第74話 冥界の魔女
ミモザの腹部を、聖剣が貫いていた。
白い炎が、傷口を焼いていた。鮮血が、地面を染めていった。
「リリムさん……」
かすれた声だった。
その声が、リリムの胸を引き裂いた。
「嫌……」
震える声が、漏れた。
「嫌だ……」
ルークを失った。
もう二度と、大切な人を失いたくなかった。
それなのに。
また、目の前で。
また、自分を守ろうとして。
また、自分のせいで。
「嫌ああああああああぁぁぁッ!!」
絶叫が、森を震わせた。
その瞬間。
リリムの胸の奥で、何かが砕けた。
いや、違う。
封じられていた何かが、目を覚ましたのだ。
心臓が一度だけ、大きく脈打った。
――ドクン。
その鼓動は、森全体へ響いた。
空気が変わった。
風が止まった。
鳥が鳴き止み、木々がざわめきを失った。
生命そのものが、息を潜めた。
リリムの足元から、漆黒の魔法陣が、静かに広がっていった。
それは、これまでの闇魔法とは、違っていた。
黒ではなかった。
深淵だった。
光すら飲み込む、冥界の色だった。
魔法陣は何重にも重なり、複雑な紋様を描きながら、森全体を覆っていった。
空が暗くなった。
朝日が消えた。
まるで世界そのものが、夜へ塗り替えられていくようだった。
エレナの瞳が、揺れた。
「……これは」
初めてだった。
最高司祭エレナ・ソーレンが、恐怖を覚えたのは。
「あり得ない」
小さく呟いた。
「闇属性の魔力では、ない」
もっと、深い。もっと、古い。
生命の終焉そのものを、司る力。
「……冥界」
その言葉が、自然と口をついて出た。
イゼルも、動きを止めた。
理性を、失っていたはずだった。
しかし本能だけが、理解した。
目の前に、現れた存在は。
倒すべき敵ではない。
近づいてはならない、存在だと。
ルミナス・ベルセルクによって、消えたはずの恐怖が、呼び起こされていた。
聖剣が、震え始めた。
白い炎が、小さく揺らいだ。
イゼルが、一歩だけ後退した。
「……ぁ」
声にならない声が、漏れた。
エレナが、目を見開いた。
「バーサーク状態のイゼルが……後退した?」
あり得なかった。
あの呪文は、恐怖を失わせる。命令だけを、遂行する狂戦士へと変える。
そのイゼルが、 本能だけで後退している。
リリムの髪が、ふわりと浮いた。
紫色だった髪が、根元からゆっくりと、変色していった。
夜よりも、深い黒。
しかし光を受けると、紫にも青にも見える、不思議な色。
長く伸びていった。
腰を越え、膝まで届いた。
その一本一本から、闇が霧のように、立ち昇っていた。
瞳が開いた。
右目は、深紅。
左目は、金色。
左右で異なる色を、宿していた。
その瞳の奥には、人間らしい感情は、もう残っていなかった。
怒り。
悲しみ。
絶望。
その全てを越えた、静かな決意だけが宿っていた。
黒い紋様が、首筋から胸元へと、浮かび上がった。
両腕へ。
指先へ。
まるで死神が、刻印を刻んでいるようだった。
衣服が、闇へ溶けた。
黒い魔力が布となり、新たな装束を形作っていった。
深紫黒のローブ。
裾は煙のように揺れ、地面に触れることはなかった。
背中から黒い羽根が、一枚また一枚と舞い落ちた。
翼ではなかった。
冥界の瘴気が、羽根の形を取っているだけだった。
しかしその羽根の一枚一枚が、独立した意志を持つように、リリムの周囲で静かに渦を巻いていた。
魔力は、なおも膨れ上がった。
森全体を覆った。
その時だった。
リリムの左腕に巻かれた銀色の腕輪に、亀裂が走る。
――ピシッ。
一本、二本、三本。
胸の奥から溢れ出す冥界の魔力に、腕輪の封印術式が耐えきれなかった。
そして―― パァンッ!!
