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光焔の杖

 雨は止んでいた――だが、妹は消えたままだった。




 アリシアは校舎裏に一人残され、妹が消えた場所を見つめていた。黒い霧の残滓がまだそこにある気がして、手を伸ばしかけて、止めた。触れるものは、もうない。




 頬を伝うものが、雨なのか涙なのか、わからなかった。


 リリムが言った言葉が、耳の奥に残っていた。




「自分がしたことが、わかるっているの?」




 自分がしたこと。


 アリシアは考えた。四人の男子生徒に制裁を頼んだという話は、身に覚えがなかった。絶対にそんなことはしていない。だが、リリムの目は本気だった。その目に嘘はなかった。




(誰かが、リリムを騙した)




 そして、その嘘を信じるだけの土台が、すでにあった。長年かけて積み上げてきた、傷の土台が。




(私はリリムの分も頑張らなきゃと、無我夢中でやってきた。それが、リリムを苦しめていたのかもしれない)




 優秀であることが、いつの間にか妹の重荷になっていた。父の期待に応えることが、妹を追い詰めていた。自分は何も悪いことをしていないつもりで、ずっと、そこにいた。




 立ち止まるわけにはいかない、とアリシアは思った。リリムを救えるのは、今は自分だけだ。







 学院の地下への階段を、アリシアは迷わず降りた。




 湿った石の匂い。壁に沿って灯る松明の光。廊下の奥に、重厚な扉があった。二人の門番が立ち、アリシアの姿を見て目を見開いた。




「えっ、アリシア様?ど、どうされましたか、そんなお姿で?」




アリシアは濡れた髪を払い、静かに言った。




「緊急事態です。闇の魔力反応が確認されました。封印庫を開けてください」


門番たちは顔を見合わせる。




「そのような報告は受けておりません」




「では、手遅れになってから、責任を取るつもりですか?」




一歩踏み出す。視線が鋭く突き刺さる。




沈黙。




やがて一人が小さく息を吐いた。




「……開けよう」




扉が開く。


その瞬間――


二人の意識が途切れ、崩れ落ちた。




「……ごめんなさい」


 


アリシアはためらいなく地下の奥へ進んだ。


湿った空気が肌にまとわりつく。揺れる松明の影が、石壁に不気味な歪みを描いていた。




やがて、最奥。




石台の上に――それはあった。




淡い光を帯びた杖。


その周囲を、青白く光る水が静かに巡っている。




一歩踏み出した瞬間、鳥肌が立った。




(触れれば、焼かれる)




本能が警告する。




アリシアは目を閉じ、息を整えた。


「――」


低く、短い呪文。


水面が震え、光が揺らぐ。




やがて、張り詰めていた気配が、ふっとほどけた。


結界が消える。




アリシアは目を開け、迷いなく杖へと手を伸ばした。


指先が触れた瞬間――




「……っ!」




世界が、ひび割れた。


冷たい何かが、内側へ侵入してくる。


心臓を掴まれたような圧迫。呼吸が消える。


“拒絶”だった。


杖が、彼女を拒んでいる。




それでも、離さない。




「……く、っ……!」




意識が削られていく。


何かが、確実に“奪われている”。


記憶が一瞬、途切れた。


自分が誰かさえ、曖昧になる。




(それでも――)




脳裏に浮かぶのは、ただ一つ。


雨の中で見た、あの顔。




リリム。


(助けたい)




