第62話 冥獣王、跪く
救助隊が来る前に、動かなければならなかった。
ルークがそう言った。街に戻ったガレス隊長が報告すれば、すぐに人が来る。リリムがここにいれば、また剣を向けられる。次は自分が止められるとは限らない。
「どこへ行くんですか」
リリムが聞いた。
「呪われた森です」
ルークは村の北を指した。丘の向こうに、黒々とした木々の群れが見えた。昼間でも薄暗く、霧が絶えず漂っている。
「呪われた森って」
「人が近づかない場所です。だから安全です」
「なぜ人が、近づかないんですか」
「……色々と、出るらしいです」
リリムはその森を見た。遠目にも、ただの森ではないことが分かった。木々の輪郭が、どこか歪んで見えた。霧の色が、普通の霧より青みがかっていた。
「大丈夫ですか、そこ」
「リリムさんの魔力があれば、たいていのものは寄ってきません」
「寄ってきませんじゃなくて、たいていのものって、言いましたよね、今」
「細かいことは気にせずに」
ルークは歩き始めた。
リリムは深紅のローブを胸に抱えて、その後を追った。
森の中は、静かだった。
静かすぎた。
鳥の声がなかった。虫の音もなかった。風が木々を揺らす音だけがあり、それ以外は何もなかった。霧が低く漂い、足元が見えにくかった。木の根が地面を這い、踏み外すと転びそうになった。
「本当に大丈夫ですか、ここ」
「大丈夫です。たぶん」
「たぶんって」
「リリムさんがいれば、大丈夫です」
リリムはため息をついた。
しかし、ルークの言葉は正しかった。森の奥から、時折何かの気配がした。枝の間に光る目が、見えることもあった。しかしそれらは、近づいてこなかった。リリムの魔力を感じ取っているのか、一定の距離を保ったまま、遠ざかっていった。
しばらく歩くと、小さな泉があった。
木々が開け、空が覗いていた。泉の水は澄んでいた。霧の中でも、水の底まで見えた。傍に背の高い木が一本あり、その枝に赤い実がなっていた。
「ここで休みましょう」
ルークが言った。
木の実は、思ったより甘かった。
ルークが枝から採ってきた赤い実を、リリムは恐る恐る口に入れた。酸味と甘みが混ざった、不思議な味だった。
「おいしい」
思わず言った。
「でしょう。訓練でこの辺りを歩いたとき、見つけたんです」
「呪われた森に入ったことが、あるんですか」
「訓練で迷い込んで。怖くて走って出ました」
「さっき大丈夫だって、言っていましたよね」
「リリムさんがいればと、言いました」
リリムは何も言わなかった。
二つ目の実を口に入れながら、泉を見た。水面が、霧の向こうの空を映していた。
喉が渇いていた。リリムは泉に近づいた。手で水をすくって飲んだ。冷たかった。体の芯まで冷えるような、澄んだ水だった。
「水浴びしても、いいですよ」
ルークが言った。
「俺は、向こうを向いています」
リリムはルークを見た。ルークはもう木の方を向いていた。後頭部だけが見えていた。
リリムは泉を見た。
全身が汚れていた。廃屋での戦闘から、グラウガとの戦闘から、一度も体を拭いていなかった。血と泥と灰が、肌に染みついていた。
深紅のローブを、木の根の上に丁寧に置いた。
水に入った。
冷たかった。しかし気持ちよかった。汚れが剥がれていく感触があった。紫の髪を水に浸した。体を洗った。しばらく、水の中にいた。
水から上がり、ローブを羽織ると、ルークが振り返った。
自分も顔と手を洗ってから、木の根に腰を下ろした。二人は並んで、泉を見ていた。
しばらく、何も言わなかった。
霧が漂っていた。木々が静かに揺れていた。
「ルークさんは」
リリムが言った。
「暁の剣に、戻らないんですか」
「……今は、戻れないです」
「なぜ」
ルークは少し間を置いた。
「リリムさんを置いて行けなかった。一人で行かせていいのかと思ったら、足が動きませんでした」
「私のことは、いいんです」
「よくないです」
あっさりと言った。
「行く宛がないと言っていましたよね。一人で荒野を歩いていたと。それでいいわけないじゃないですか」
