第73話 聖なる狂戦士
「リリムさん――」
ミモザの声が、震えた。
崩れ落ちたリリムの姿を、目の端で捉えていた。傷だらけの、痣だらけの体。エレナに、一方的に打ちのめされた姿だった。
(早く、助けなければ)
ミモザの頭が、目まぐるしく動いた。
(できるの、私に。エレナ様とイゼル先輩を相手に。一対二で)
両方を同時に相手にすることは、不可能だった。エレナは既に、リリムを拘束しかけている。今から自分が動いても、間に合うかどうかわからない。
(数を、減らすしかない)
結論は、すぐに出た。
(まずは、イゼル先輩を)
ミモザは、イゼルへと向き直った。
その目に迷いは、なかった。確かな意思だけが、宿っていた。ここで、退くわけにはいかない。イゼルを無力化しなければ、リリムを助ける道が絶たれる。
その眼光を真正面から受けたイゼルは、思わず目を逸らした。
(今の、ミモザには)
膝をついたままの姿勢で、イゼルは思った。
(敵わない)
先ほどまでの戦闘で、既に思い知らされていた。ミモザの一撃一撃に、これまでにない重みが宿っていた。技量の差は、依然としてあるはずだった。それでも押されていた。理由のわからない圧力に、押されていた。
自分の中の迷い。
その迷いが、力を削いでいた。
イゼルはまだ、それを認められずにいた。
その様子に、エレナが気づいた。
崩れ落ちたリリムを見下ろしながら、その視界の端にイゼルの姿を、捉えていた。
膝をつき、視線を逸らしている。
攻撃を受けたからではなかった。あの子は傷を負っても、目は逸らさない。それが、イゼルという弟子の、変わらぬ性質だった。
しかし、今は違った。
気持ちで、負けている。
完全に、押されている。
エレナの中で、冷静な分析が進んだ。
(リリムが、ミモザを変えた)
あの魔女の存在が、ミモザという教会で最も従順だった娘を、変貌させた。そして今その変化が、イゼルにまで伝播しようとしている。
(リリムが、世界を狂わせている)
この場で確実に、断ち切らなければならない。
敗北の記憶を、イゼルに植え付けてはならない。一度負けを知れば、それは二度、三度と繰り返される。教会の最も忠実な執行者が、迷いを抱え続けることになる。
エレナは、詠唱を始めた。
言葉が、紡がれていった。
禁呪に近い、光の系統の呪文だった。
エレナの手から金色の光が、イゼルの体へと注がれていった。
「――なんだ」
イゼルの体が震えた。
光が体の内側から、燃え上がるように広がっていった。膨大な聖属性の魔力が、一気に体を満たしていった。
これまでの抑制された魔力とは、質が違った。
制御を失っていく感覚が、あった。
思考が白く、塗り潰されていった。判断力が薄れていった。ただ目の前の敵を、倒さなければならない、という一点だけが頭の中に残った。
これは、何だ。
この考えすら、やがて消えていった。
ルミナス・ベルセルク。
聖なる狂戦士。光属性版のバーサーク。判断力を失い、聖属性魔力が暴走し、敵を倒すまで止まらなくなる。味方すらも、区別がつかなくなる、危険な呪文だった。
イゼルは立ち上がった。
その目が変わっていた。
銀灰色の瞳の奥で、何かが燃えていた。理性の色は、もうなかった。
「イゼル」
エレナが静かに告げた。
「敵だけを、見なさい」
その言葉が命令として、イゼルの中の最後の思考を支配した。
聖剣が握られた。
白い炎がこれまでとは比較にならない密度で、剣先に渦を巻いた。
ミモザは、その変化を見た。
「先輩……?」
声が届かなかった。
イゼルが動いた。
速かった。
これまでの比ではなかった。技量の正確さはそのままに、力と速度だけが何倍にも、膨れ上がっていた。
剣の一閃が、ミモザの防御を突き破った。
「――ッ」
光の障壁が砕けた。
ミモザは後退した。息が詰まった。防ぐことに精一杯だった。反撃に転じる余裕がなかった。
先ほどまでの拮抗は、消えていた。
イゼルはもう、迷わなかった。判断力を失った代わりに、躊躇いも失っていた。ただ目の前の敵を、排除するという、その一点だけで動いていた。
「先輩、正気に戻ってください」
ミモザが叫んだ。
届かなかった。
銀灰色の瞳は、もうミモザを、見ていなかった。ただ敵という記号だけを、見ていた。
剣が来た。
ミモザは障壁を展開した。しかし、間に合わなかった。
剣先が障壁を、貫いた。
そのまま。
ミモザの腹部を、貫いた。
時間が止まったように、感じられた。
ミモザは自分の腹部を見た。
白い炎を纏った聖剣が、そこにあった。
痛みは、少し遅れて来た。
視界が揺れた。
「――あ」
声がこぼれた。
血が革鎧を、赤く染めていった。
イゼルの目はまだ何も、映していなかった。理性の失われた、ただの光の刃だった。
ミモザの体が、崩れ落ちようとした。
その視界の端に、崩れ落ちたままのリリムの姿があった。
「リリムさん」
ミモザの唇から、その名前がこぼれた。
声はもう、届かないほど小さかった。
つづく…
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