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紫の邪術師と深紅の賢者 ~落ちこぼれ妹は闇落ちし、姉に追われながら死人を従える~  作者: Nagiousen


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第63話 隊長の決断

 フェンリルが、動いた。


 ゆっくりと立ち上がり、森の奥へと向かい始めた。六本の脚が、音もなく地を踏んだ。巨体が木々の間をすり抜けていく。


 リリムはその背を見た。

 ついて来い、と言っているように思えた。


「行きましょう」


 ルークに言った。


「あの……大丈夫ですか」


「大丈夫です。たぶん」


 ルークが先ほど自分が使った言葉を返されたことに気づいて、何も言わなかった。


 二人は、フェンリルの後を追った。


---


 森の奥は、深かった。


 霧がさらに濃くなり、数メートル先が見えなくなった。しかしフェンリルの青白い炎が、霧の中で灯台のように揺れていた。その光を頼りに歩いた。


 木の根が複雑に絡まり、地面が柔らかくなり、やがて苔むした岩が増えてきた。獣の気配がした。しかしフェンリルの傍にいると、気配は遠ざかっていった。


 どれほど歩いたか。

 フェンリルが、足を止めた。


 広い場所だった。木々が大きく開け、空が見えた。夕暮れになっていた。橙色の空が、霧の上に広がっていた。


 リリムとルークも足を止めた。


 その瞬間、地面が揺れた。


---


 揺れは、森の外から来ていた。


 フェンリルの六つの目が、森の入口の方角を向いた。青白い炎が、細くなった。


 リリムも感じた。


 魔力だった。聖なる魔力だった。一人ではなかった。複数の整然とした魔力の波が、森に向かって近づいてきていた。


「……ガレス隊長だ」


 ルークが呟いた。顔が青くなっていた。


「人数が、多い」


---


 ガレス・ドーンが最初に森の縁に立ったのは、日が傾き始めた頃だった。


 騎士二十名。弓兵十名。神官五名。結界術士三名。総勢三十九名の討伐隊が、呪われた森の入口に展開していた。


「封魔杭、展開」


 ガレスは静かに命令した。


 結界術士たちが動いた。腰に提げていた銀色の杭を取り出し、地面に打ち込んでいく。等間隔に、計算された位置に。杭と杭の間に光の線が走り、やがて巨大な魔法陣が形成されていった。


「神官、聖域結界を展開せよ」


「はっ」


 五人の神官が円を描くように立ち、詠唱を始めた。白い光が地面から滲み出し、半径百メートルの領域を覆っていく。


 聖域結界。闇魔法を弱める、教会が長年の研究で編み出した対闇術師用の結界だ。この中では、闇の魔力が三割から四割減衰する。


「弓兵は五芒星の頂点に配置。聖銀の矢を番えろ。殺傷は不要だ。捕縛を最優先とする」


 騎士一人が言った。


「相手は南支部を壊滅させた魔女です。本当に捕縛で」


「最高司祭エレナ様の指示だ」


 ガレスは遮った。


「リリムを生け捕りにせよ、とのことだ。理由は聞いていない。命令に従え」


「……はっ」


「騎士隊は四人一組で散開。一か所に固まるな。闇魔法が来たら即座に散れ。南支部の報告を読んだな。あの魔法の射程と威力はわかっているはずだ」


 全員が頷いた。


 ガレスは森の入口を見た。霧が漂っていた。昼間でも薄暗い森が、夕暮れの中でさらに黒く見えた。


 ルークのことは、考えないようにした。考えると、判断が鈍る。


「森に入る。警戒を怠るな」


---


 討伐隊が森に入ってきた。


 リリムはフェンリルの傍に立ったまま、その気配が近づいてくるのを感じていた。


 魔力を感じた。聖域結界だ、すぐにわかった。自分の中の魔力が、わずかに圧迫される感覚があった。村人の魂から変換した魔力があっても、この圧迫感は無視できなかった。


「リリムさん」


 ルークが横に立った。顔が緊張していた。しかし逃げようとはしなかった。


「俺がガレス隊長と、話をします」


「話して、聞いてもらえると思いますか」


「……正直、今回は難しいかもしれません」


 正直な答えだった。


「でも、やってみます」


 リリムはルークを見た。


 この人は毎回こうだと、リリムは思った。難しいとわかっていて、やってみると言う。


 木々の向こうに、光が見えた。


 聖域結界の白い光だった。それが、じわじわと広がってくる。封魔杭の魔法陣が、地面を這うように近づいてくる。


 やがて、木々の間から人影が現れた。


 先頭にガレスがいた。傷跡のある顎。厳しい目。しかしその目は冷静だった。感情ではなく、戦術眼で動いている目だった。


 ガレスはリリムを見た。次にルークを見た。一瞬だけ、何かが揺れた。すぐに消えた。


「ルーク」


 ガレスが言った。


「隊長」


「頭は冷えたか」


「……冷えていません」


「そうか」


 ガレスは視線をリリムに戻した。


「魔女リリム。最高司祭エレナ・ソーレン様の命により、汝を身柄拘束する。抵抗はするな」


 静かな声だった。怒鳴らなかった。それが余計に、本気であることを伝えていた。


「弓兵、構え」


 十本の弓が一斉に上がった。聖銀の矢が、リリムへ向いた。


「結界術士、封魔杭の起動を」


 構えた聖杖が、一斉に輝き始めた。光の線が網の目のように広がり、リリムの足元を囲んでいく。飛行魔法が封じられる。大規模魔法が使えなくなる。


 リリムは魔力を、手に集めようとした。


 圧迫感が増した。聖域結界と封魔杭が重なり、魔力が思うように集まらなかった。


(よく準備した)


