第52話 言葉にならなくて
どれほど、そうしていただろう。
砂の上に膝をついたまま、リリムは動けなかった。声も出なかった。涙も出なかった。ただミモザの手の温かさだけが、頭の上にあった。
夜風が、砂の上のローブの端を揺らした。
深紅の布が静かに波打って、また止まった。
リリムはそのローブを見ていた。見ていると、胸の中で何かが動いた。痛みとも、悲しみとも、少し違う何かが。言葉にできない何かが、胸の奥でゆっくりと動いていた。
やがて、リリムは顔を上げた。
ミモザの金色の瞳が、すぐそこにあった。
リリムは、唇を開いた。
「……ありがとうございます、ミモザさん」
声がかすれた。それでも、言葉は出た。
「なぜ、私を助けてくれるのですか」
ミモザは答えるまでに、少し間を置いた。
急いで言葉を探しているのではなかった。最初から答えは持っていた。ただ、どこから話すかを、静かに選んでいるようだった。
ミモザはゆっくりと膝を折り、リリムと同じ目の高さにしゃがみ込んだ。頭の上にあった手が離れ、今度はリリムの両手を、そっと包んだ。
リリムの手は冷たかった。魔力が尽き、体力が尽き、血の気が引いたままの、冷たい手だった。ミモザの手は温かかった。
「あなたは」
ミモザが言った。
「好きで、闇の力を使っているのではありません」
リリムは、何も言えなかった。
「苦しんでいます。泣いています」
ミモザの金色の瞳が、真っ直ぐにリリムを見ていた。責める目ではなかった。憐れむ目でもなかった。ただ、見ていた。リリムの中にあるものを、そのまま見ていた。
「苦しんでいる者たちを救うことが、太陽神の教えです」
静かな声だった。しかし芯があった。揺れない声だった。
「イゼル様は、間違っている」
リリムは息を呑んだ。
先輩に向かって、それを言えるということが。言い切れるということが。その言葉が持つ重さを、リリムはうまく測れなかった。同じ組織の、格上の相手に向かって。戦って、傷ついて、それでも。
「私は自分に正直で、ありたいのです」
ミモザは微笑んでいた。
戦闘の後だった。革鎧は焦げ、頬の傷はまだ塞がっていない。それでも、その顔は穏やかだった。揺らいでいなかった。何かを無理に保っているのではなく、本当に、そこにある顔だった。
「ミモザさん――」
リリムの声が、途切れた。
続きが、出てこなかった。
言いたいことが、あった。あなたは正しいのかと聞きたかった。あなたみたいな人が、なぜ私なんかのために、傷つくのかと聞きたかった。私はまだ闇の中にいると、言わなければならない気がした。
でも、何も出てこなかった。
代わりに、ミモザに包まれた自分の手を見た。冷たい手が、温かい手の中にあった。
胸の中で、さっきから動いていた何かが、形を変えた。
涙ではなかった。嗚咽でもなかった。ただ、何かが、静かにほどけていくような感触だった。ずっと張り詰めていた何かが、この手の温かさに触れて、少しだけ、緩んだ。
夜風が砂の上を渡り、深紅のローブの端をまた揺らした。遠くで夜鳥が啼き、また静かになった。ミモザの温かい手が、リリムの冷たい手を包んだままだった。
ミモザが、口を開いた。
「リリムさん」
声のトーンが、わずかに変わっていた。
「私は、イゼル様に逆らいました」
リリムは顔を上げた。
ミモザの金色の瞳が、静かにリリムを見ていた。
「太陽神教会に、出頭しなければなりません」
その言葉の意味を、リリムは一拍遅れて理解した。
「えっ」
声が出た。
「ミモザさん、どうなるんですか」
問いが口をついて出た。どうなるか、なんとなくわかっていた。それでも聞かずにいられなかった。同じ組織の上位の者に逆らった。それがどういうことか、組織というものがどういうものか、リリムにはわかった。賢者の学院で、ずっとそれを見てきた。
ミモザは少しの間、リリムを見ていた。
それから、微笑んだ。
「大丈夫です」
それだけだった。
大丈夫です、という三文字だけだった。どうなるかの説明も、これからの見通しも、何もなかった。ただ微笑んで、大丈夫です、と言った。
リリムは、何も言えなかった。
大丈夫じゃないかもしれないと思った。でも、その言葉を遮ることができなかった。ミモザの微笑みが、そういう顔をしていた。心配させたくないのではなく、本当にそう思っている顔だった。
ミモザがリリムの手を、そっと離した。
立ち上がり、腰に下げていた小袋に手を伸ばした。革紐で口を縛った小さな袋だった。中で小瓶がいくつか触れ合う音がした。
ミモザはその袋を、リリムの手に載せた。
リリムは袋を受け取りながら、ミモザを見た。
「回復薬いくつかと、解毒薬も入っています」
ミモザは言った。
「傷を負ったとき、魔力が尽きたとき、使ってください」
「でも、これはミモザさんの――」
「今の私には、必要ありません」
ミモザは穏やかに遮った。
嘘ではなかった。その顔は、嘘をついていなかった。
リリムは袋を握りしめた。革の感触が、手のひらに伝わってきた。
ミモザがリリムの前にしゃがみ込んだ。さっきと同じように、同じ目の高さに来た。金色の瞳が、リリムをまっすぐに見た。
「リリムさん」
「……はい」
「どうか、ご無事で」
リリムは答えられなかった。
答えようとして、喉が閉じた。何か言わなければと思った。ありがとうとか、気をつけてとか、また会いましょうとか、何か言葉があるはずだった。でも、何も出てこなかった。
ミモザが立ち上がった。
一歩、後ろに引いた。
橙色の光が、ミモザの足元から滲み出した。飛行魔法の光だった。輝きがゆっくりと全身を包んでいく。
「ミモザさん」
リリムの口から、声が出た。
ミモザが振り返った。
何を言えばいいか、わからなかった。言いたいことが多すぎて、何も言えなかった。ありがとうございますと言いたかった。なぜ私なんかのためにと言いたかった。行かないでくださいと言いたかった。
全部が言葉にならないまま、ミモザの体が浮き上がった。
橙色の光が夜空に溶けていく。
「ミモザさん!」
リリムは叫んだ。
でも、橙色の光はもう小さくなっていた。夜空の中に、星と見紛うほどに遠くなって、それからもう、見えなくなった。
静寂が、戻ってきた。
リリムは砂の上に膝をついたまま、夜空を見上げていた。
砂の上に、深紅のローブが落ちていた。
夜風が、ローブの端を揺らした。
リリムは、ゆっくりと手を伸ばした。
砂の上に落ちたローブに、指先が触れた。
思ったより、柔らかかった。
リリムは両手でローブを拾い上げた。
砂がはらはらと落ちた。
抱きしめた。
声は出なかった。
ローブはもう温かくなかった。夜気に冷えて、砂の匂いがした。それでも、リリムはぎゅっと抱きしめた。腕の中に引き寄せて、頬をうずめた。
ヴァレリアはいなかった。
黒煙になって、夜に溶けた。もうここにはいない。
それでもリリムは、ローブを抱きしめたまま、夜の中にいた。
つづく---
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