第50話 楽しかったわよ
女は何も言わなかった。
右手を持ち上げる。
白い光が集まり始めた。
矢ではない。
もっと重い。
もっと濃い。
空気が震える。
空間そのものが、拒絶反応を起こしている。
殺すための光。
見ただけでわかった。
あれを受けたら終わる。
再生もない。
抵抗もない。
消える。
存在ごと。
リリムの顔から血の気が引いた。
「や……やめて……」
声が出ない。
足が動かない。
怖い。
身体が震える。
それでも。
助けなきゃ。
助けなきゃ。
助けなきゃ。
ヴァレリアさんが死ぬ。
また。
また自分は。
何もできないのか。
女の掌の中で、光が膨張していく。
白。
白。
白。
まるで太陽の欠片。
夜が昼に塗り潰され始める。
ヴァレリアが顔を上げた。
深紅の瞳が。
リリムを見る。
その瞬間。
リリムの胸が止まった。
悪魔じゃない。
あの目は。
ヴァレリアだった。
いつもの。
少し意地悪で。
少し優しくて。
面倒見のいい姉みたいな目。
ヴァレリアが、小さく笑う。
「……逃げなさい」
かすれた声。
弱々しくて。
でも、優しかった。
「嫌……!」
リリムが首を振る。
「嫌だ……!」
喉が裂けそうだった。
涙が滲む。
動け。
動け。
動けよ――!
でも。
身体が、動かない。
女の光が、完成しようとしていた。
あと数秒。
間に合わない。
ヴァレリアが、静かに目を閉じた。
「……楽しかったわよ」
小さな声だった。
諦め。
覚悟。
それが滲んでいた。
リリムの世界が、崩れた。
嫌だ。
嫌だ。
嫌だ。
嫌だ――!!
白い光が、夜を塗り潰した。
廃屋の外、地に伏したヴァレリアへ向けて、イゼルの手の中の光塊が解き放たれる。
音はなかった。
ただ白い奔流が空間を満たし、悪魔の体を包んでいく。
聖なる光が、闇に触れる。
ヴァレリアの体が、揺らいだ。
悪魔の形態を保っていた輪郭が、ぼやけていく。
漆黒の翼が、白い炎に焼かれながら、羽根の一枚一枚が黒煙へと変わっていく。
銀髪が溶けるように広がり、深紅の瞳が遠くなっていく。
体が、煙になっていった。
黒い煙が夜気に溶け、風もないのにゆっくりと拡散し、やがて何も残らなかった。
深紅のローブだけが、砂の上に静かに落ちた。
「――ヴァレリア、さん」
リリムの声は、声になっていなかった。
音としての形をなんとか保っていたが、中身がなかった。
廃屋の崩れた壁に手をついたまま、リリムはその場所を見ていた。
砂の上に落ちたローブを。
何もなくなった、その場所を。
頭が、処理を拒否していた。
見たものを理解しようとして、理解できなかった。
ヴァレリアは消えた。
黒煙になって、夜に溶けた。
さっきまでそこにいた人が、今はいない。
ローブだけが残っている。
それだけが事実で、その事実がうまく自分の中に、入ってこない。
「ヴァレリアさん」
もう一度、呟いた。
答えはなかった。
砂の上のローブが、夜風に端を揺らした。
足音が聞こえた。
静かな、均一な足音だった。感情の起伏のない歩き方。
女が廃屋の入口へと、向き直っていた。
銀灰色の瞳が、壁に手をついたまま立っているリリムを捉えた。
次の対象を、確認する目だった。
聖槍「白炎」の穂先が、リリムへと向けられていく。
白い炎がゆらめき、夜の中で冷たく輝いた。
リリムは動けなかった。
体が動かないのではなく、動く理由が見つからなかった。
逃げる理由が、抵抗する理由が、どこかに消えてしまっていた。
頭の中がヴァレリアの消えた場所で止まっていて、目の前の槍が自分に向いている ことが、どこか遠い出来事のように感じられた。
女が、一歩踏み出した。
その瞬間。
橙色の光が、夜空から降ってきた。
光は、女とリリムの間に着地した。
橙色の長髪が、着地の衝撃で広がる。
金色の瞳がまずリリムを確認し、それから前へと向き直った。
純白の革鎧。
腰に提げた回復薬の小瓶が、かすかに鳴った。
「ミモザ……さん」
リリムの唇が、その名を形作った。
ミモザは振り返らなかった。前を向いたまま、両手を広げてリリムを庇う形で立っていた。
女の足が、止まった。
銀灰色の瞳が、新たに現れた人物を見る。
一秒。
二秒。
そして、わずかに細められた。
「……ミモザ」
女の声が、その名を呼んだ。
平坦な声だった。感情のない声だった。
しかし確かに、名前を呼んでいた。
ただの「障害物」や「処理対象」を確認するのとは、わずかに違う呼び方で。
「イゼル様」
ミモザが答えた。
声は穏やかだった。
戦場に立っているとは思えない、柔らかな声だった。
しかしその足は、地面にしっかりと根を張っていた。
リリムは、その名を聞いた。
イゼル。
この女の、名前だった。
「何のつもりだ?」
イゼルの声は変わらず平坦だった。
問いの形をしていたが、答えを期待しているふうではなかった。
確認だった。
なぜここにいるのか、という事実の確認。
「止めに来ました」
「……理由は」
「疑問を感じているからです」
ミモザは言った。
まっすぐに、イゼルを見たまま。
「闇の力を持っていると言うだけで、全てを粛正することに」
イゼルは答えなかった。
数秒の沈黙が落ちた。
廃屋の外の夜が、静まり返っていた。
「同じことを、以前も言っていたな」
イゼルが言った。
「はい」
ミモザは頷いた。
「先輩が聞いてくださらないので、こうするしかありません」
「聞く必要がないから、聞かなかった」
「わかっています」
ミモザの金色の瞳が、イゼルを見ていた。
責めているのではなかった。
責める色がなかった。
それでいて、引く気配もなかった。
「それでも、私は先輩の前に立ちます」
イゼルの指が、聖槍を握り直した。
つづく---
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