第57話 魂喰い獅子
リリムは荒野を、歩いていた。
行く宛などなかった。
ミモザからもらった回復薬が効いていた。廃屋の壁に手をつかなければ立てなかった体が、今は一人で歩けるまでに戻っていた。それでも足は重く、一歩ごとに砂が靴に入り込んだ。
深紅のローブを、腕に抱えていた。
ヴァレリアのローブだった。折りたたんで胸に抱えていた。行く宛がないなら、立ち止まればよかった。しかし立ち止まると、考えてしまう。だから歩いていた。考えないために、歩いていた。
空が白み始めていた。
夜が終わろうとしていた。
声が聞こえたのは、それからしばらくしてのことだった。
最初は風の音だと思った。荒野を渡る風が、岩の間で鳴っているのだと思った。
しかし違った。
声だった。
助けて、という声だった。一つではなかった。重なっていた。男の声、女の声、子どもの声。方向が定まらない。空気そのものが、声を含んでいるようだった。
リリムは立ち止まった。
耳を澄ませた。
声は、東の方角から来ていた。
リリムは、その方角へ歩き始めた。
村が、あった。
丘の向こうに、石造りの家々が並んでいた。小さな村だった。煙突があり、井戸があり、広場があった。朝になれば人が出てくる、そういう村だった。
しかし、煙が上がっていなかった。
人の声がしなかった。
リリムは村の入口に立った。
足が、止まった。
広場に、人が倒れていた。一人ではなかった。いたるところに、人が倒れていた。老人も、若者も、子どもも。眠るように倒れている者もいた。壁に寄りかかったまま動かない者もいた。
誰も、動いていなかった。
血の臭いが、漂っていた。
リリムは村の中を歩いた。歩きながら、顔を見た。村長らしき老人。宿屋の看板の下で倒れた夫婦。猟師の格好をした男。丸くなった子ども。膨らんだ腹を抱えたまま動かない、若い女。
全員、死んでいた。
リリムは立ち止まれなかった。立ち止まると、呼吸ができなくなりそうだった。
広場の中央まで来たとき、気がついた。
人の形をした何かが、集まってきていた。
透けていた。
光を持っていなかった。しかし輪郭があった。顔があった。目があった。その目で、リリムを見ていた。
霊だった。
死んだ村人たちの、霊だった。
一人、二人ではなかった。十人、二十人。気づけばリリムの周囲を、無数の霊が取り囲んでいた。老人も若者も子どもも。先ほど死体で見た顔が、そのまま霊になって、リリムの前に立っていた。
リリムは動けなかった。
霊たちが、一斉に手を伸ばしてきた。
「助けて」
声が重なった。
「お願い」
「ここから出して」
「家族に会いたい」
「あの子のそばにいたい」
声が、声が、声が。重なり合い、絡み合い、リリムの耳に、頭に、胸に流れ込んでくる。言葉だけではなかった。記憶が来た。宿屋の夫婦が笑い合っていた食卓。猟師が息子に、弓を教えていた午後。妊婦が腹を撫でながら、名前を考えていた夜。子どもたちが広場で、走り回っていた昼下がり。
断片が、断片が、波のように押し寄せてくる。
「……わかった」
リリムは言った。
声がかすれた。それでも、言葉は出た。
「助ける方法は、私には一つしかない」
霊たちが、静かになった。
「魂を、吸収する。それだけしかできない。痛くはない……たぶん。その先に何があるか、私にはわからない。それでも」
リリムは一息ついた。
「いいですか」
霊たちは答えなかった。
代わりに、一人が前に出た。
村長らしき老人だった。白い髭。深いしわ。生前は厳しい顔をしていたのかもしれない。しかし今その顔は、穏やかだった。
老人は頷いた。
リリムは目を閉じた。
手を、広げた。
最初に来たのは、老人だった。
温かかった。
霊が吸収されるとき、冷たいものが流れ込むものだと、リリムは思っていた。死者の魂は冷たいものだと。しかし違った。温かかった。老人の七十年分の記憶が、一瞬でリリムの中を流れた。
