第53話 理解できない覚悟
森の中は、静かだった。
木々の間から月光が差し込み、地面に白い斑模様を作っていた。イゼル・ヴァルハインはその中を歩いていた。急いでいなかった。急ぐ必要がなかった。
任務は、終わった。
終わった、はずだった。
枝を踏む音が、規則正しく続いた。均一な足音。乱れない歩幅。イゼルはいつもそうだった。感情が歩き方に出ることがない。怒っていても、疲れていても、足音は変わらなかった。
今も、変わっていなかった。
変わっていないはずだった。
イゼルは立ち止まった。
木の幹に手をつくでもなく、ただ森の中で立ち止まった。月光が銀髪を照らした。切れ長の銀灰色の瞳が、何もない虚空を見ていた。
ミモザのことを、考えていた。
なぜ、あの子は逆らったのか。
それがわからなかった。
わからないこと自体が、イゼルには珍しかった。任務の遂行において、わからないことはほとんどない。対象の属性、魔力の構造、弱点、最適な処理の手順。それらは魔力感知と経験が教えてくれる。迷う必要がない。
しかしミモザの行動は、イゼルの中のどこにも当てはまらなかった。
邪術師を庇う理由が、ない。
あの紫髪の少女は闇の邪術師だ。死者を操り、闇の魔法を使い、暁の剣南支部の壊滅に関与した。処理すべき対象として、これ以上明確な案件はない。
それをミモザは、知っているはずだ。
知った上で、前に立った。
イゼルは思い返した。あのときのミモザの顔を。怯えていなかった。怒ってもいなかった。ただ、穏やかだった。穏やかなまま、両手を広げて、イゼルの前に立っていた。
理解できなかった。
同じ陽光の乙女として、同じ信仰のもとで育った者として、なぜあの選択ができるのか。
ミモザは言っていた。
「闇の力を持っていると言うだけで、全てを粛正することに、疑問を感じている。」
イゼルはその言葉を、森の中でもう一度たどった。
言葉の意味はわかった。しかし、腑に落ちなかった。
闇は闇だ。それがどんな経緯で生まれたとしても、放置すれば広がる。感染する。世界を蝕む。だから粛清する。それが使命だ。それ以外に、何があるというのか。
足元の枝を、無意識に踏んだ。
乾いた音が、森に響いた。
イゼルは歩き始めた。
太陽神教会に、報告しなければならない。
報告の内容を、頭の中で整理した。
ヴァレリア。上位悪魔。悪魔変身形態を確認、交戦の末に粛清。深紅のローブが残留。これは事実だ。報告できる。
リリム。闇の邪術師。暁の剣南支部壊滅の関与者。魔力枯渇・体力限界の状態を確認。戦闘不能に近い状況だった。
そこで、イゼルの思考が止まった。
見逃した。
その四文字が、頭の中に浮かんだ。
正確に言えば、ミモザが邪魔をした。それは事実だ。ミモザが割り込んだために、リリムへの粛清が中断された。そこまでは事実として報告できる。
しかし。
ミモザを退けることは、できた。
格の差は明らかだった。時間をかければ、ミモザを無力化してリリムに到達することは不可能ではなかった。
それをしなかった。
なぜしなかったのか。
イゼルは答えを探した。合理的な理由を探した。ミモザとの交戦で魔力を消耗した。周辺住民への被害が懸念された。対象であるリリムが逃走する可能性があった。そういった理由を、並べようとした。
どれも、しっくりこなかった。
イゼルは森の中で、また立ち止まった。
月光の中で、ミモザの顔が浮かんだ。あの穏やかな目が。傷ついても退かなかった、あの目が。
自分のやっていることが、わかっているのか?
自分が言った言葉が、自分の中に戻ってきた。
ミモザは頷いた。わかっています、先輩、と言った。
わかっていて、立っていた。
わかっていて、退かなかった。
それが何を意味するのか、イゼルにはわからなかった。
ただ、わからないという事実だけが、そこにあった。
報告の内容が、固まらなかった。
嘘の報告は、絶対に許されない。
それはイゼルの中で、最初から揺らいだことのない原則だった。太陽神教会の者として、使命に仕える者として、事実を偽ることは許されない。たとえ都合が悪くても、たとえ誰かを傷つけることになっても、報告は事実でなければならない。
ならば、正直に報告するしかない。
ミモザが介入した。ミモザがイゼルの粛清を妨害した。ミモザが、同じ教会の先輩であるイゼルに逆らった。
その事実を報告すれば、ミモザは厳しい罰を受ける。
陽光の乙女の資格を剥奪される可能性もある。それだけでは済まないかもしれない。太陽神教会において、上位の者の命令に逆らうことがどういうことか、ミモザは知っている。よく知っているはずだ。
わかっていて、ミモザは逆らった。
あの子は最初から、その覚悟があったのか。
イゼルは歩き続けた。
森の出口が見えてきた。木々の間から街の灯りが滲んでいる。教会への道は、そこから続いている。
足音は、変わらず均一だった。
ただ、歩く速度だけが、わずかに遅くなっていた。
イゼル自身は、気づいていなかった。
つづく---
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