「ルークさんには、関係ない話です」
「関係あります」
「なぜ」
「俺が、そう思っているからです」
リリムは返せなかった。
この人はどこまでも正直だ、とリリムは思った。理屈ではなく、自分がそう感じるからそうする。それだけで動ける人間なのだと、分かった。
「ガレス隊長に、叱られますよ」
「叱られます。でも隊長は分かってくれます、きっと」
「さっき、反逆者とみなして斬ると、言っていましたよね」
「言っていましたね」
「それでも、分かってくれる?」
「分かってくれます。あの人は怖い顔をしていますが、本当は人情家なんです」
リリムはルークの横顔を見た。本当にそう信じている顔だった。
胸の中で、何かが緩んだ。
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どれほど時間が経ったか。
霧が、濃くなっていた。
泉の向こう、木々の奥が、白く煙っていた。
気配があった。
リリムが先に感じた。魔力の反応ではなかった。もっと原始的な何かだった。体の奥が、警告を発していた。大きいと思った。とても大きい。
霧の中で、何かが動いた。
木々が揺れた。しかし風ではなかった。地面が微かに震えた。
ルークが立ち上がった。剣の柄に手をかけた。
霧が割れた。
大きかった。
全長十五メートルはあった。六本の脚が、大地を踏みしめるたびに地面が沈んだ。三本の尾が、霧の中でゆっくりと揺れていた。
狼だった。
全身が黒かった。漆黒の毛皮が、霧の中でなお暗かった。たてがみのように盛り上がった首元から、青白い炎が揺らめいていた。目が六つあった。三対の目が、全て青白い炎を宿していた。
冥獣王フェンリル。
その名を、リリムは知らなかった。しかし見た瞬間、それが何であるかを、体が理解した。
「リリムさん、下がって」
ルークが剣を抜いた。リリムの前に出た。
フェンリルの六つの目が、ルークを素通りした。
リリムを、見た。
「待って」
リリムは、ルークの腕を掴んだ。
「待ってください」
「でも」
「待って」
リリムはルークを引き留めたまま、フェンリルを見た。
フェンリルは動いていなかった。六つの目がリリムを見ていた。青白い炎が揺れていた。しかし、牙を見せていなかった。威嚇していなかった。ただ、見ていた。
フェンリルが、動いた。
ゆっくりと、一歩踏み出した。また一歩。六本の脚が静かに地を踏み、巨体が泉の傍まで来た。
リリムは動けなかった。逃げようとも思わなかった。
フェンリルの頭が、下がってきた。
鼻先が、リリムの眼前に来た。
匂いを、嗅いだ。
一度。二度。ゆっくりと、確かめるように。
それから。
頭を、下げた。
あの巨大な頭が、地面すれすれまで下がった。六本の脚が折れ、フェンリルはリリムの前にひれ伏した。
リリムは息を呑んだ。
その瞬間、胸の奥から声がした。声ではなかった。感覚だった。古い記憶が、流れ込んでくるような感覚だった。
言葉ではなかった。しかし意味として、はっきりと伝わった。
――魂を救う者に、冥獣は牙を向けない。
リリムは、フェンリルを見た。
六つの青白い炎が、静かに揺れていた。三本の尾が、ゆっくりと動いていた。敵意がなかった。怒りがなかった。
この森は、呪われた場所なのかもしれない。
しかし同時に、この巨獣が守っている場所でもあった。魂を守る獣が、主として君臨している場所だった。そしてその獣が今、リリムの前にひれ伏していた。
三十四人の魂を、胸に宿したリリムの前に。
「……すごい」
ルークが、呆然と呟いた。剣を持ったまま、口が半開きになっていた。
リリムはゆっくりと、手を伸ばした。
フェンリルの鼻先に、指先が触れた。
冷たかった。しかし、氷のような冷たさではなかった。夜の空気のような、静かな冷たさだった。
フェンリルは動かなかった。
ただ、青白い炎の目が、静かに閉じた。
つづく---
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