村を作った若い頃。妻と並んで畑を耕した日々。子どもたちが生まれ、育ち、巣立っていった時間。孫の笑顔。秋の収穫祭。それから、夜、突然始まった獣の咆哮。逃げる間もなかった。暗闇の中で、村長は村人たちの名前を一人ずつ呼んだ。
記憶が終わった。
老人の霊が、光になった。
ありがとう、という声がした。
光が、消えた。
次に来たのは、宿屋の女将だった。
夫と二人で切り盛りしてきた宿屋。旅人が来るたびに食事を作った。夫の笑い声が好きだった。口には出せなかったけれど。
これで会える。
光になって、消えた。
猟師の男は、息子のことを考えていた。
街に出て行った息子に、まだ謝れていなかった。あの夜、怒鳴りすぎた。ずっと引っかかっていた。息子に届くといい、と思いながら光になった。
子どもたちは、怖かったと言った。
でも今は怖くないと言った。
お母さんのところに行けると言って、光になった。
妊婦の霊は、最後まで腹を抱えていた。
リリムはその魂を受け取るとき、一瞬躊躇った。
腹の中にいた命のことを、考えた。
妊婦の霊が、リリムの目を見た。
大丈夫という声がした。
二つの魂が、同時に光になった。
光が、二つ、消えた。
魂を吸収するたびに、リリムの中で何かが満ちていった。
魔力ではなかった。いや、魔力でもあったが、それだけではなかった。人の一生が、次々と流れ込んでくる。笑った記憶。泣いた記憶。怒った夜。誰かを愛した瞬間。後悔。感謝。それらが全部、リリムの中に入ってきた。
リリムは泣いていなかった。
泣く余裕がなかった。ただ手を広げたまま、一人ずつ、受け取り続けた。
三十四人目の魂が、光になって消えたとき。
広場が静かになった。
リリムは目を開けた。
霊は、いなかった。
代わりに、リリムの体の中から、何かが溢れ出しそうになっていた。
魔力だった。
今まで感じたことがない量の魔力だった。底をついていたはずの魔力が、三十四人分の魂を受け取ることで、一気に膨れ上がっていた。体の内側から押し広げられるような圧力。指先まで、魔力が満ちていた。
これが、三十四人の人生の重さか。
リリムはそう思った。
思った瞬間、地面が揺れた。
音が来た。
音ではなかった。それは音の形をした何かだった。耳ではなく、魂に直接響く振動だった。聞いた瞬間、胸の中に何かが広がった。恐怖だった。ただの恐怖ではなかった。後悔が来た。後ろめたさが来た。学院で男子生徒たちに囲まれたあの日が、蘇った。父の失望した目が蘇った。姉に追われる夢が蘇った。
魂咆哮。
本能的に、理解した。
リリムは顔を上げた。
村の外れに、それはいた。
大きかった。
全長十メートル近い、巨大な獅子の形をしていた。全身が黒かった。しかし近づくにつれ、それが毛皮ではないことがわかってきた。無数の何かが、うごめいていた。人の形をした何かが。
たてがみが、燃えていた。青白い炎だった。炎の中に、顔が浮かんでいた。人の顔が。口が動いていた。
「たすけて」
「いたい」
「かえりたい」
声が漏れていた。獣の口から、絶え間なく。助けを求める声が、村中に満ちていた。
目には瞳がなかった。
代わりに、青白い炎が燃えていた。
その炎がリリムを捉えた瞬間、リリムは目を逸らした。見てはいけないと思った。あの炎を正面から見たら、何かが壊れる気がした。
尻尾が動いた。
蛇のような長い尻尾の先端に、もう一つの頭があった。それが独立してリリムを見ていた。
魂喰い獅子グラウガ。
リリムの中の古代の記憶が、そう告げる。
リリムは、ゆっくりと息を吐いた。
手の中にあった深紅のローブを、胸にきつく抱えた。
それから、地面に置いた。
丁寧に、折りたたんで、置いた。
体の内側で、三十四人分の魔力が揺れていた。
「来なさい」
リリムは言った。
声は震えていなかった。
グラウガが、動いた。
つづく---
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