第66話 闇では救えない
リリムは一歩踏み出した。
地面が砕ける。
次の瞬間には姿が消えていた。
轟音。
巨大な闇の槍が空間を裂く。
しかし。
アステルはいない。
銀色の残像だけが、その場に残っていた。
アステルは既にリリムの背後へ回っていた。
剣が抜かれる。
一閃。
リリムは振り向きざまに、闇を纏わせた腕で受け止める。
甲高い音が森へ響く。
剣が止まった。
いや。
止めた。
闇の魔力が刃を包み込み、押し返す。
アステルの瞳が僅かに細くなった。
「素手で受け止めますか」
「あなたを……」
リリムの瞳が燃える。
「許さない」
爆発。
闇が弾ける。
アステルは、十数メートル後方へ跳び退いた。
リリムは両手を広げる。
三十四人の魂が共鳴する。
無数の闇槍が空中に現れた。
一つ。
二つ。
十。
二十。
五十。
百。
森の空を埋め尽くす。
リリムは静かに呟く。
「みんな……力を貸して」
百本の槍が一斉に落ちる。
アステルは剣を握る。
目を閉じた。
ゆっくり息を吐く。
「光剣術・八式」
剣が白く輝く。
一歩。
踏み出す。
その瞬間。
世界から音が消えた。
銀色の閃光だけが森を駆け抜ける。
斬る。
斬る。
斬る。
百本の闇槍が、空中で次々と断ち切られていく。
一本残らず。
全て。
霧散した。
リリムの目が見開かれる。
「全部……斬った……」
アステルは静かに剣を下ろした。
「大規模魔法への対処は、完了しました。」
しかし。
リリムは待っていた。
「今」
闇が爆ぜる。
槍は囮だった。
アステルの足元。
影そのものが巨大な手となって伸びる。
闇の拘束。
地面から無数の腕が現れ、アステルへ絡みつく。
初めて。
アステルの足が止まった。
リリムが飛び込む。
拳を握る。
三十四人分の魔力が右腕へ集まる。
「あなただけは……許さない!」
拳が振り抜かれる。
轟音。
アステルは剣で受けた。
しかし。
受け切れない。
そのまま数十メートル吹き飛ぶ。
巨木を三本折りながら停止した。
森が揺れた。
土煙の中。
アステルは静かに立ち上がる。
頬から一筋だけ血が流れていた。
それを親指で拭う。
見つめる。
「……久しぶりです」
呟く。
「私に傷をつけた相手は」
リリムは答えない。
涙を流したまま睨み続けていた。
アステルは剣を構え直す。
しかし。
動かなかった。
静かに森を見渡す。
フェンリル。
リリム。
瀕死のルーク。
森全体を覆う闇の魔力。
頭の中で全てを計算する。
勝率。
被害。
任務。
撤退基準。
数秒。
沈黙が流れた。
やがて。
剣を下ろした。
「任務を変更します」
淡々と言う。
「魔女リリムの拘束は、本任務では不可能と判断」
リリムは眉をひそめた。
アステルは続ける。
「西支部単独では、対応不能」
「危険度を再査定」
「討伐優先度、第一級指定対象へ変更」
リリムの胸が、締め付けられる。
アステルは踵を返した。
「今回は撤退します」
蒼銀の瞳がリリムを射抜く。
「次にお会いした時は」
一切の感情を宿さない声。
「あなたを、必ず討伐いたします」
言い終えると歩き始める。
迷いは一切ない。
アステルは霧の中へ消えていった。
リリムは、しばらく動けなかった。膝が、震えていた。全身から力が抜けていくのがわかった。三十四人分の魔力を使い果たした反動が、今になって襲ってきていた。
息を吐いた。
一息ついた。
それから、思い出した。
「ルークさん――!」
駆け出した。
足がもつれた。それでも走った。フェンリルが伏せている場所へ、まっすぐに。
フェンリルが体を起こした。傷ついた巨体を、わずかにずらした。
ルークが、見えた。
地面に横たわったままだった。漆黒のローブが、傷口に押し当てられたままだった。血が、もう止まっていた。
止まっていた、という事実に、リリムは息を呑んだ。
膝をついた。
「ルークさん」
肩を、揺すった。
反応がなかった。
「ルークさん、しっかりして」
もう一度、揺すった。
瞼が、動かなかった。
リリムは、震える手をルークの胸に当てた。
動いていなかった。
心臓が、動いていなかった。
「――ッ」
リリムは耳を、ルークの口元に近づけた。
息が、なかった。
「ルークさん!」
叫んだ。
声が、森に響いた。
誰も答えなかった。フェンリルが、低く唸った。それだけだった。
リリムは、ルークの体を揺すり続けた。
