つづく…
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