第65話 光と闇の交錯
捕まるわけにはいかない。
リリムは、そう思った。
捕まれば、何をされるかわからない。エレナという最高司祭が、自分の能力を調べたがっている。ガレスの部下が言っていた。調べられるということが、どういうことなのか、想像するだけで背筋が冷えた。
でも、逃げ切れない。
この男からは、逃げ切れない。フェンリルですら敗れた。あの規格外の巨獣が、地に伏した。
なら。
戦うしかない。
リリムは、両手に魔力を集めた。村人の魂の魔力が、体の内側で応えるように動いた。
アステルが、歩いてきた。
迷いのない足取りだった。剣はまだ鞘に収まっていた。しかしその歩みには、既に結末が決まっているかのような確信があった。
その間に、ルークが割って入った。
「待ってください、アステル支部長」
両腕を広げて、リリムの前に立った。
「リリムさんは、悪い人ではありません」
アステルの足が、止まった。
蒼銀の瞳が、ルークを見た。
感情のない目だった。
「あなたは」
アステルは言った。
「ガレス殿の部下ですね」
「はい。リリムさんは、村を滅ぼしていません。彼女は――」
鮮血が、舞った。
リリムには、何が起きたかわからなかった。ルークの言葉が、途中で止まった。次の瞬間、ルークの体が崩れ落ちた。
「――ッ」
ルークの口から、血が溢れた。腹部から、大量の血が流れ出していた。地面が、みるみるうちに赤く染まった。
「ルークさん――!」
リリムは叫んだ。
声にならない叫びだった。ルークの傍に駆け寄ろうとした。しかし足が、止まった。目の前で、アステルが剣を鞘に戻していた。
いつ抜いたのか。
いつ、斬ったのか。
見えなかった。斬られたルーク自身にすら、見えていなかった。
アステルの動きに、乱れがなかった。剣を収める仕草は、先ほどと何一つ変わらなかった。まるで日常の一動作のように、剣を鞘へと戻していた。
リリムはルークに駆け寄った。
膝をついた。ルークの体を抱き起こした。血がリリムの手を、ローブを染めていった。
「ルークさん、しっかりして」
ルークの目が、うっすらと開いた。
「……リリム、さん」
「喋らないで。喋らなくていいから」
傷口が深かった。腹部を斜めに、一太刀で切り裂かれていた。臓器に届いているかもしれない。血が止まらなかった。リリムの手が、震えた。
(なんてことを)
頭の中で声がした。自分の声だった。
(仲間を斬った。傷口が深い。早く治療しないと)
しかしリリムには、回復の魔法がなかった。ヴァレリアの回復薬は、もう使い切っていた。ミモザからもらった小袋の中身も、廃屋で使ってしまった。
「なぜ」
リリムは顔を上げた。
アステルを、睨みつけた。
「なぜ、味方を斬ったんですか」
声が震えていた。怒りだった。今まで感じたことのない種類の怒りだった。
アステルは、リリムを見た。
感情のない目だった。
「光が、闇に触れることは、許されません」
静かな声だった。
「僅かなほころびが、やがて大きくなります。彼はあなたを庇いました。それは、光の陣営における、小さな綻びです。放置すれば、いずれ取り返しのつかない亀裂になります」
「だから、斬ったんですか」
「はい」
迷いのない答えだった。
「殺してはいません。今の傷であれば、迅速な治療があれば助かります」
リリムの中で、何かが音を立てて弾けた。
リリムはルークをそっと、地面に横たえた。
漆黒のローブを脱ぎ、傷口に押し当てた。血を止めるためだった。完璧ではない。それでも、何もしないよりはましだった。
「フェンリル」
リリムは、地に伏したままの巨獣に呼びかけた。
「ルークさんを、守ってください。お願いします」
フェンリルの四つの目が、リリムを見た。
答えるように、低く唸った。傷ついた巨体を、ルークの傍に寄せた。
リリムは、立ち上がった。
アステルを、見た。
「あなたを、倒します」
声は震えていなかった。
「勝てると、思わないほうがよろしいかと」
アステルが言った。挑発ではなかった。ただの事実として、告げていた。
リリムは両手に、魔力を集中させた。三十四人分の魂の力が、体の隅々まで満ちていった。今まで感じたことのない密度だった。
「奈落の嵐」
闇の渦が、リリムの周囲に生まれた。地面を抉り、木々を薙ぎ倒しながら、アステルへと向かった。
アステルは、動かなかった。
剣が鞘から離れた。
見えなかった。
闇の渦が、真っ二つに斬り裂かれた。
リリムは驚かなかった。予想していた。この程度で終わるとは、最初から思っていなかった。
「奈落煉獄波」
続けて、地面から紫黒の炎が噴き上がった。アステルの足元を包み込んだ。
白い光が、瞬時にそれを打ち消した。
「白界」
アステルの声が響いた。周囲一帯が光の膜に覆われた。リリムの闇魔法の威力が、明確に弱まった。
それでも、リリムは止まらなかった。
「心臓の影縛り」
影の鎖を、アステルの足元から放った。
アステルは避けなかった。
鎖が届く前に、剣が一閃した。鎖が、両断された。
リリムは、次々と魔法を放った。冥界の影縛り。絶望の黒翼。影の刃。一つひとつが、渾身の魔法だった。三十四人分の力を込めた、今のリリムが出せる最大の攻撃だった。
アステルは、それら全てに対応した。
回避、斬り、あるいは白界で弱め、時には正面から受け止めた。一撃たりとも、致命傷にならなかった。しかし一撃たりとも、無傷というわけでもなかった。
白銀の鎧に、薄く傷が入った。
頬に一筋、切れた線ができた。
「……あなたの魔力は」
アステルが初めて、言葉に間を置いた。
「規格外です。フェンリルに匹敵する、あるいはそれ以上」
(やはり、強い)
リリムは、両手を構えた。
「しかし、負けを認めるべき時が来ます」
アステルの姿が、消えた。
目の前に、いた。
剣が、振るわれた。
「闇の障壁」
寸前で、リリムは黒い壁を展開した。
衝撃が走った。障壁が砕けた。しかし完全に砕ける前に、一瞬の遅延が生まれた。その一瞬で、リリムは後方に跳んだ。
剣先が頬をかすめた。熱い痛みが走った。血が一筋流れた。
「速い」
リリムは、息を切らしながら言った。
二人の間に、静かな緊張が張り詰めた。アステルは静かだった。静かなまま、確実に、リリムを追い詰めていた。
リリムは三十四人の存在を、胸の中に感じた。
(負けられない)
思った。
(ルークさんを守るために。フェンリルのために。ここで、負けられない)
両手に、再び魔力を集めた。
夜の森に光と闇が、激しく交錯し始めた。
つづく…
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