その思いだけが、かろうじて彼女を繋ぎ止める。


崩れそうになる膝を、無理やり支える。




「……離さない……!」




掠れた声。


その瞬間――


杖の奥で、何かが変わった。


圧力が、わずかに緩む。


赤い宝石が、脈打つように光を放つ。




応えるように、アリシアの瞳が燃え上がった。




拒絶が、受容へと変わる。


光が弾けた。




静寂。




荒い呼吸の中で、アリシアは立っていた。


手の中には、確かな重み。


その瞳と髪の毛は、深紅に染まっていた。




「……これでいい」




小さく、呟く。


その声に、迷いはなかった。







 地下室を出ると、廊下に父が立っていた。




「お父さん……」




 レオニスの顔には普段の冷徹さはなく、深い疲労と複雑な感情が混ざり合っていた。光焔の杖を手にしたアリシアの姿を見て、驚愕が走ったが、すぐに冷静を取り戻した。




「どういうつもりだ、アリシア?」




「リリムが闇の力に囚われているの。この杖が必要なの。行かせて、お父さん」




 レオニスはしばらく黙っていた。廊下の静寂の中、松明の炎だけが揺れた。




「私はリリムの分も頑張らなきゃと、無我夢中でやってきた。それが、リリムを傷つけていたの」




「心の傷……」




 レオニスはその言葉を、ゆっくりと噛み締めるように繰り返した。何かを思い出しているように。何かを認めるように。




「リリムに謝りたい。リリムを楽にしてやりたい。リリムを救えるのは、私だけなの。だから、お父さん……」




 レオニスは深く息をつき、長い沈黙の後、静かに口を開いた。




「光焔の杖を手にしたお前を、私の力で止めることはできない……」




「アリシア、お前は本当に……その道を選ぶ覚悟があるのか?光焔の杖は、お前の命をむしばみ、魂をも削り取る。それでもお前は、リリムのために、その道を選ぶのか?」




「はい、お父さん。私にはそれしかできない。たとえこの命が縮んでも……リリムを救うためなら、私は後悔しません」




 レオニスはしばらく立ち尽くしていた。やがてゆっくりと手を伸ばし、アリシアの肩にそっと置いた。




「アリシア、強くなったな」




 その声は、これまでアリシアが聞いたことのない柔らかさを持っていた。




「行け、アリシア。必ず、リリムを連れ戻してこい」




「はい、行って参ります」




 父の背中が廊下の奥に消えていくのを、アリシアは振り返らずに感じた。







玉座の間は、音を呑み込んだように静まり返っていた。


無数の灯火が石壁に揺れ、長い影を落とす。




その中央――玉座。


カイラス王は動かない。


ただ、視線だけがまっすぐに落ちている。




その先に、ひざまずく男がいた。


レオニス。


深く頭を垂れたまま、動かない。




やがて――




「申せ」




短い一言。




レオニスは顔を上げないまま、口を開いた。




「……娘リリムが闇に堕ち、四名の生徒が巻き込まれました」




静寂。




「アリシアが、光焔の杖を持ち、これを追っております」




わずかなざわめきが、空気の奥で揺れた。




「封印解除の術を教えたのは――私です」




完全な沈黙。


誰も動かない。


王の視線だけが、わずかに細まる。


レオニスは、そのまま額を床に落とした。




「すべては私の失策。弁明はいたしません」




一拍。




「……死罪を」




その言葉は、重く落ちた。




しばらくの間、何も起こらなかった。


灯火の揺れる音すら、聞こえそうな静けさ。




やがて王が、わずかに息を吐く。




「レオニス」




名を呼ぶ。




それだけで、場の空気が変わる。




「顔を上げよ」




レオニスはゆっくりと従った。




その目を、王は正面から受け止める。




「そなたの功を、余は知っておる」




間。




「だが――」




それ以上は続けない。


視線が、わずかに下がる。


判断は、すでに終わっていた。




「命は取らぬ」




短く。




「拘束せよ」




それだけだった。




左右に控えていた騎士が、同時に動く。




レオニスは抵抗しない。


一度だけ、深く頭を下げた。




「……御意」




立ち上がる。


そのまま、連行されていく。


足音が遠ざかり――やがて消えた。




再び、静寂。




しばらくして、一人の大臣が進み出る。




「……恐れながら」




声を抑えている。




「処分が、軽すぎるかと存じます」




王は答えない。


視線も動かさない。


沈黙が落ちる。




