第67話 月下の墓標
光が、リリムの手のひらに触れた。
温かかった。
村人たちの魂と、同じ温かさだった。しかし、少し違った。もっと近い温かさだった。共に歩き、共に木の実を食べ、共に過ごした時間の、その温かさだった。
リリムは、目を閉じた。
涙が、止まらなかった。
魂がリリムの中に、流れ込んできた。
記憶が、来た。
幼い頃、暁の剣に憧れた少年の記憶。厳しい訓練の日々。初めて剣を握ったときの高揚。仲間たちと笑い合った夜。ガレスに叱られて、それでも尊敬していた気持ち。
そして、あの村での出来事。
悲しい目をした少女を見て、剣を抜けなかったあの瞬間。
仲間に剣を向けてまで、守りたいと思った気持ち。
後悔していないという、あの言葉。
全部がリリムの中に、流れ込んできた。
「――ッ」
リリムは、声を殺して泣いた。
嗚咽が漏れた。抑えようとしても、抑えられなかった。
光が、消えていった。
ルークの魂がリリムの中に、静かに収まっていった。
感謝の言葉は、なかった。
村人たちのように、ありがとうとは言わなかった。ただ最後に、微笑んだ感触だけが、リリムの中に残った。
それだけで、十分だった。
十分なはずが、なかった。
リリムは、ルークの亡骸を見た。
もう、動かない体だった。魂の抜けたその体は、ただの器になっていた。しかし、それでもリリムは、その体に触れずにはいられなかった。
両腕を伸ばした。
ルークの体を、抱き寄せた。
冷たかった。
温かかった木の実の味も、水浴びの後の笑い声も、もうこの体には戻らない。それでも、リリムは抱きしめた。
顔を、胸にうずめた。
声が出た。
言葉にはならなかった。ただ、泣き声だけが、森に響いた。
フェンリルが傷ついた体のまま、リリムの傍に寄ってきた。何も言わずただ寄り添うように、体を横たえた。
夜が、深まっていた。
---
どれくらい、そうしていただろう。
時間の感覚が、なかった。
涙は、いつの間にか涸れていた。それでも、リリムはルークの体を離せなかった。腕の中で、その重みだけが、確かなものとして残っていた。
森が、静かだった。
霧が、動かなくなっていた。夜の闇が深く重く、あたりを包んでいた。
その闇の中に、小さな光が灯った。
橙色の光だった。
リリムは、顔を上げた。
目が霞んでいた。それでもその色を、見間違えるはずがなかった。
光が近づいてきた。
人の形になった。
橙色の長髪。金色の瞳。純白の革鎧は汚れ、ところどころ焦げていた。以前会ったときよりも、その姿は疲れていた。頬に新しい傷があった。
「……ミモザさん」
リリムの唇から、その名前がこぼれた。
ミモザは答えなかった。
ただリリムの前で、足を止めた。
その目がリリムを見た。腕の中の、動かないルークを見た。傷ついたフェンリルを見た。血に染まった漆黒のローブを見た。
ミモザの顔が、静かに歪んだ。
何が起きたのか、言葉にせずとも、伝わったようだった。
ミモザは、膝をついた。
リリムの前に、そっと座り込んだ。
両手を伸ばした。
リリムの肩に、そっと触れた。
言葉は、なかった。
ただ、その手の温かさだけが、そこにあった。
リリムは、ミモザを見た。
聞きたいことが、あった。なぜここにいるのか。太陽神教会は、どうなったのか。イゼルは。
でも何も、聞けなかった。
ただ腕の中のルークを、もう一度強く抱きしめた。
ミモザが静かに、その背中に手を添えた。
夜が二人と、一頭を静かに包んでいた。
---
ミモザが静かに、体を離した。
立ち上がり、あたりを見渡した。
森の中、開けた場所があった。フェンリルと出会った、あの泉の近くだった。木々の間から、月明かりが差し込んでいた。
ミモザは、その場所に歩いていった。
膝をつき、土に手を当てた。
目を閉じた。
しばらく、そうしていた。
それから両手で、土を掘り始めた。
リリムは、それを見ていた。
言葉がなかった。ただミモザの手が、土を掘っていく様子を見ていた。
リリムはルークの体を、そっと地面に横たえた。
立ち上がった。
ミモザの隣に、膝をついた。
自分の手を、土に伸ばした。
掘った。
冷たい土だった。爪の間に、土が入り込んだ。それでも掘り続けた。
二人で掘った。
言葉は交わさなかった。
やがて、穴が深くなった。
リリムはルークの体を、抱き上げた。
軽かった。
穴の中に、そっと横たえた。
ミモザがルークの胸の上に、手を置いた。
光が灯った。
小さな、白い光だった。
「浄化の魔法です」
ミモザが初めて、言葉を発した。
静かな声だった。
「体が朽ちる速度を、緩やかにします。せめて綺麗な形のまま、還れるように」
リリムは、頷いた。
光がルークの体を包んだ。傷が少しずつ、目立たなくなっていった。眠っているような、穏やかな顔になった。
ミモザが、両手を組んだ。
目を閉じた。
祈りの言葉を、口の中で唱えた。声にはならなかった。ただ唇が、静かに動いていた。
リリムも、目を閉じた。
何を祈ればいいのか、わからなかった。それでも目を閉じて、ルークのことを、思った。
木の実の味。
泉の冷たさ。
仲間に剣を向けてまで、前に立ったあの背中。
後悔していないという、あの言葉。
リリムは、目を開けた。
土をすくった。
穴の中に、そっと落とした。
ミモザも、同じように、土を落とした。
時間がかかった。
誰も急がなかった。
やがて、穴が埋まった。
小さな土の盛り上がりが、月明かりの下に残った。
リリムはその場に、しばらく座り込んでいた。
ミモザも、隣に座った。
フェンリルが二人を守るように、傍らに伏せた。
風が木々を揺らした。
夜が深かった。
しばらくして、ミモザが口を開いた。
「リリムさん」
「……はい」
「大丈夫とは、言いません」
ミモザの声は、穏やかだった。
「言っても意味がないことは、わかっていますから」
リリムは、何も言わなかった。
ミモザがリリムの手を、そっと握った。
冷たい手だった。土で汚れた手だった。それでも、ミモザは握った。
「ここにいます」
それだけだった。
リリムは、その手を握り返した。
言葉はそれ以上、いらなかった。
夜の森に、小さな墓が一つ。
月明かりの下で、静かに残っていた。
つづく…
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