第64話 白銀の執行者
森を出たガレスたちの前に、光が降りてきた。
夜空から、まっすぐに。
音もなく、風もなく、ただ光だけが降りてきた。着地の衝撃すら感じさせなかった。地面に降り立ったとき、砂埃一つ舞わなかった。
白銀の髪が、夜風に流れた。
白銀の鎧を纏った青年が、そこに立っていた。
腰まで届く長髪。雪のように白い肌。蒼銀の瞳が、切れ長の目元の中で静かに光っていた。装飾を極限まで削ぎ落とした鎧は、儀式用の礼装のようにも見えた。剣が一振り、腰に提げられていた。
誰もが、一瞬、女性かと見紛った。
しかしその立ち姿には、性別を超えた何かがあった。静けさが、そこにあった。
ガレスの顔が、変わった。
「……アステル支部長」
「ガレス殿」
声は静かだった。感情がなかった。しかし冷たさとは、違う何かがあった。
「何をしているのです」
問いだった。責めていなかった。ただ事実を確認するだけの声だった。
ガレスは背筋を正した。
「魔女リリムの捕縛を試みましたが、想定外の脅威に遭遇し、撤退を選択しました」
「想定外の脅威」
「森の奥に、規格外の魔獣がいました。全長十五メートル。魔力量は測定不能。部下を死なせるわけにはいかず、撤退を判断しました」
アステルは、しばらくガレスを見ていた。
感情の色が、その顔には出なかった。
「あなたの判断は、正しいです」
あっさりと言った。
「後は、私がやります」
ガレスの目が、わずかに見開かれた。
「支部長自ら、ですか」
「はい」
「あの魔獣は、生半可な相手ではありません」
「気をつけます」
アステルの蒼銀の瞳が、森の奥を見た。霧が漂う暗闇の向こうを、まるですでに見えているかのように。
「時代が動いています」
静かな声だった。
「その中心にいるのは、魔女リリム。何事も、早いほうがいいのです」
アステルは歩き始めた。
森の入口へと、一歩一歩、迷いなく。
ガレスは、その背中を見送った。何かを言おうとして、やめた。
三十九人の討伐隊は、誰も動かなかった。
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フェンリルは、まだそこにいた。
リリムとルークの傍で、静かに座っていた。青白い炎のたてがみが、闇の中で揺れていた。
気配が来た。
リリムはそれを、すぐに感じた。
先ほどの討伐隊とは違う質の気配だった。人数は一人だった。しかしその一人分の魔力が、討伐隊三十九人分を遥かに上回っていた。純粋な、圧倒的な光の魔力だった。
フェンリルの六つの目が、開いた。
立ち上がった。
六本の脚が、地を踏みしめた。三本の尾が、緊張したように揺れた。
「……何か、来ます」
ルークが呟いた。剣の柄に手をかけた。しかしその手が、震えていた。
霧が、動いた。
一つの人影が、霧の中から現れた。
音もなく。風もなく。まるで最初からそこにいたかのように。
白銀の髪が、暗闇の中でなお輝いていた。
アステルは、フェンリルの前で立ち止まった。
一歩も、退かなかった。
六本脚の巨獣を前にして、その足取りは変わらなかった。恐怖の色が、その顔になかった。
六つの青白い炎が、アステルを見た。
アステルも、フェンリルを見た。
しばらく、二人の――一人と一頭の視線が、静かに交わった。
「あなたが、森の主ですか」
アステルが言った。
静かな声だった。恐怖がなかった。挑発もなかった。ただ、任務として対象を確認する声だった。
フェンリルは、答えなかった。答える必要がなかった。
その代わりに、低い唸り声を上げた。地面が震えた。
リリムは、その様子を見ていた。
討伐隊三十九人は、フェンリルの姿を見た瞬間に凍りついた。ガレスは即座に撤退を判断した。それが正しい判断だった。あの巨獣の前では、それが唯一の正解だった。
しかし、この白銀の男は、違った。
恐怖という感情そのものが、その顔になかった。
「抵抗は、推奨しません」
アステルは言った。
「これより、任務を遂行します」
剣の柄に、手がかかった。
その瞬間。
姿が、消えた。
リリムには、見えなかった。
いつ剣が抜かれたのか、わからなかった。ただ、白銀の光が一閃した、その残像だけが目に焼き付いた。
フェンリルの、右前脚が、地面に落ちた。
