第54話 自慢の弟子
太陽神教会の回廊は、夜でも明るかった。
壁に沿って等間隔に灯された聖灯が、白い石の床を照らしていた。足音が響く。イゼルの足音だった。均一で、乱れない。しかし今夜は、その音がどこか空虚に聞こえた。
突き当たりの扉の前で、イゼルは立ち止まった。
重い木の扉だった。上部に太陽の紋章が彫られている。イゼルはその扉を、子どもの頃から何度も潜ってきた。恐れたことは一度もなかった。
今も、恐れてはいなかった。
ただ、扉の前でわずかに間を置いた。
それから、ノックした。
「入りなさい」
声が聞こえた。
部屋は広くなかった。
必要なものだけが置かれていた。執務机。椅子。壁際の書棚。窓から月光が差し込み、部屋の半分を白く染めていた。
エレナ・ソーレンは、机の前に座っていた。
五十代の女だった。白金の髪を後頭部で厳格に結い上げ、純白の神官衣を一分の乱れもなく着こなしていた。顔の造作は整っているが、表情が薄い。笑い皺がない顔だった。長年笑わなかった者の顔だった。
太陽の審判者、エレナ・ソーレン。
その目がイゼルを捉えた。銀灰色に近い、冷たい色の瞳だった。
「報告を」
挨拶はなかった。
イゼルは扉の前で立ったまま、背筋を正した。
「はい」
一拍置いて、話し始めた。
「対象、ヴァレリア。上位悪魔。悪魔変身形態を確認後、交戦。白炎の粛清により消滅を確認しました。深紅のローブが残留しています」
エレナは何も言わなかった。手元の羽根ペンが、静かに紙の上を走っていた。
「対象、リリム。闇の邪術師。魔力枯渇、体力限界の状態を廃屋内で確認。粛清を試みましたが――」
イゼルは、続けた。
「ミモザが介入しました」
ペンが、止まった。
エレナが顔を上げた。その目が、イゼルを見た。何も言わなかった。続きを待っていた。
「ミモザは邪術師を庇い、私の前に立ちました。交戦となりましたが、私はミモザを退けることをせず、その場を離れました。リリムの粛清は、未遂に終わりました」
部屋が、静かになった。
エレナはイゼルを見たまま、しばらく動かなかった。ペンを置いた。手を組んだ。
「ミモザを退けることは、できたのね」
問いではなかった。確認だった。
「はい」
「それをしなかった」
「はい」
エレナの目が、細くなった。
「理由は」
イゼルは答えようとした。
森の中でも探した答えだった。合理的な理由を並べようとして、どれもしっくりこなかった、あの答えだった。
「……わかりません」
沈黙が落ちた。
長い沈黙だった。エレナは組んだ手の上に視線を落とし、何かを考えていた。部屋の外で、風が回廊を渡る音がした。
エレナが口を開いた。
「わからない、と言ったわね」
「はい」
「イゼル」
名前を呼ばれた。それだけで、イゼルの背筋が、わずかに緊張した。エレナが名前を呼ぶとき、それは叱責の前置きだった。長年、そうだった。
「あなたを育てたのは、私よ」
エレナの声は低かった。静かだった。怒鳴らない。それがこの人の怖さだった。声を荒げないまま、言葉の一つひとつに重さを込める。
「感情は判断を曇らせる。躊躇は使命への背信である。粛清に情けは不要。それをあなたに教えたのは、この私です」
「……はい」
「それを、あなたは今夜、破った」
イゼルは答えなかった。
否定しなかった。その通りだったから。
「ミモザが邪魔をした、ではない」
エレナは続けた。
「退けることができた。それをしなかった。あなた自身がそう言った。ならば、任務の失敗はミモザのせいではない。あなたの甘さのせいです」
「……その通りです」
イゼルは言った。
声は平坦だった。感情がなかった。しかしその言葉は、言い訳を含んでいなかった。事実として、認めていた。
エレナが立ち上がった。
机の前から、ゆっくりとイゼルの方へ歩いてくる。足音がない。長年鍛えられた、気配を消す歩き方だった。その歳で現役の陽光の乙女を貫いている女の、歩き方だった。
イゼルの正面で、止まった。
二人の目が、同じ高さで合った。
エレナの銀灰色の瞳が、イゼルを見ていた。値踏みするのでも、裁くのでもなく、ただ見ていた。この目に見られると、何もかもが透けるような気がした。子どもの頃からそうだった。
「甘さの芽は、早いうちに摘まなければならない」
エレナが言った。
「それはあなたも、知っているはずね」
「はい」
「ミモザへの処分は、私が下します。あなたが心配することではない」
イゼルは、何も言わなかった。
心配、という言葉が、どこか遠く聞こえた。自分がミモザを心配しているかどうか、イゼルにはわからなかった。ただ、処分という言葉が耳に残った。
「次の任務では、迷わないこと」
エレナは言った。
「リリムは、まだ生きている。任務は終わっていない」
「……はい」
「下がりなさい」
イゼルは一礼した。踵を返した。扉へと歩いた。
「イゼル」
背中に、声がかかった。
足が、止まった。
「あなたは、私の自慢の弟子です」
振り返らなかった。
振り返る理由が、なかった。
それでも、その言葉が背中に触れた瞬間、イゼルの中で何かが、ほんのわずかに、動いた。
何が動いたのか、わからなかった。
イゼルは扉を開け、回廊へと出た。
扉が閉まる音が、静かに響いた。
つづく---
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