第4話 復讐
迷宮を出た時、東の空が白み始めていた。
リリムは黒いローブの裾を翻しながら、森を歩いた。体は不思議なほど軽かった。迷宮の中で何度も力を使ったにもかかわらず、疲労よりも充実感の方が大きかった。体の奥で、暗い熱が安定した流れとなって巡っている。
考えていたのは、四人のことだった。
オズマ、カイン、ユーリ、レオン。
あの倉庫で自分を傷つけた四人。今頃は何事もなかったように学院に通い、眠り、笑っているのだろう。リリムのことなど、もう考えてもいないかもしれない。
それが、どうしても許せなかった。
怒りは冷めていなかった。でも今のリリムの怒りは、あの夜の熱く乱れたものとは違う。静かで、冷たく、形が定まっていた。
(行こう)
リリムは足を向けた。学院のある方向へ。
*
夜が来るのを待った。
学院の周囲の木立に身を潜め、リリムは建物の灯りが一つずつ消えていくのを見ていた。月が雲に隠れ、辺りが暗くなった頃、リリムは動いた。
黒いローブが夜に溶け込む。禁書から得た知識の中に、気配を消す術があった。完全ではないが、注意を向けられなければ気づかれない程度には使えた。
寮の廊下を、音もなく進む。
最初の部屋の前で、リリムは立ち止まった。扉の向こうで、寝息が聞こえる。
カインの部屋だった。
リリムは手をかざし、静かに呪文を唱えた。闇の力が扉をすり抜け、部屋の中に広がる。眠っているカインの体を、闇がゆっくりと包んでいく。
カインが目を開けた。しかし声は出なかった。闇に封じられていた。
リリムは部屋に入り、カインを見下ろした。
昼間と変わらない顔だった。眠っていた時と変わらない顔だった。何かを恐れているようには見えなかった。少なくとも、今この瞬間までは。
リリムの顔を見た瞬間、カインの目が変わった。
リリムは何も言わなかった。ただ、手を差し伸べた。闇の球体が形を成し、カインを包んだ。声も出せず、体も動かせない。ただ浮いているだけの状態に。
残りの三人も、同じようにして連れ出した。
*
森の奥の、人気のない場所を選んだ。
四つの闇の球体が、月明かりの下に並んでいた。その中でオズマ、カイン、ユーリ、レオンが、それぞれ恐怖に歪んだ顔でリリムを見ていた。
「誰だよ……お前……」
レオンが震える声で言った。闇の球体は声を通す。ただし外には届かない。
リリムは答えなかった。四人の顔を、順番に見た。
オズマ。顔が青ざめ、唇が震えている。
カイン。目が血走り、球体の壁を叩こうとしている。
ユーリ。泣いていた。声を殺して、泣いていた。
レオン。まだ強がろうとしていたが、それが崩れ始めていた。
「リ……リリムか?」
オズマが呟いた。
リリムはその名前を聞いた瞬間、胸の奥で何かが固まった。覚えている。ちゃんと覚えている。忘れてなんかいなかった。
「そうよ」
リリムは静かに言った。
「自分の行いがどれだけ愚かだったか、後悔しながら死んでいきなさい。どれだけ叫んでも、誰も助けになんか来ないわよ。私の味わった絶望を、たっぷり楽しんで」
冷たく笑みを浮かべ、声を低くして告げた。
四人の顔が一気に青ざめた。
「ま、待ってくれ……俺たちは……その……ちょっと悪ふざけを……」
カインが震える声で言った。リリムの視線が鋭く彼を貫き、言葉を失わせた。
「リリム……俺たちが間違っていた……どうか許してくれ。何でもするから……」
レオンが目を逸らして言った。その声には、確かに後悔があった。
リリムはその言葉を、静かに聞いた。
後悔している。本当に後悔しているのかもしれない。でも。
(それで、何が変わる?)
