第69話 追跡者たち
夜が明けても、エレナは、眠れなかった。
机の上に、書類が積まれていた。処理しなければならない案件が、山のようにあった。しかし、一枚も目を通していなかった。
窓から朝日が差し込んでいた。白い光が、部屋を静かに照らしていた。
エレナは椅子に座ったまま、その光を見ていた。
昨夜から一度も、目を閉じていなかった。
何度も思い出した。
ミモザが、自分を突き飛ばした瞬間を。
石床へ倒れた、あの衝撃を。
後頭部を打った、あの音を。
そして。
あの瞳を。
迷いも憎しみもなかった。ただ守るためだけに、自分へ手を伸ばした少女の瞳が、瞼の裏に焼きついていた。
三十年間。
誰も自分に逆らわなかった。それが覆された。あの最も大人しいと言われていた娘に。
エレナは目を閉じた。
すぐに開いた。
考えなければならない。
感情ではない。
最高司祭として。太陽神教会の頂点として。最善を、選ばなければならない。
陽光の乙女ミモザが、逃走した。
最高司祭へ、暴力を振るい。
この事実が公になれば、太陽神教会の権威は大きく揺らぐ。陽光の乙女とは、信徒にとって、希望そのものだ。その一人が、教会に刃向かった。そんな事実は、決して、知られてはならない。
王国も動くだろう。貴族も動く。教会内部にも、疑心が広がる。
それだけは、避けなければならない。
エレナは、静かに立ち上がった。
手の甲に、薄く歯の跡が残っていた。神官衣の袖で、それを隠した。
鐘を鳴らした。
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しばらくして、扉が叩かれた。
「失礼いたします」
イゼルだった。
銀髪を束ねた若い女性が、いつものように姿勢よく礼をした。
しかし部屋へ入った瞬間、その表情がわずかに変わった。
(……眠っていない)
エレナの目の下に、ごく薄い影があった。髪もわずかに乱れていた。
最高司祭は、常に完璧だった。服装も姿勢も、呼吸すら乱さない。それが、今朝だけ違っていた。
何かが、あった。
イゼルはそう確信した。
だが、聞かなかった。聞ける立場ではなかった。
「お呼びでしょうか」
エレナは、頷いた。
「イゼル」
「はい」
「これから話す内容は、誰にも話してはいけません」
その一言だけで、十分だった。
事態は極秘。教会全体ではなく、最高司祭直属の案件。
イゼルは、膝をついた。
「御意」
エレナは、短く息を吐いた。
「昨夜」
言葉を選ぶように、少し間を置いた。
「陽光の乙女ミモザが、逃走しました」
イゼルの瞳が、初めて揺れた。
「……逃走」
「私を突き飛ばし」
声は平坦だった。しかしその平坦さの奥に、何か押し殺したものがあった。
「記憶の封印を妨害し、逃走しました」
沈黙が落ちた。
イゼルは頭を下げたまま、動かなかった。
驚いていた。しかし表には、出さなかった。
数秒後。
「……承知いたしました」
それだけだった。
エレナは、わずかに頷いた。
だから、イゼルを呼んだのだ。動揺しない。余計なことを聞かない。必要なことだけを考える。その資質を、誰よりも信頼していた。
「この件は、公表しません」
「教会内部にも、伏せます」
「ミモザは、任務中という扱いにします」
イゼルが、顔を上げた。
「追跡は私とあなた。二人だけで行います」
「陽光の乙女の裏切りを知る者は、増やしません」
「御意」
イゼルは即答した。
「準備いたします」
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その時だった。
部屋の扉が、三度叩かれた。
通信担当の神官が、慌ただしく入室した。
「最高司祭様」
息が上がっていた。
「西支部より、緊急魔導通信です」
エレナの視線が、鋭くなった。
「繋ぎなさい」
神官が水晶を机に置いた。
淡い光が部屋を満たした。
水晶の中に、一人の男が映った。
長い銀髪、整った美貌。感情の乗らない蒼銀の瞳。
暁の剣・西支部長アステル・レイヴェルトだった。
「最高司祭様」
淡々とした声だった。声量が変わらない。感情の起伏を、一切感じさせない声だった。
「ご報告いたします」
「魔女リリムを、発見しました」
エレナの瞳が、細くなった。
「場所は」
「ルコント村北方。呪われた森」
「……結果は」
「拘束には、失敗いたしました」
一瞬、部屋が静まり返った。
しかしアステルは、表情一つ変えなかった。まるで、天気の報告をするかのような、平静さだった。
「対象の戦闘能力は、南支部の報告以上でありました」
「拘束不可能と、判断」
「危険度を第一級へ、再設定いたしました」
エレナは、黙って聞いていた。
アステルが、失敗を報告する。
それだけで、リリムの脅威がどれほどのものか、理解できた。西支部長アステル。暁の剣五支部長の中でも、最上位の実力を持つ男。その男が、拘束できなかった。
「なお」
アステルは続けた。
「対象は現在も、呪われた森周辺に、留まっている可能性が高いと、推測いたします」
「承知しました」
通信が切れた。
水晶の光が消えた。
静寂が戻った。
エレナは、窓の外を見た。
朝日が高く昇っていた。街の屋根が白く輝いていた。
「イゼル」
「はい」
「出発します。今度こそ」
エレナの金色の瞳に、静かな決意が宿った。三十年、揺らぐことのなかった、あの目だった。
「私自身が、あの子を連れ戻します」
イゼルは静かに、頭を下げた。
「御意」
二人は同時に、部屋を出た。
太陽神教会最高司祭と、その最強の側近。
誰にも知られぬ追跡が、静かに始まった。
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回廊を歩きながらイゼルは、エレナの背中を見ていた。
いつもと同じ歩き方だった。姿勢を正し迷いのない足取りで、前を向いていた。それでも、イゼルにはわかった。
この人は眠っていない。
ミモザに突き飛ばされて、床に倒れた。それだけのことでこの人が、こんなにも乱れることがあるのか。イゼルは初めて知った。
自分の師であるこの最高司祭にも、揺らぎがあることを。
森の中で自分が抱えた迷いのことを、イゼルはまだ言葉にできずにいた。ミモザが、なぜあれほどまでにリリムを庇ったのか。その理由の欠片が、今朝の報告の中に、あった気がした。
ミモザはリリムに関わる記憶を、消されるくらいなら、逃げることを選んだ。
それほどまでに、大切な何か。
イゼルにはまだその正体が、わからなかった。
ただ歩きながら、考えていた。
自分にもそういうものが、あるのだろうか。
答えは出なかった。
二人の足音だけが朝の回廊に、静かに響いていた。
つづく…
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