乾いた破裂音が森に響く。
腕輪は無数の破片となって砕け散り、黒い粒子へと変わって消えた。
フェンリルが、頭を垂れた。
王がより高位の王を、前にしたように。
自然と膝を、折っていた。
リリムの中で、三十四人の魂が、静かに共鳴していた。
もう、ばらばらの声ではなかった。一つの意志として、リリムの中に溶け合っていた。村長の温かさ。宿屋の女将の優しさ。猟師の実直さ。子どもたちの無邪気さ。妊婦の慈しみ。
そして三十五人目のルークの声が、その全ての中心にあった。
死者たちの記憶がリリムの中で、力に変わっていった。彼らが見た景色。彼らが感じた痛み。彼らが望んだ未来。それら全てが今、リリムという一人の存在の中で、統合されていった。
魂との、完全な対話。
もう、断片的な記憶の流入ではなかった。三十五の魂とリリムの意識が、一つの回路として繋がっていた。
リリムは、静かに、立ち上がった。
傷だらけだった体。
痣。
裂傷。
それらは、黒い粒子となって消えていった。
完全に。
一切の傷跡を、残さず。
癒えていた。
リリムはゆっくりと、自分の両手を見つめた。
「これが……」
静かな声だった。
しかしその声には、深い響きがあった。ただの少女の声ではなかった。三十五人分の重みを、内包した声だった。
「私の、本当の力……」
胸の奥でルークの声が、優しく響いた。
(あなたは、今――高位化を果たしました)
(【冥界の魔女】へ)
リリムは静かに、目を閉じた。
そして再び開いた。
その視線は、ミモザを貫いたイゼルへと向けられた。
続いて。
最高司祭エレナへと。
エレナは初めて、冷や汗を流した。
「まさか……」
喉が乾いた。
「邪術師が……高位化したというのですか……?」
歴史書でしか、読んだことがなかった。
災厄級の存在への到達。
神話の中だけの出来事。
その瞬間を、自分は今目撃している。
リリムの足元の魔法陣が、脈打つように明滅した。
周囲の地面から、薄く人の形をしたものが、揺らめきながら浮かび上がった。
村人たちの、記憶の残滓だった。
死霊を一時的に、具現化する力。かつてリリムが救い、浄化した魂たちが今、その力の一部となって、リリムの傍らに寄り添うように現れていた。
彼らは攻撃しなかった。ただ、リリムを守るように、その周囲に揺らめいていた。
闇の魔力が、これまでの何倍もの密度で、リリムの周囲に満ちていた。奈落の嵐も、影の刃も、心臓の影縛りも、以前とは比較にならないほどの、威力を秘めているのがわかった。
しかしリリムは、それらを使おうとはしなかった。
ただ一歩、前へ踏み出した。
その一歩だけで。
地面が音もなく、黒く染まっていった。
背中の黒い羽根が、大きく広がった。
瘴気の翼が朝の――いや、もう朝ではなくなった闇に染まった空を、覆っていった。
その姿はまるで、冥府の王が、地上に降臨したかのようだった。
リリムは、ミモザの体から剣を引き抜いた、イゼルを見た。
そしてその奥に立つ、エレナを見た。
声は静かだった。
「ミモザさんを、傷つけたことを」
深紅と金色の瞳が、二人を映していた。
「後悔することになります」
つづく…
登場キャラクターのイラストをpixivで公開中です!
闇に堕ちたリリム、賢者アリシア、悪魔に魂を売った女ヴァレリア――
物語に登場するキャラクターたちを、高品質イラストとして制作しています。
「このキャラの姿を見てみたい」
「戦闘シーンをもっと想像したい」
そんな方はぜひご覧ください。
▼pixivはこちら
https://www.pixiv.net/artworks/144606685




