第68話 選んだ痛み
握られた手の温かさが、少しずつ、リリムの中に染み込んでいった。
風が、木々を揺らした。
フェンリルの息遣いが、規則正しく続いていた。傷ついた巨体が、それでも二人を守るように、傍らに横たわっていた。
リリムは、口を開いた。
「ミモザさん」
「はい」
「聞いてもらっても、いいですか」
「もちろんです」
ミモザはリリムの手を、握ったままだった。ただ、待っていた。
リリムは墓を見た。
小さな土の盛り上がりを。
「ルークさんは」
声がかすれた。
「私を、庇ってくれました。仲間に剣を向けてまで」
言葉が、ゆっくりと出てきた。
「村を壊滅させたと誤解されて、剣を向けられて。何も言えなかった私の代わりに、ルークさんが前に立ってくれました」
ミモザは、黙って聞いていた。
「隊長に反逆者とみなすと言われても、退かなかった。剣を構えて、抗いました」
リリムは、拳を握った。
「それなのに私は、何もできなかった」
声が震えた。
「アステルという人が現れて、フェンリルをあっという間に倒して。私を捕まえようとした。ルークさんがまた、私を庇おうとした」
涙がこぼれた。
「その瞬間に斬られました。私が見ている前で。何が起きたのか、わからないくらい、一瞬でした」
ミモザの手に、力が少しだけこもった。
「私は必死に、蘇生の方法を探しました。闇の魔法にそんな術は、存在しないとわかっていても。それでも探しました」
リリムは、両手で顔を覆った。
「上手くいきませんでした。ルークさんの魂が、浮かび上がって。私に吸収されることを、望んでいました。村の人たちと、同じように」
声が詰まった。
「でも、違ったんです」
リリムは、顔を上げた。
「村の人たちはみんな、ありがとうって言ってくれました。救われたって、笑ってくれました。でもルークさんは、何も言いませんでした。ただ、微笑んだだけで」
涙が、止まらなかった。
「私、わかってしまったんです。ルークさんは、まだ生きたかったんだって。まだ、やりたいことが、あったはずなんです。それを、私が」
「リリムさん」
ミモザが、初めて口を挟んだ。
「違います」
リリムは、ミモザを見た。
「あなたがルークさんを、殺したんじゃありません」
「でも、私を庇わなければ」
「それはルークさんが、自分で選んだことです」
ミモザの声は、静かだった。しかし、はっきりとしていた。
「あなたのせいにすることは、ルークさんの選択を、なかったことにすることです」
リリムは、答えられなかった。
「ルークさんは、あなたの目を見て、悪い人じゃないと、言ったんですよね」
「……はい」
「それは、ルークさんの意志です。あなたに、強要されたものじゃない」
リリムは、墓をもう一度見た。
「わかっています。頭では」
「はい」
「でも」
声が震えた。
「胸が、痛いんです。ずっと」
ミモザは、頷いた。
「それで、いいんです」
「……いいんですか」
「痛いことを、なかったことにする必要はありません。ただその痛みに、押しつぶされないでほしいんです」
リリムは、目を閉じた。
涙が、またこぼれた。
しばらく二人は、黙っていた。
やがて、リリムが言った。
「ミモザさんは」
「はい」
「なぜ、ここにいるんですか」
ミモザの手が、一瞬止まった。
「太陽神教会は、どうなったんですか。イゼルさんに、また何か言われたんですか」
ミモザは、しばらく答えなかった。
月明かりがその横顔を、静かに照らしていた。
やがて、ミモザが口を開いた。
「私は」
声が少し変わっていた。
「エレナ様を、突き飛ばしました」
リリムは、目を見開いた。
「エレナ様は、太陽神教会の最高司祭です。私はその方に、暴力を振るいました。そして、逃げました」
「……なぜ」
「私の記憶を、封印しようとしたからです」
ミモザの目が、リリムを見た。
「あなたに関わった記憶を」
リリムは、息を呑んだ。
