第56話 陽光の乙女の罪
白い光が、封印石から溢れ出した。
ミモザの額まで、あと一手の距離だった。
その瞬間。
ミモザは動いた。
両手でエレナの胸を、力いっぱい押した。
音がした。
エレナが、後ろへ飛んだ。長年鍛えられた体が、しかし完全な不意打ちには抗えなかった。足が床を踏みしめる間もなかった。体が傾き、背中から倒れた。後頭部が、石の床を強く打った。
鈍い音が、部屋に響いた。
封印石が、床の上を滑った。
エレナは天井を見ていた。
何が起きたのか、分からなかった。
頭の中が白かった。後頭部に鋭い痛みがあった。それだけが、はっきりとしていた。状況の整理が、できなかった。自分が倒れているという事実が、うまく頭に入ってこなかった。
ミモザが、自分を突き飛ばした。
その事実だけが、遅れてやってきた。
ミモザが。
あの穏やかな娘が。
笑顔を崩したことがなかった、あの子が。
エレナは目を閉じた。後頭部の痛みが、じわじわと広がっていた。意識を保つことに、少しだけ力が要った。しばらく、そのままでいた。
やがて、痛みが和らいだ。
エレナはゆっくりと体を起こした。
部屋を見た。
ミモザは、いなかった。
扉が、わずかに開いていた。回廊から夜気が流れ込んでいた。それだけが、ミモザがここにいた痕跡だった。
エレナは床に座ったまま、開いた扉を見ていた。
長い間、動かなかった。
滑った封印石が、床の上で静かに光っていた。
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走っていた。
息が切れていた。足が痛かった。それでも走っていた。
教会の裏口を抜け、路地に出た。石畳が濡れていた。どこかで雨が降ったのか、水たまりが月光を反射していた。水たまりを踏んだ。冷たい水が足元に跳ねた。構わなかった。走り続けた。
頭の中が、騒がしかった。
取り返しのつかないことをした。
その言葉が、頭の中をぐるぐると回っていた。取り返しのつかないことを。取り返しのつかないことを。何度繰り返しても、実感がうまく追いついてこなかった。ただ足だけが動いていた。止まれなかった。
エレナ様を突き飛ばした。
太陽神教会の最高司祭を。
自分が何をしたのか、改めて考えると、足がすくむような感覚があった。あの場では体が動いていた。考えるより先に、手が出ていた。ミモザ自身が最も驚いていた。自分があんな行動を取るとは、思わなかった。
後頭部を打った音が、まだ耳に残っていた。
怪我をしたかもしれない。
その考えが、胸に刺さった。エレナは敵ではない。自分の師だった。ずっと教えを受けてきた人だった。その人を床に叩きつけた。取り返しがつかないというより、そもそもあってはならないことだった。
路地の角を曲がった。
大通りに出た。夜更けの街は人が少なかった。数人が振り返った。ミモザは構わず走った。神官衣が目立つのはわかっていた。それでも止まれなかった。
飛べばすぐに見つかる。
それだけはわかっていた。魔法を使えば魔力の痕跡が残る。教会の魔力感知網に引っかかる。だから走っていた。足で地面を踏んで、ただ走っていた。
もう記憶を消されるだけではすまない。
その考えが、今度は静かにやってきた。静かだったから、かえって重かった。
最高司祭への暴行。逃走。命令への複数の反抗。積み上がった罪の重さを、頭の中で数えようとして、途中でやめた。数えても意味がなかった。
きっと、存在そのものが消される。
追手は、すぐに来る。
イゼル先輩が来るかもしれない。あるいはもっと別の誰かが。教会には自分よりはるかに強い者がいる。逃げ切れるとは思っていなかった。それでも足が動いていた。
行く先が、なかった。
走りながら、ミモザはそれに気づいた。どこへ行くのか、考えていなかった。考える余裕がなかった。ただ教会から遠ざかろうとしていただけで、その先に何があるのか、何もなかった。
帰る場所がない。
頼れる人がいない。
自分が何をしたいのかも、もはやわからなかった。リリムさんを守りたかった。記憶を消されたくなかった。それは本当だった。でも今の自分には、もうリリムさんに会う資格すらないかもしれない。こんな罪を抱えたまま、あの人の前に立てるのか。
足が、わずかに遅くなった。
