第55話 それだけは、消せない
回廊を抜け、イゼルは建物の外に出た。
夜気が、頬に触れた。
教会の石段を降りながら、イゼルは頭の中を整理しようとしていた。エレナの言葉を、もう一度たどった。甘さの芽は、早いうちに摘まなければならない。次の任務では、迷わないこと。
その通りだと思った。
思おうとした。
石段の最後の一段を降りたとき、人の気配がした。
石段を上ってくる者がいた。橙色の長髪が、夜風に揺れていた。
ミモザだった。
二人の距離が、縮まった。
ミモザはイゼルに気づいていた。足が一瞬、止まりかけた。しかし止まらなかった。そのまま、石段を上り続けた。
イゼルも、止まらなかった。
前を向いたまま、歩いた。
すれ違う、一歩手前で。
「覚悟は、できているの」
イゼルは言った。
立ち止まらなかった。振り返らなかった。ただ、すれ違いざまに、その言葉だけを置いた。
責めていなかった。問い詰めていなかった。感情がなかった。
ただ、言葉だけが、夜気の中に落ちた。
ミモザの足が、止まった。
一拍の間があった。
「はい」
ミモザは答えた。
それだけだった。
イゼルは歩き続けた。石畳の上を、均一な足音で。振り返らなかった。ミモザの顔を、見なかった。
ミモザは、また歩き始めた。石段を上り、扉へと向かった。
二人の足音が、それぞれ遠ざかっていった。
やがて、どちらの音も、聞こえなくなった。
扉を、ノックした。
「入りなさい」
エレナの声は、イゼルに向けたときと、何も変わらなかった。
ミモザは扉を開けた。
部屋は静かだった。
エレナは机の前に座っていた。手元に書類があった。ミモザが入ってきても、すぐには顔を上げなかった。書類に視線を落としたまま、ペンを走らせていた。
ミモザは部屋の中央で立ち止まった。背筋を正した。待った。
エレナがペンを置いた。
顔を上げた。銀灰色の瞳が、ミモザを捉えた。値踏みするのでも、裁くのでもなかった。ただ、見ていた。
沈黙が、しばらく続いた。
「報告は受けました」
エレナが言った。
「はい」
「イゼルの粛清を妨害した。上位の者の命令に逆らった。その認識はありますか」
「あります」
ミモザは答えた。
迷わなかった。言い訳をしなかった。事実として、認めた。
エレナの目が、わずかに細くなった。
「なぜそんなことをしたのか、聞かせなさい」
ミモザは一拍置いた。
どこから話すかを、選んでいた。
「あの邪術師は」
ミモザは言った。
「苦しんでいました」
「それが理由?」
「理由の、一つです」
エレナは何も言わなかった。続きを待っていた。
ミモザは、前を向いたまま言った。
「エレナ様。私がこの教会に来たのは、十二歳のときでした」
エレナの表情が、動かなかった。
「覚えていらっしゃいますか」
「覚えています」
短い答えだった。しかしエレナは目を逸らさなかった。
「私は十二歳のとき、闇の魔法に触れていました」
部屋が、静かになった。
ミモザは続けた。声は穏やかだった。しかし一言一言に、重さがあった。
「村に流れてきた禁書でした。読んではいけないと言われていたものを、私は読みました。面白半分でした。それだけのことでした。でも闇の力は私の中に入ってきて、私には制御できませんでした」
窓の外で、風が鳴った。
「夜中に目が覚めると、手から闇の刃が出ていました。怖かった。誰にも言えませんでした。自分が化け物になっていくような気がしました。このまま誰かを傷つけてしまうと思いました」
エレナは動かなかった。
「そのとき、声をかけてくれた人がいました」
ミモザの金色の瞳が、正面を見ていた。
「陽光の乙女でした。名前は覚えていません。でもその人は私を見て、化け物だとは言いませんでした。粛清しようともしませんでした。ただ、隣に座って、話を聞いてくれました」
机の上のエレナの手が、わずかに動いた。
「その人が、私をこの教会に連れてきてくれました。闇の力は、時間をかけて浄化されました。私は陽光の乙女になりました」
ミモザは、エレナを見た。
「私が今ここにいるのは、あの人が私を粛清しなかったからです」
沈黙が落ちた。
長い沈黙だった。エレナは組んだ手の上に視線を落とし、動かなかった。部屋の聖灯が、白い光を静かに放っていた。
やがて、エレナが口を開いた。
「それがあの邪術師と重なった、と言いたいのね」
「はい」
「あの邪術師は、あなたとは違う」
エレナの声は平坦だった。
「暁の剣の南支部を壊滅させた。死者を操った。上位悪魔と行動を共にした」
「知っています」
「それでも、同じだと言うの」
「同じではありません」
ミモザは言った。
「でも、似ています。好きで闇にいるのではない。苦しんでいる。それだけは、同じです」
エレナは答えなかった。
ミモザは続けた。
「私を救ってくれた人は、私の中に闇があると知りながら、隣に座ってくれました。その選択が、今の私を作っています。その記憶が、私の全てです」
声が、わずかに変わった。
部屋が、静まり返った。
エレナの目が、ミモザを見た。長い間見ていた瞳。何を考えているのか、わからなかった。この人の目はいつもそうだった。感情の色を、見せない。
やがてエレナが立ち上がった。
机の引き出しを開け、小さな水晶の欠片を取り出した。淡く光る、白い石だった。封印石だった。ミモザはそれを知っていた。
エレナがミモザの前に立った。
二人の目が、合った。
「あなたの言葉は聞きました」
エレナは言った。
「しかし教会の規律は、感情で曲げられない。あなたへの罰を言い渡します」
エレナはその石をミモザに見せた。
「記憶の封印。邪術師リリムに関わった、一切の記憶を消します」
ミモザの目が、石を見た。
一瞬だった。しかしその一瞬に、何かが揺れた。
「エレナ様」
ミモザが言った。声は穏やかだった。しかし、今までと違う何かが混じっていた。
「その罰だけは」
「ミモザ」
「その記憶だけは、消されるわけにはいきません」
エレナの目が、細くなった。
「理由を言いなさい」
「私が今ここにいるのは、あの記憶があるからです」
ミモザは言った。
「かつて私を救ってくれた人の記憶が。その記憶とリリムさんの記憶は、私の中で繋がっています。片方を消せば、もう片方も消える」
部屋が、静まり返った。
「リリムさんの記憶を消されることは、私が何者であるかを失うことです。エレナ様、それだけは」
エレナは答えなかった。
しばらく、二人は向き合っていた。
エレナの手が、ゆっくりと上がった。
封印石が、ミモザの額に向けられた。
白い光が、石の中から滲み出した。
ミモザは目を閉じなかった。
リリムの顔を、思い浮かべていた。砂の上に膝をついたまま、それでも目だけは伏せなかった、あの紫の瞳を。
光が、広がった。
つづく---
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