 リリムは思った。


 これだけの対策を、これだけ短時間で。ガレスという人間の有能さが、嫌というほど伝わってきた。


「神官、聖銀の鎖を」


 神官の一人が前に出た。光る鎖を手に持ち、リリムへと近づいてきた。闇魔力に反応して締まる拘束具だった。


 リリムは動けなかった。


 魔力は圧迫されている。封魔杭で移動魔法は封じられている。弓兵の矢が向いている。


 ルークが前に出た。


「隊長、待ってください」


「どけ、ルーク」


「この人は――」


「どけと言っている」


 ガレスの声に、初めて感情が滲んだ。


「次に前に出たら、お前を縛る。それでもいいのか」


 ルークの足が、止まった。


 神官の手が、鎖を広げた。リリムへと、手が伸びた。


 その瞬間。

 地面が、揺れた。


 揺れではなかった。

 鼓動だった。


 大地そのものが脈打つような、低い振動だった。一度、二度。三度目で、木々が揺れた。霧が動いた。鳥が――この森にいないはずの鳥が、どこかで羽ばたく音がした。


「何だ」


 誰かが言った。


 木々が、左右に倒れた。


 音がした。巨大な何かが地を踏む音が、一歩ごとに響いた。地面が沈んだ。落ち葉が跳ねた。霧が割れた。


 それが、現れた。


 十五メートルの黒い巨体が、木々の間から姿を見せた。

 六本の脚。三本の尾。漆黒の毛皮。青白い炎のたてがみ。そして六つの目。全て、青白い炎を宿していた。


 静寂が落ちた。


 誰も、動かなかった。


「な……」


 誰かが声を出した。それだけだった。続きが出てこなかった。


「魔物……!」


「こんな個体が、この森にいたのか」


「大きすぎる」


 神官の一人が、手に持った魔力測定の器具を見た。顔が白くなった。


「ガレス隊長……魔力量が、測定限界を超えています」


 ガレスは動かなかった。

 フェンリルを、見ていた。その目が、戦術眼から別の何かに変わっていた。


 フェンリルが、歩いた。


 ゆっくりと。六本の脚が、静かに地を踏んだ。神官の前を通り過ぎ、騎士たちの視線を受けながら、まっすぐに歩いた。


 リリムの前に、立った。

 背を向けて、立った。

 リリムを守るように。

 ガレスたちと、リリムの間に。


 沈黙があった。


「魔物が……」


 誰かが呟いた。


「魔女を守っている?」


「従魔か?」


 ざわめきが広がった。


 ガレスは黙っていた。


 フェンリルは動かなかった。威嚇しなかった。咆哮しなかった。六つの青白い炎の目が、ガレスたちを静かに見ていた。


 その静けさが、恐怖だった。


 吠えない。動かない。ただ、そこにいる。それだけで、三十九人の討伐隊が凍りついていた。封魔杭の光が揺れていた。神官の詠唱が、途切れかけていた。


 ガレスは、フェンリルの目を見た。

 六つの炎が、自分を見ていた。


 ガレスは長年、戦場にいた。強い敵を何度も見てきた。上位悪魔も見たことがあった。しかしこの目は、違った。


 怒りがなかった。敵意がなかった。


 ただ、測られていた。

 この隊を率いる者として。この場の決断を下す者として。自分が測られていた。


 ガレスは三十九人の顔を、素早く見渡した。


 弓兵の手が震えていた。神官の詠唱が乱れていた。騎士たちの足が、半歩後ろに引いていた。全員が、命令を待っていた。


 ガレスは決断した。


「引け」


 静かに言った。


「……隊長?」


「引くと言っている」


「しかし魔女が」


「今は引け」


 ガレスの声は低かった。しかし全員に届いた。


「このままここで戦うことが、正しいとは判断できない。部下を無駄に死なせる気はない。引け」


 誰も反論しなかった。


 騎士たちが、じりじりと後退し始めた。神官が結界を収め始めた。弓兵が矢を下ろした。


 ガレスは最後まで、フェンリルから目を逸らさなかった。


 フェンリルは動かなかった。


 ガレスは、最後に視線をルークへ向けた。一秒だけ。


 それから、背を向けた。


「全員、森を出る」


---


 足音が遠ざかっていった。

 封魔杭の光が消えた。聖域結界が霧散した。白い光が消え、森の暗さが戻ってきた。

 やがて、何も聞こえなくなった。


 ルークが、大きく息を吐いた。


「……生きている」


「生きていますね」


 リリムは言った。


 フェンリルが振り返った。六つの目がリリムを見た。青白い炎が、ゆっくりと瞬いた。

 まるで、当然だと言っているようだった。


 ルークがフェンリルを見上げた。


「あの……ありがとうございます」


 巨獣に向かって、頭を下げた。


 フェンリルは答えなかった。

 ただ三本の尾の一本が、ゆっくりとルークの頭の上を通り過ぎた。


「今、撫でられましたか?俺」


「そう見えましたけど」


「魔獣に撫でられた人間、俺が初めてじゃないですかね」


 リリムは少し、口元が動いた。


 夜が、来ていた。

 霧の上に星が出ていた。フェンリルの青白い炎が、暗い森の中で静かに揺れていた。



つづく---



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