第76話 死した生者
リリムは、ミモザに駆け寄った。
深紫黒のローブの裾が、地面を静かになびいた。膝をつき、ミモザの体を抱き起こした。
血を吐いていた。
顔面が蒼白だった。体が小刻みに痙攣していた。腹部の傷口から、血が止まることなく、流れ続けていた。
リリムにはわかった。
このままでは助からない。
冥界の魔女に高位化したこの体の中で、リリムは古代の記憶を探った。三十五人分の知識と、そのさらに奥にある、禁書の底の底に眠る、古い体系を辿った。
治癒の呪文が、あれば。
ミモザがずっと使っていた、あの光の力があれば。
しかし、なかった。
どれだけ探しても闇の系統に、治癒の呪文は存在しなかった。冥界の魔女という、災厄級の高みに到達しても、それだけは変わらなかった。闇は癒す力を持たない。
絶望的な事実だった。
ミモザがリリムを見て、少し微笑んだ。
「リリムさん」
声はかすれていた。
「ごめんな--さい」
「――えっ」
「私」
言葉が途切れた。
「あなたを--守り--切れな---かった」
「そんなこと」
リリムは首を振った。
「言わないで。謝らないでください」
ミモザの目が、リリムを見つめていた。穏やかな目だった。恐怖も後悔も、そこにはなかった。ただリリムを、見ていた。
その呼吸が。
止まった。
「ミモザさん!」
リリムは、叫んだ。
「ミモザさん!ミモザさん!」
揺すった。
返事は、なかった。
リリムの瞳から、大粒の涙が溢れ出た。
早く。
早く、手を打たなければ。
魂が肉体から、離れてしまう。
リリムは古代の記憶の中を、必死に探った。
魂を肉体に繋ぎ止める方法が、一つだけあった。
ルークのとき使った、あの禁呪。
あのときは、失敗した。呼び起こせたのは、蘇生の力ではなかった。魂をこの場に留める、不完全な力だった。だからルークの魂は、浮かび上がりリリムに吸収されることを望んだ。
同じ失敗は、繰り返せなかった。
今度は絶対に、成功させる。
リリムは、記憶をさらに深く探った。
冥界の魔女という、この新たな高みでしか届かない、知識の層があった。禁書のさらに奥。歴史からも忘れ去られた、最悪の禁呪。
見つけた。
《冥王の契約》。
死者の魂を冥界へ送らず、肉体へ強制的に繋ぎ止める禁呪。ルークに使った《冥魂繋縛》のさらに上位に位置する。大幅に強化された、術式だった。
問題はあった。
いくつもあった。
しかし。
リリムには、戸惑っている暇はなかった。
リリムはミモザの体を、地面にそっと横たえた。
両手をその胸の上に置いた。
目を閉じた。
詠唱を始めた。
禁呪の底に眠る最も古く、最も禁じられた言葉が、リリムの口から紡がれていった。三十五人分の魂が、その詠唱を後押しするように、共鳴していった。
魔力がリリムの体から、大量に流れ出していった。
高位化した今の魔力量をもってしても、この術は重かった。体の内側が、軋むような感覚があった。それでも止めなかった。
光が、灯った。
ミモザの体を、深い紫黒の光が包んでいった。
浮かび上がろうとしていた、ミモザの魂が。
肉体へと、引き戻されていった。
記憶も。
感情も。
性格も。
魔力も。
その全てが肉体へと、強制的に固定されていった。
光が、収まった。
ミモザの体が、そこにあった。
目を閉じたままだった。しかし、その顔は穏やかだった。生きていた頃と、何も変わらない顔だった。
リリムは震える手で、ミモザの頬に触れた。
冷たかった。
心臓に、手を当てた。
動いていなかった。
呼吸を、確かめた。
なかった。
術は成功した。しかし、成功と同時にリリムには、わかっていた。その体は、完全な死体だった。
心臓は動かない。呼吸もしない。体温もない。肉体の腐敗も止められない。放置すれば、数日のうちにその肉体は、崩壊する。
それでも。
ミモザの目が。
ゆっくりと、開いた。
「……リリム、さん」
声がした。
生きていた頃と同じ声だった。記憶も感情も性格も、何一つ失われていなかった。
「ミモザさん――!」
リリムは、ミモザを抱きしめた。
「よかった……よかった……」
涙が、止まらなかった。
ミモザはリリムの腕の中で、ゆっくりと瞬きをした。自分の手を、見つめた。
「私は……」
その声に、戸惑いが混じった。
「生きて、いるんですか」
リリムは、答えられなかった。
正確には、答えたくなかった。
この状態を、生きていると呼んでいいのか。リリム自身にも、わからなかった。
リリムの中の古代の記憶が、続きを告げていた。
この術には、代償があった。
肉体の腐敗を止める、唯一の方法。
それは、人間の血液を摂取することだった。血液を必要量取り込むことで、腐敗が停止する。壊死した組織が再生する。魔力が回復する。
その代償をリリムはまだ、ミモザに伝えられずにいた。
伝えれば、ミモザが何を思うか。
人の血を糧にしなければ、生きられない。それがどれほどの、苦しみを伴うか。
しかし、伝えなければならなかった。
いずれミモザ自身の体が、それを求め始める。
犬歯がゆっくりと、伸びていく。瞳が赤く染まっていく。抗えない吸血の衝動が、生まれる。
その時が来る前に。
リリムはミモザを、もう一度強く抱きしめた。
「ミモザさん。大事な、話があります」
ミモザは、リリムの腕の中で静かに頷いた。
まだ何も、知らないまま。
まだ自分の体に何が起きたのか、理解しないまま。
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この術には、もう一つ代償があった。
リリム自身への代償だった。
契約者一人につき、リリムの最大魔力量の、約一割が恒久的に拘束される。契約者が増えるほど、リリム自身の戦闘能力は低下する。
そしてこの術は、リリムの意思でいつでも解除できる。
解除された瞬間魂は、冥界へと旅立つ。肉体は完全な死体となる。
二度目の蘇生は、不可能だった。
リリムはその事実を、胸の奥に静かにしまい込んだ。
太陽神教会では、生命は神へと還るべきものとされる。魂を現世に縛り続ける、この術は。
「神の摂理への冒涜」
歴史上、最悪の禁呪の一つに数えられている。
それを、リリムは今使った。
迷わず使った。
後悔は、なかった。
ただこれから、ミモザに何を背負わせることになるのか。その重さだけが、リリムの胸に、静かに積もっていった。
つづく…
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