「それだけは、消されるわけにはいかなかった」
ミモザの声が、静かに続いた。
ミモザは、月を見上げた。
しばらく黙っていた。
言葉を選んでいるようだった。
「聞いて、もらえますか」
「はい」
リリムは、姿勢を正した。
ミモザの手が、まだリリムの手を握ったままだった。
「私は、十二歳のとき」
ミモザは、ゆっくりと話し始めた。
「闇の魔法に、触れていました」
リリムは驚いた。
「村に流れてきた禁書があったんです。読んではいけないと、言われていました。でも私は、読みました。ただの好奇心でした」
ミモザの声は、静かだった。
「闇の力が、私の中に入ってきました。制御できませんでした。夜中に目が覚めると、手から闇の刃が出ていることもありました」
リリムは、何も言えなかった。
自分と同じだった。
いや、正確には違う。しかし根っこにあるものが、あまりにも似ていた。
「怖かったんです」
ミモザは続けた。
「自分が、化け物になっていくような気がして。誰にも、言えませんでした。このまま、誰かを傷つけてしまうんじゃないかと、毎晩思っていました」
「……どうなったんですか」
「陽光の乙女が、来てくれました」
ミモザの目に、遠い光が宿った。
「名前は、もう覚えていません。でもその人は私を見て、化け物だとは言いませんでした。粛清しようとも、しませんでした。ただ隣に座って、話を聞いてくれました」
風が、二人の間を通り過ぎた。
「その人が私を、教会に連れてきてくれました。闇の力は時間をかけて、浄化されました。私は、陽光の乙女になりました」
ミモザはリリムを見た。
「私が今ここにいるのは、あの人が私を粛清しなかったからです」
リリムはその言葉を、静かに受け止めた。
「だから」
ミモザは続けた。
「イゼル先輩が、あなたを粛清しようとしたとき、私は止めずにいられませんでした。あなたは、あの頃の私だったから」
「……ミモザさん」
「エレナ様に、記憶の封印を言い渡されたとき」
ミモザの声が、少し揺れた。
「私は、わかりました。あなたに関わった記憶が消えたら、私はあの頃の自分を、忘れてしまう。あの陽光の乙女に、救われたというその記憶ごと」
ミモザは、両手を見た。
「私が、私であるための、根っこが消えてしまう」
「だから」
「だからエレナ様を、突き飛ばしました」
ミモザの顔に、初めて苦しそうな色が浮かんだ。
「後悔していないと言えば、嘘になります。エレナ様は私にとって、師でした。長く、お世話になった方です。その方を、傷つけました。後頭部を強く、打たせてしまいました」
「……大丈夫だったんですか」
「わかりません」
ミモザは、首を振った。
「確かめる時間が、ありませんでした。逃げるしかなかった」
リリムは、ミモザの手を握り返した。
「もう教会には、戻れないんですね」
「戻れません」
ミモザは頷いた。
「私は最高司祭に暴力を振るい、逃走した反逆者です。見つかれば今度は、記憶の封印だけでは、きっと済まないでしょう」
リリムは、胸が痛んだ。
「私のせいで」
「違います」
ミモザが、遮った。
「これは、私が選んだことです。あなたのせいにすることは、私の選択をなかったことにすることです」
その言葉が先ほど、自分がリリムにかけた言葉と、同じであることに、ミモザは気づいたようだった。
少しだけ笑った。
「同じことを言っていますね、私」
リリムも、その笑いにつられた。
小さな震えるような、笑いだった。それでも確かに、笑いだった。
胸の中で何かが、少しだけ軽くなった。
夜が、深かった。
月明かりが二人を、静かに照らしていた。
小さな墓が、傍らにあった。
フェンリルの、規則正しい息遣いが続いていた。
どちらからともなく、手を離した。
しかし、隣にいるという事実は、そのまま残った。
つづく…
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