第75話 世界が恐れた覚醒
冥界の魔女を、目の当たりにしたエレナは、恐怖していた。
三十年間最高司祭として、あらゆる脅威と対峙してきた。上位悪魔も見た。禁術に手を染めた者も見た。それでも恐怖という感情を、これほどまでに明確に、自覚したことはなかった。
目の前に立つ、少女は。
もはや、人間ではなかった。
深紫黒のローブが、風もないのに揺れていた。背中の黒い羽根が、瘴気を纏いながら、ゆらゆらと揺らめいていた。右目の深紅と、左目の金色。その瞳の奥に、感情は見えなかった。ただ静かな、途方もない力の気配だけがあった。
エレナは、震える声を絞り出した。
「イゼル。魔女リリムを、倒しなさい」
命令だった。しかし、反応がなかった。
イゼルは、動かなかった。
バーサーク状態にある、はずだった。理性を失い恐怖という感情すら、削ぎ落とされた、狂戦士のはずだった。
それでも。
動けなかった。
目の前に立つ存在に対して、命令すら遂行できないほどの、本能的な恐怖が、狂化したイゼルの中にすら、刻み込まれていた。
光の狂戦士でさえ。
冥界の魔女を前にして、竦んでいた。
エレナは、歯を食いしばった。
このままでは、いけない。
さらに強力な狂化の呪文を、唱え始めた。禁忌に近い、聖属性の秘術だった。使えばイゼルの心が、二度と元に戻らない可能性があった。それでも今は、選んでいる余裕がなかった。
言葉が紡がれた。
金色の光がイゼルの全身を、包み込んだ。
しかし。
その光は、輝きを発しなかった。
本来ならば、周囲を白く染め上げるほどの、光量があったはずだった。それが、冥界の魔女の纏う深淵のオーラに飲み込まれ、かき消されていった。光そのものが、意味を失っていくようだった。
それでも、イゼルの体は動いた。
もはや、意志を持った動きではなかった。
操り人形のようにぎこちなく、しかし確実に、リリムへと向かっていった。
その瞳には、何も映っていなかった。
人としての輝きは、もうそこには、なかった。
イゼルが、剣を振り上げた。
白い炎を纏った聖剣が、頭上に掲げられた。狂化によって増幅された魔力が、刃に収束していった。
振り下ろされた。
最短距離の一閃だった。
リリムに届くその直前で、止まった。
刃がリリムの体に、触れるほんの数ミリ手前で、静止していた。
リリムの右目が。
深紅の瞳が、静かに輝いた。
それだけだった。
イゼルの体を、漆黒の炎が包んだ。
悲鳴すら、上がらなかった。
一瞬だった。本当に一瞬だった。炎が灯り消えた頃には、そこに何も残っていなかった。
剣だけが、地面に乾いた音を立てて、落ちた。
人の形をした、灰すらなかった。
完全な消滅だった。
エレナは、目を見開いた。
「なっ」
声が震えた。
「よくも、イゼルを――」
言葉の途中で、エレナは動いていた。
逃げ場はなかった。
やるしかなかった。
両の拳に聖光の魔力を、限界まで集中させた。長年鍛え抜いた体術と、光属性の魔力を、融合させた最大の一撃だった。その拳をリリムへ叩き込もうとした。
距離が消えた。
拳が、リリムへ届く。
その直前で。
拳が。
溶けた。
聖光を纏っていたはずのエレナの拳が、まるで熱に炙られた蝋のように、崩れ流れ落ちていった。痛みを感じる間すら、なかった。
エレナの顔が、恐怖に歪んだ。
今度は。
リリムの左目が。
金色の瞳が、静かに輝いた。
エレナの体が。
一瞬で。
漆黒の塵となった。
声すら、上がらなかった。
最高司祭という称号も、三十年間積み上げてきた権威も、何もかもがその一瞬で、意味を失った。
風がその塵を、静かにさらっていった。
あとには、何も残らなかった。
森が、静まり返っていた。
朝の――いや、闇に染まったこの場所に、リリムだけが立っていた。
深紫黒のローブが、風もなく揺れていた。
右目に深紅。左目に金色。
その瞳は、まだ静かに、輝きを残していた。
感情は、そこには見えなかった。
怒りでも、憎しみでもなかった。ただ二人を消し去った、その事実だけが静かに、そこにあった。
リリムは、自分の両手を見た。
人一人を、瞬時に塵に変える力。
それが、今の自分の中に宿っていた。
その事実にリリム自身も、まだ追いついていなかった。
つづく…
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