第58話 響き合う魂
グラウガが、動いた。
巨体が地を蹴った瞬間、空気が変わった。風ではなかった。圧力だった。五トンを超える質量が速度を持つと、これほどの圧になるのかと、リリムは思う間もなかった。
跳んだ。
真横に跳び、グラウガの突進をかわした。爪が石畳をえぐった。村の広場の石が砕け、粉塵が舞い上がった。
「闇の刃」
右手に魔力を集め、黒い刃を形成して放つ。グラウガの側面に命中した。しかし弾かれた。
魂鎧。
体表を覆う無数の魂が、盾となって攻撃を弾いていた。通常の攻撃では傷がつかない。分かっていたが、こうして目の当たりにすると、その堅固さが骨身に染みた。
グラウガが振り返った。
青白い炎の目が、リリムを見た。
リリムは目を逸らした。あの目を正面から見てはいけない。精神を侵食される。それだけは分かっていた。
グラウガが、大口を開けた。
音が来た。
今度は、先ほどとは比べ物にならない規模だった。
魂咆哮。
耳ではなく、魂に直接届く振動だった。リリムの体が、内側から揺さぶられた。足が、動かなくなった。視界が歪んだ。
そして、引きずり込まれた。
白い空間だった。
地面がなかった。空もなかった。ただ白い霧の中に、リリムは立っていた。いや、立っているのかも分からなかった。
最初に見えたのは、父の顔だった。
レオニスが、リリムを見ていた。失望した目だった。お前には魔法の才能がない、と言った日の顔だった。学院長の顔ではなく、父親の顔だった。それが余計に、刺さった。
次に、学院の体育館が見えた。
男子生徒たちの笑い声が聞こえた。落ちこぼれと、誰かが言った。魔法も使えないと、誰かが言った。そして暗い体育館の倉庫で、リリムは床に倒されていた。あの夜の記憶だった。忘れようとしても、忘れられなかった記憶だった。
それから、姉の顔が見えた。
アリシアが、追いかけてくる。深紅の瞳が、リリムを見ていた。妹を助けたいという顔をしていた。しかしリリムには、それが怖かった。助けられることが、怖かった。助けられてしまったら、自分が何だったのか、分からなくなる気がして。
そして。
廃屋の外が見えた。
夜だった。砂の上に、深紅のローブが落ちていた。
ヴァレリアが、消えていく瞬間だった。
漆黒の翼が白い炎に焼かれ、羽根の一枚一枚が黒煙に変わっていく。銀髪が溶けていく。深紅の瞳が、遠くなっていく。
消えた。
砂の上に、ローブだけが落ちた。
リリムは、その場に膝をついた。
白い霧の中で、膝をついた。体に力が入らなかった。立ち上がろうとしたが、足が言うことを聞かなかった。ヴァレリアの消えた場所が、頭から離れなかった。あの人は自分を助けようとしてくれた。自分を庇って、悪魔の力を使い果たして、消えた。
私のせいだ。
その考えが来た。
最初からそう思っていた。ヴァレリアが消えたのは、私がいたからだ。私が弱かったから。私に魔力がなかったから。私が傍にいなければ、あの人は今も生きていた。
立てなかった。
膝をついたまま、白い霧の中で、リリムは動けなかった。
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声が聞こえた。
低い声だった。
ゆっくりとした声だった。
「お嬢ちゃん」
リリムは顔を上げた。
老人が立っていた。白い髭。深いしわ。村長だった。先ほど、広場で最初に頷いた老人だった。
「立てるか」
リリムは答えられなかった。
老人は答えを待たなかった。隣に膝をついた。リリムと同じ高さに、しゃがみ込んだ。
「辛いなあ」
老人は言った。責めていなかった。ただ、そう言った。
「わしも辛かった。あの夜、村人たちを守れなかった。七十年かけて守ってきた村が、一夜で消えた。それを見ながら、わしは先に逝った」
老人は前を向いていた。
「でもな」
声が変わった。
「お嬢ちゃんが、来てくれた」
リリムは、老人を見た。
「誰も来ないと思っとった。あの場所に来る者などいないと思っとった。それでも来てくれた。わしらの声を聞いてくれた」
老人がリリムを見た。
「ありがとう」
その一言が、霧の中に静かに落ちた。
一人ずつ、現れた。
宿屋の女将が来た。夫と並んで立っていた。二人で頭を下げた。ありがとうと、言った。
猟師が来た。大きな手で、リリムの頭を一度だけ撫でた。何も言わなかったが、目が笑っていた。
子どもたちが来た。三人、五人、七人。リリムの周囲を取り囲んで、口々に言った。
「お姉ちゃん、すごい」
「怖くなかったの?」
「私たち、ちゃんと救われたよ」
妊婦が来た。腹をそっと抱えながら、リリムの前にしゃがみ込んだ。
「この子の名前、決めてたんです」
静かな声で言った。
「会えなかったけど。でも、あなたのおかげで一緒に行けた。ありがとう」
三十四人が、揃っていた。
白い霧の中で、三十四人がリリムを囲んでいた。
誰も責めなかった。
誰も怒っていなかった。
ただ、見ていた。感謝の顔で、見ていた。
「私は」
リリムは声を出した。声がかすれた。
「魂を、奪ったんじゃないんですか?」
老人が首を振った。
「奪われたら、こうして話せんよ」
「でも、私の力は闇で」
老人は言った。
「わしらには関係ない。あなたが来てくれた。それだけだ」
女将が言った。
「私たちは救われました」
猟師が言った。
「今度は、わしらが支える番だ」
子どもたちが言った。
「立って」
妊婦が、静かに言った。
「立ってください、リリムさん」
リリムは名前を呼ばれたことに、一瞬驚いた。吸収したとき、伝わっていたのかもしれない。お互いの記憶が、流れていたのかもしれない。
リリムは手を床についた。
膝に力を入れた。
立ち上がった。
つづく---
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