やがて、大臣が言葉を継いだ。




「光焔の杖は、既にアリシアの手にあります」




一歩、踏み込む。




「もし彼女が、こちらに背を向ければ――」




言葉を切る。


その先を、言わない。




王は、わずかに目を閉じた。


そして――開く。




「……軽いかどうかは」




静かな声。




「戻ってから決まる」




それだけだった。




大臣は一瞬、息を止める。


そして、理解する。




「……なるほど」




深く、頭を下げた。


それ以上は、何も言わない。


玉座の間には、再び静寂が満ちた。




王は動かない。


ただ、遠くを見ている。




その視線の先にあるものを、誰も知らない。







 石造りの冷たい牢獄に、静寂が重く垂れこめていた。




 重い鉄扉がきしむ音とともに開かれ、宮廷騎士がレオニスを先導して薄暗い部屋へと案内した。無機質な石床、冷たい空気。レオニスはその場に立ち、静かに周囲を見渡した。




「こちらです、学院長」




 騎士は礼を尽くして言葉をかけた。しかしレオニスの返事は、静かだった。




「私はもう……学院長ではない」




 その声には、自らの過ちを抱えた男の重みがにじんでいた。騎士の表情に悔しさが漂い、言葉を失ったように黙り込む。そして気配を忍ばせるように、そっと牢の扉を閉めると、その重厚な音が無情にも響き渡った。




 しかし騎士は扉の前で足を止め、敬礼の手を額に当てたまま、言葉を紡いだ。




「学院長、必ずや再び、学院に戻られる日が来ますように。貴方の信念は、私たちにとっての道標です」




 その声は硬くも真剣で、失意の底にあるレオニスに対する深い敬意と、再び立ち上がってほしいと願う切実さが、にじんでいた。




 レオニスは黙ったまま視線を落とし、その手が重々しく拳を握る。




 宮廷騎士はもう一度深く頭を下げると、ゆっくりと身をひるがえし、暗く冷えた石の廊下を歩み始めた。その足音は地を這うように響き渡り、やがて静寂に消えた。




 レオニスは独り、冷え切った空間に残された。




 あの騎士の言葉が、胸の奥で静かに燃えていた。道標。自分がそう思われていたとは、知らなかった。いや、知ろうとしていなかったのかもしれない。




(アリシア……頼んだぞ)




 声には出なかった。出せなかった。それだけが、彼にできる最後のことだった。







学院長室は、静まり返っていた。


灯りは一つ。


机の上のロウソクだけが、細く揺れている。


その席に、男が座っていた。




グラハム。




机の上には、一枚の証書。


学院長の紋章。




指先で、ゆっくりと縁をなぞる。


音はない。


ただ、その動きだけがやけに正確だった。


やがて、手を止める。




「……あっけないものだ」




独り言。


小さく、落ちる。


椅子に深く腰を沈める。


視線は、まっすぐ前へ。


誰もいない空間を見ている。




「長すぎた」




それだけ言って、口を閉じる。




沈黙。




指先が、机の上の書類へ移る。


数枚の紙。


整然と並べられている。


一枚、引き寄せる。


そこには、新たな規則案。


権限の再編。


監視の強化。


選別基準の見直し。




グラハムは目を通し――


ためらいなく、署名した。


インクが滲む。




「これでいい」




感情はない。


ただ、確認するように。


ペンを置く。




視線が、わずかに窓へ向いた。


外は夜。


学院は静まり返っている。




「優秀である必要はない」




ぽつりと。




「従う者だけが、残ればいい」




それが結論だった。




再び、証書へと視線を落とす。


指で、軽く叩く。


乾いた音。


部屋には、何も響かない。




ただ静かに、


何かが変わっただけだった。







 アリシアは一人、旅立った。




 賢者のローブをまとい、光焔の杖を手に、光の粒子が舞う朝の道を歩いた。杖から伝わる魔力が感覚を鋭敏に研ぎ澄ませ、遠くにあるリリムの闇の気配をかすかに捉えていた。




(見つけた……)




 東の方向だった。森を越え、国境を越えた先。アルビオン王国へと続く方向。


 アリシアは足を止めず、ただ前へ進んだ。




 父の「行け」という言葉が、背中を押していた。




 リリムが、どこかにいる。


 それだけで、十分だった。




 深紅の髪が朝の風に揺れ、アリシアは歩き続けた。





(次回、陽光の乙女――)

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