「起きて。ねえ、起きてください」
声が、震えていた。
「あなたが助けてくれたから。私は、まだ生きているんです。だから、あなたも」
言葉が、続かなかった。
喉が、詰まった。
リリムは、目を閉じた。
考えろと、自分に言い聞かせた。
パニックになっている場合ではない。何か、方法があるはずだ。
頭の中を探った。
三十四人分の記憶が、まだ体の中に残っていた。彼らの生と死の記憶。そして、その奥にある、もっと古いもの。
禁書で読んだ知識。闇の魔法体系の、深い深い底にある知識。
蘇生の術は、闇には存在しない。
それは、はっきりとしていた。蘇生の術は、光の系統に属するものだ。ミモザが使っていた、治癒の呪文がそれだった。リリムの持つ力は、その対極にある。
しかし。
一つだけ、あった。
完全な蘇生ではない。しかし何もしないよりは、可能性がある。
迷っている、時間はなかった。
魂は死の直後、しばらく肉体に留まる。しかしその時間は短い。すでにルークの魂は、肉体を離れかけているかもしれない。
リリムは、両手をルークの胸の上に置いた。
目を閉じた。
詠唱を始めた。
---
長い詠唱だった。
言葉が、口からこぼれ落ちていった。禁書の底に眠っていた古い言語だった。意味を、完全には理解していなかった。それでも、唱え続けた。
魔力が、流れ出していった。
三十四人分の力を使い果たしたはずの体から、何かが絞り出されていった。魂の欠片を、命の残り火を、根こそぎ引き出すような感覚だった。
体が悲鳴を上げていた。
それでも、止めなかった。
止めるという選択肢が、なかった。
詠唱が進んでいった。ルークの胸の上で、リリムの手が、震え続けていた。額から、汗が流れ落ちた。目の奥が熱かった。
時間がどれほど経ったか、わからなかった。
詠唱の最後の一節に、辿り着いた。
リリムは、目を開けた。
願った。
どうか。
どうか、間に合って。
---
光が、灯った。
ルークの体の周りに、淡い光が生まれた。
リリムの心臓が、跳ねた。
しかしその光は、リリムが望んだ形にはならなかった。
肉体に戻ろうとする光ではなかった。
肉体から離れようとする光だった。
ルークの魂が、体からゆっくりと浮かび上がっていった。
「――そんな」
リリムは、声を失った。
術は、失敗していた。
いや、正確には成功していた。ただ、意図した通りの結果ではなかった。リリムが呼び起こしたのは、蘇生の力ではなかった。生者を死者から呼び戻す力は、彼女の中にはなかった。
呼び起こせたのは、魂をこの場に、もう少しだけ留める力だった。
浮かび上がったルークの魂が、リリムを見た。
その輪郭は透けていた。確かにルークだった。あの真面目そうな目をした顔が、そこにあった。
「ルーク、さん」
リリムは、手を伸ばした。
触れられなかった。
ルークの魂は、答えなかった。ただ、リリムを見ていた。穏やかな目だった。恨んでいなかった。悲しんでもいなかった。
その魂が、リリムの方へ、静かに近づいてきた。
リリムには、わかった。
この魂が、何を望んでいるのか。
吸収されることを、望んでいる。
村人たちと同じように。三十四人が、そうであったように。この魂も、リリムの中で、救われることを選ぼうとしていた。
「駄目です」
リリムは、言った。
声が震えていた。
「駄目。あなたは、まだ死んじゃいけない。私を助けてくれた。私と一緒に、フェンリルに会って、木の実を食べて。まだ、あなたには」
ルークの魂が、微笑んだ気がした。
その微笑みに、言葉はなかった。
ただ静かに、近づいてきた。
リリムの両手が、震えていた。
拒みたかった。この魂を、吸収したくなかった。それだけは、したくなかった。しかし他に、方法がなかった。このまま何もしなければ、ルークの魂は、成仏することも、留まることもできず、消えてしまう。
村人たちと同じ選択が、目の前にあった。
リリムは、涙を流していた。
いつから流れていたのか、わからなかった。頬を伝って、地面に落ちていた。
ルークの魂が、リリムのすぐ前まで来ていた。
「ルークさん」
リリムはもう一度、その名前を呼んだ。
答えは、なかった。
ただ温かい光が静かに、リリムの手のひらに触れようとしていた。
つづく…
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