路地の壁に手をついた。息を整えようとした。肺が痛かった。膝が笑っていた。
行く先が、ない。
その言葉が、頭の中で静止した。
そのとき。
脳裏に、顔が浮かんだ。
紫の髪だった。
砂の上に膝をついたまま、それでも目だけは伏せなかった。深紅のローブを、腕に抱きしめていた。何も言えないまま、小さく頷いた。
リリムさんだった。
ミモザは壁から手を離した。
息を、吸った。
また、走り始めた。
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エレナは、まだ床に座っていた。
後頭部の痛みは引いていた。体を起こす力は、とうに戻っていた。それでも、立ち上がれなかった。
開いた扉を、見ていた。
回廊から夜気が流れ込んでいた。聖灯の炎が、その風に揺れた。
ミモザは、いなかった。
エレナは目を閉じた。
この三十年間。
三十年間、誰も自分に逆らわなかった。太陽神教会の最高司祭として、エレナが下した命令に、誰も異を唱えなかった。唱えようとした者がいたとしても、それは言葉の段階で終わった。実力で抗った者は、一人もいなかった。
まして、暴力など。
エレナは目を開けた。
自分の手を見た。床についた手が、わずかに震えていた。
震えている。
その事実を、頭が処理するまでに時間がかかった。自分の手が震えているのを見たのは、いつ以来だろうか。覚えていなかった。覚えていないほど、昔のことだった。
ミモザが、自分を突き飛ばした。
あのミモザが。
橙色の長髪の、金色の瞳の、いつも穏やかに笑っていた、あの娘が。一度も声を荒げたことがなかった。一度も誰かを傷つけようとしたことがなかった。教会の中で最も大人しい娘と言っていいほどの、あのミモザが。
自分を、床に叩きつけた。
エレナはゆっくりと立ち上がった。
机の前に立った。椅子を引いて座った。いつもの場所だった。いつもの姿勢だった。それなのに、何かが違った。部屋が、いつもより広く感じた。
考えなければならないことがあった。
陽光の乙女が、最高司祭に暴力を振るい、逃走した。
この事実が、外に漏れれば。
太陽神の信者がこれを知れば、教会への信頼が揺らぐ。長年かけて築いてきた権威が、ひびを入れる。最悪の場合、王女の耳に入る。アルビオン王国の王女は、教会の動向に敏感だ。政治的な介入を許すことになりかねない。
それだけは、阻止しなければならない。
口を塞がなければならない。目撃者を確認しなければならない。ミモザを追わなければならない。追手を出す前に、今夜のことを知っている者を洗い出さなければならない。やるべきことが、次々と浮かんだ。
浮かんだまま、動けなかった。
呼吸が、荒かった。
気づいたのは、思考の途中だった。自分の息が乱れていることに、考えながら気づいた。胸が速く動いていた。動悸がした。心臓が、普段の倍以上の速さで打っていた。
こんなことは、今までなかった。
エレナは机の上の水差しに手を伸ばした。杯に注いだ。飲んだ。冷たい水が喉を通った。
治まらなかった。
もう一杯、注いだ。飲んだ。
治まらなかった。
胸の動悸が、続いていた。呼吸が整わなかった。頭の中で考えようとすると、思考が滑った。ミモザの顔が浮かんだ。両手でエレナの胸を押した、あの瞬間が浮かんだ。後頭部が床を打った音が蘇った。
エレナは杯を置いた。
右手を持ち上げた。
手の甲を、口に当てた。
噛んだ。
鉄の味がした。
痛みが、鋭く走った。頭の中の騒がしさが、その一点に集約されるような感覚があった。呼吸が、止まった。止まって、それからゆっくりと戻ってきた。
動悸が、落ち着いていった。
エレナは手を下ろした。手の甲に、歯の跡が残っていた。薄く血が滲んでいた。エレナはそれを見た。しばらく、見ていた。
静かになっていた。
部屋が、静かになっていた。回廊からの夜気も、いつの間にか止んでいた。開いたままの扉の向こうに、誰もいなかった。
エレナは封印石を手に取った。床を滑ったそれを、先ほど拾い上げていた。石はまだ、淡く光っていた。
手の中で、石を握った。
ミモザを、追わなければならない。
エレナは立ち上がった。
手の甲の血を、神官衣の裾で静かに拭った。
つづく---
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