第72話 魂の障壁
エレナは、リリムを、見据えていた。
暁の剣南支部を、壊滅させた魔女。西支部長アステルを、退けた相手。決して、油断していい相手ではない。
エレナ自身は、久しく、実戦から遠ざかっていた。最高司祭という立場に就いてから、自ら剣を振るう機会は、減っていた。しかしかつては、上位悪魔を相手にしても、後れを取ることはなかった。その技量が鈍っているとは、思えなかった。
それでも。
油断はしない。
魔力を、出し惜しみしている場合ではなかった。
昨夜から一睡も、していなかった。頭は冴えていた。しかし体は、確実に消耗していた。長期戦になれば、その消耗が如実に出る。
ならば。
一気に、片をつける。
エレナは両手を、天に向けて掲げた。
リリムはエレナと向かい合ったまま、動けずにいた。
いや、動かなかった。
自分の中で、何かが崩れかけていた。
いつまでこんな戦いを、続けなければならないのか。
南支部を壊滅させ、廃屋でイゼルに追われ、村でグラウガと戦い、暁の剣に囲まれ、アステルと死闘を繰り広げ、ルークが目の前で斬られた。
そして今また目の前に、圧倒的な力を持つ者が立っている。
いつまでこうして逃げて、戦って、失い続けなければならないのか。
いっそ、ここでやられてしまえば、楽になれるのではないか。
そんな考えが頭の中に、忍び込んできた。
自分が消えれば。抵抗をやめれば。
もう誰もルークのように、犠牲にならずに済む。
リリムの体から、力が抜けていった。
構える気力すら、湧いてこなかった。
エレナの、詠唱が終わった。
「光よ、罪ある者を裁きなさい――《ソル・ジャッジメント》」
その言葉が森に静かに響いた瞬間、ミモザとイゼルの表情が、同時に変わった。
「まさか」
イゼルの声が震えた。膝をついたままの姿勢で、空を見上げた。
「ソル・ジャッジメント……最高司祭にしか扱えない大呪文」
ミモザの顔から、血の気が引いた。
最初から、それを使う。
躊躇なく。手加減なく。エレナは最初から、最大戦力で決着をつけるつもりだった。
「リリムさん!」
ミモザが叫んだ。
声が、森に響いた。
しかしリリムは、構えすら取っていなかった。
両手が力なく、下がったままだった。目には光がなかった。
天空に巨大な魔法陣が、展開された。
純白の光が渦を巻き、収束していった。直径数メートルの光の槍が、そこに形を成していった。
「リリムさん、逃げて!」
ミモザが、もう一度叫んだ。
届かなかった。
光の槍が、放たれた。
純白の光が、天からまっすぐに降り注いだ。
リリムに直撃した。
爆発が起きた。
白い光が、視界の全てを飲み込んだ。轟音が、森を震わせた。木々が、なぎ倒された。地面が、大きく抉れた。
「リリムさーーーーん!!!!」
ミモザの絶叫が、爆音にかき消された。
しばらく、何も見えなかった。
やがて、爆発が収まった。
煙がゆっくりと、晴れていった。
その中心に、黒い球体があった。
闇の魔力で形成された、球体だった。その中に、リリムがいた。
傷一つなかった。
エレナの目が、見開かれた。
「――なぜ」
声に、動揺が滲んでいた。
最高司祭にしか扱えない、最高位の裁きの魔法。城壁すら貫く威力を持ち、闇属性には特効を持つ、その一撃が。
通じていなかった。
イゼルも目を見開いていた。膝をついたまま、その光景を見ていた。信じられない、というように。
ミモザの顔に、安堵の色が広がった。
しかしそれ以上に、驚きの色があった。
「……リリムさん」
呟いた。
あの一瞬で、あれだけの魔力を集中させて、障壁を展開した。それは、これまでのリリムに、なかった精度だった。
リリムの中で、声がしていた。
自分の声ではなかった。
(リリムさん、私の分も、生きてください)
その声を、リリムは知っていた。
(私は、リリムさんとともにあります。私が見れなかったものを、見せてください)
「――ルークさん?」
リリムの唇から、こぼれた。
「ルークさんが、守ってくれたの?」
(私は、きっかけに過ぎません)
声が答えた。
(この闇の障壁を展開したのは、リリムさんです)
「えっ、私が?」
リリムは、自分の両手を見た。
諦めかけていた、あの瞬間。何もかも投げ出したかった、あの瞬間。それでも、体のどこかが、応えていた。三十四人分の意志と、ルークの想いが、リリムが気づかないところで、リリムを守っていた。
あなたは生きることを、諦めてはいけない。
その想いが、言葉より先に力になっていた。
リリムの胸の奥で、何かが静かに揺れた。
気がつくと、エレナが目の前に迫っていた。
(呪文が通じないなら)
エレナは、既に動いていた。
(拳で、砕くのみ)
最高司祭の身に纏っていた威厳はその瞬間、戦士のものに変わっていた。
エレナの掌底が、リリムの腹部に叩き込まれた。
「――ッ」
リリムの体が、くの字に折れた。
息が詰まった。
考える間もなかった。
次の一撃が来ていた。
エレナは、格闘術にも長けていた。長年鍛え抜かれたその体術は、無駄がなかった。拳が、蹴りが、次々とリリムに打ち込まれた。
リリムは防ぐことも、避けることもできなかった。詠唱する間さえ、与えられなかった。
殴られ、蹴られ、その度に体が後退し崩れ、また殴られた。
傷が増えていった。
痣が広がっていった。
しかしエレナの拳には、殺意はなかった。
あくまで、拘束が目的だった。急所は外されていた。骨を砕くほどの力も、加えられていなかった。それでもリリムの体力を、確実に削っていった。
やがてリリムは、膝から崩れ落ちた。
傷だらけの、痣だらけの、体だった。それでも意識だけは、辛うじて保っていた。
朝の光の中に、崩れ落ちたリリムの姿があった。
エレナは、その前に立っていた。
息一つ、乱していなかった。
「終わりです」
静かな声だった。
リリムは、答えられなかった。
ただ胸の中のルークの声だけが、まだ静かにそこにあった。
つづく…
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