あの夜の冷たい床は、消えない。あの時の痛みは、消えない。後悔の言葉がいくつあっても、なかったことにはならない。
「あれが悪ふざけだと言うの?」
リリムの声は穏やかだった。その穏やかさが、かえって四人を凍りつかせた。
「冗談でしょ」
指を鳴らした。
*
四人が息絶えた後、リリムは長い間、その場に立っていた。
風が吹いた。木々が揺れた。
胸の奥を確かめるように、リリムは自分の感情を探った。
晴れ晴れとした気持ちを期待していた。あるいは、後悔を。どちらかが来るはずだと思っていた。
しかし実際に来たのは、どちらでもなかった。
ただ、静かだった。
嵐が過ぎ去った後の空のように、ただ静かだった。
(終わった)
その言葉だけが、胸の中に残った。
四人の体から、魂が浮かんだ。青白く、はかなく揺れる光。リリムは左手をかざし、それらを一つずつ吸収した。力が満ちていく感覚があった。しかしそれを感じながらも、どこか遠い場所で、何かを失った気もした。
(何を失ったのだろう)
答えはわからなかった。
リリムはゆっくりと踵を返した。
夜明けが近づいていた。空の端が、ほんのわずかに明るくなり始めていた。
*
校舎裏に、人の気配があった。
リリムが足を止めた瞬間、雨が降り始めた。ぽつり、ぽつりと、最初は小さく、やがて本格的な雨になった。
霧のような魔力が、リリムの周囲に漂い始めた。それは自然に溢れ出すものだった。抑えようとしても、抑えきれなかった。
その魔力を、誰かが感じ取った。
足音が近づいてくる。雨の音の中で、確かに近づいてくる。
リリムは待った。逃げなかった。
霧の中から姿を現したのは、アリシアだった。
雨に濡れた銀色の髪が頬に張り付き、制服が濡れ、細い肩が震えていた。しかしその目は揺れていなかった。真っ直ぐに、リリムを見ていた。
リリムは姉の顔を見た。
あの食卓の朝に慰めてくれた顔。魔法を教えようとしてくれた顔。
そして、男子生徒たちに『制裁を加えろ』と頼んだとされる、その顔。
(信じたくない)
その気持ちは、まだあった。
でも信じない理由が、見つからなかった。
「リリム」
アリシアが呼んだ。怒鳴りもせず、泣きもしない。ただ、妹の名前をそう呼んだ。その声に、リリムの胸がざわりとした。
「近づくな」
気づいたら言っていた。自分でも驚くほど、静かな声だった。
「お姉ちゃん、私のことが嫌いだったのね」
アリシアの顔が歪んだ。
「リリム、私はあなたを嫌ったことなんて一度もないわ。いつだって、あなたが愛おしい妹だと思っていたわ」
その言葉が、リリムの胸を焼いた。
愛おしい妹。
どれだけその言葉が欲しかったか。でも今は、その言葉が刃のように痛い。
「聞き飽きたの」
リリムは言った。声が震えていた。
「お姉ちゃんのその"優しい"言葉も。ずっとずっと影で、優等生のお姉ちゃんに見下され続けた気持ちなんて、わからないでしょう?」
アリシアが一歩踏み出そうとした。リリムは手をかざして止めた。
リリムは絶望の黒翼を放ったが、光の防御にかき消された。冥界の影縛りを試みたが、白光に霧散した。アリシアの力は、想像以上だった。
「わかった、リリム。あなたの闇魔法は、私には通じないわよ」
その言葉に、リリムの表情が恐怖に染まった。邪術師として最強の力を得たと思っていた。それなのに目の前の姉は、まるで全てを見透かしているかのように揺るぎなく立っている。
アリシアが手を差し伸べた。
「リリム、まだ遅くないわ。一緒に帰りましょう」
リリムはその手を見た。細くて白い手。かつてその手に引かれて歩いた手。
でも。
「よくそんなことが言えるわね」
リリムの声が震えた。今度は隠せなかった。
「自分が何をしたのか、わかっているの? 絶対に許さない!」
アリシアの顔が揺れた。
「待って、リリム。オズマ、カイン、ユーリ、レオンの四人を知らない?」
リリムは冷たく笑みを浮かべた。
「全員殺したに決まっているでしょ。私にあれだけのことをしたのだから」
アリシアの顔に、驚愕と悲しみの色が浮かんだ。
「殺した?!リリム、彼らに何かされたの?」
「とぼけないで!」
声が割れた。闇の力が渦を巻き、雨が横殴りになった。
「お前も殺してやる!」
その言葉は、リリム自身を驚かせた。言ってしまった。言えてしまった。
リリムは黒い霧となった。その霧はゆっくりと薄れ、風に散り、消えていく。
逃げるように、消えた。
*
雨の中を、リリムは走った。
霧の体から人の体に戻り、学院の敷地を出て、森へ向かった。足が濡れた落ち葉を踏みしめ、枝が顔をかすめた。それでも止まらなかった。
走りながら、リリムは思った。
(ルミナ王国にはいられない)
四人を殺した。アリシアとも決別した。父の元には戻れない。学院には戻れない。この国にいる理由が、もうなかった。
雨が強くなった。
リリムは一度だけ、走る足を止めて振り返った。
学院の灯りが、雨の向こうに滲んでいた。小さく、遠く、それでも確かにそこにあった。
父がいる。アリシアがいる。自分が生まれて、育って、傷ついた場所がある。
「さよなら」
声にならない声で、リリムはつぶやいた。
それから、また走り出した。
振り返らなかった。
振り返らないと、決めた。
雨の中を、黒いローブが翻り、紫の髪が濡れ、リリムはただ前へ向かって走り続けた。
(次回、アリシア視点へ――)
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