巨獣が、咆哮した。
初めて聞く、フェンリルの声だった。今までの静けさが嘘のような、大地を割る咆哮だった。木々が揺れ、霧が吹き飛んだ。
アステルは、剣を鞘に収めた姿勢のまま、動いていなかった。
まるで、何も起きていないかのように。
「……速すぎる」
ルークが、声を絞り出した。
「見えなかった。剣を抜いたことすら、見えなかった」
フェンリルが、五本の脚で体を支えながら、後退した。青白い炎のたてがみが、荒く揺れていた。六つの目が、初めて怒りとも取れる色を宿した。
フェンリルが、闇の霧を吐いた。
周囲一帯が、黒く染まった。視界が奪われた。
「白界」
アステルの声が、静かに響いた。
白い光が、瞬時に周囲を覆った。闇の霧が、その光に触れた瞬間、薄れていった。完全には消えなかったが、闇の霧の効果が、明らかに弱まっていた。
視界が、戻った。
フェンリルは、消えていた。
いや、消えたのではなかった。影の中に潜んでいた。フェンリルの持つ影移動の能力だった。気配がどこにあるか、わからなくなった。
アステルは、動じなかった。
目を閉じた。
わずか一秒。
目を開けた。
剣がまた、鞘から離れた。
今度も、リリムには見えなかった。影の中から、フェンリルの咆哮が上がった。
右の後脚に、深い斬撃が走っていた。
「――なぜ」
ルークが震える声で言った。
「なぜ、影に潜んだ場所がわかる」
リリムには、答えがわかる気がした。
この男は、見ているのではない。感じているのでもない。ただ、そこに敵がいると、決めているだけだ。剣を振るう場所を、迷いなく選んでいる。フェンリルがどこに逃げようと、その剣先は既にそこにあった。
フェンリルが、影から出た。
全身から、青白い炎が噴き上がった。怒りの咆哮が、森全体を震わせた。地面が割れ、木々がなぎ倒された。
巨体が突進した。
残った脚で、大地を蹴った。速度が先ほどとは、比較にならなかった。冥府疾走。一瞬で数十メートルを詰める、フェンリルの奥の手だった。
アステルは動かなかった。
剣を構えた。
「断罪光」
剣先に光が集まった。
凝縮された光が、刃の形を成した。
フェンリルの突進が、目前まで迫っていた。
光が放たれた。
巨大な光の斬撃が、フェンリルの巨体を正面から捉えた。
轟音が響いた。
森全体が、白く染まった。
光が、収まった。
フェンリルが、地に伏していた。
全身に、深い傷が刻まれていた。青白い炎のたてがみが、弱々しく揺らめいていた。六つの目のうち、二つが閉じていた。
巨体が、荒く息をしていた。
立ち上がろうとした。前脚が震え、崩れた。
アステルが、歩み寄った。
剣を鞘に収めていた。フェンリルの前で、立ち止まった。
「あなたの実力、確認いたしました」
静かな声だった。
「これ以上の抵抗は、あなたにとって不利益です」
フェンリルは、答えなかった。
答える力が、残っていないのかもしれなかった。それでも、六つの目のうち残った四つが、アステルを見ていた。敵意はまだ、消えていなかった。
「リリムさん――」
ルークが、リリムの腕を掴んだ。
リリムは動けなかった。
目の前で、フェンリルが敗れていた。あの静かな威厳を持った巨獣が、地に伏していた。この森の主が、たった一人の男に。
アステルの蒼銀の瞳が、リリムを見た。
初めて視線が合った。
感情がなかった。怒りもなかった。憎しみもなかった。ただ、任務として、リリムを確認していた。
「あなたが、魔女リリムですか」
リリムは、答えられなかった。
アステルは、答えを待たなかった。
「これより、あなたの身柄を拘束いたします」
静かに、迷いなく言った。
フェンリルが、地に伏したまま、低く唸った。まだ、リリムを守ろうとしているのがわかった。しかしその体は、もう戦える状態ではなかった。
リリムは、アステルを見た。
この人には、勝てない。
直感でわかった。ガレスの討伐隊は、準備を尽くしても届かなかった。フェンリルという規格外の存在ですら、この男には及ばなかった。
人間の中にも、これほどの存在がいる。
リリムはその事実を、初めて目の前で知った。
つづく…
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