光焔の杖
雨は止んでいた――だが、妹は消えたままだった。
アリシアは校舎裏に一人残され、妹が消えた場所を見つめていた。黒い霧の残滓がまだそこにある気がして、手を伸ばしかけて、止めた。触れるものは、もうない。
頬を伝うものが、雨なのか涙なのか、わからなかった。
リリムが言った言葉が、耳の奥に残っていた。
「自分がしたことが、わかるっているの?」
自分がしたこと。
アリシアは考えた。四人の男子生徒に制裁を頼んだという話は、身に覚えがなかった。絶対にそんなことはしていない。だが、リリムの目は本気だった。その目に嘘はなかった。
(誰かが、リリムを騙した)
そして、その嘘を信じるだけの土台が、すでにあった。長年かけて積み上げてきた、傷の土台が。
(私はリリムの分も頑張らなきゃと、無我夢中でやってきた。それが、リリムを苦しめていたのかもしれない)
優秀であることが、いつの間にか妹の重荷になっていた。父の期待に応えることが、妹を追い詰めていた。自分は何も悪いことをしていないつもりで、ずっと、そこにいた。
立ち止まるわけにはいかない、とアリシアは思った。リリムを救えるのは、今は自分だけだ。
*
学院の地下への階段を、アリシアは迷わず降りた。
湿った石の匂い。壁に沿って灯る松明の光。廊下の奥に、重厚な扉があった。二人の門番が立ち、アリシアの姿を見て目を見開いた。
「えっ、アリシア様?ど、どうされましたか、そんなお姿で?」
アリシアは濡れた髪を払い、静かに言った。
「緊急事態です。闇の魔力反応が確認されました。封印庫を開けてください」
門番たちは顔を見合わせる。
「そのような報告は受けておりません」
「では、手遅れになってから、責任を取るつもりですか?」
一歩踏み出す。視線が鋭く突き刺さる。
沈黙。
やがて一人が小さく息を吐いた。
「……開けよう」
扉が開く。
その瞬間――
二人の意識が途切れ、崩れ落ちた。
「……ごめんなさい」
アリシアはためらいなく地下の奥へ進んだ。
湿った空気が肌にまとわりつく。揺れる松明の影が、石壁に不気味な歪みを描いていた。
やがて、最奥。
石台の上に――それはあった。
淡い光を帯びた杖。
その周囲を、青白く光る水が静かに巡っている。
一歩踏み出した瞬間、鳥肌が立った。
(触れれば、焼かれる)
本能が警告する。
アリシアは目を閉じ、息を整えた。
「――」
低く、短い呪文。
水面が震え、光が揺らぐ。
やがて、張り詰めていた気配が、ふっとほどけた。
結界が消える。
アリシアは目を開け、迷いなく杖へと手を伸ばした。
指先が触れた瞬間――
「……っ!」
世界が、ひび割れた。
冷たい何かが、内側へ侵入してくる。
心臓を掴まれたような圧迫。呼吸が消える。
“拒絶”だった。
杖が、彼女を拒んでいる。
それでも、離さない。
「……く、っ……!」
意識が削られていく。
何かが、確実に“奪われている”。
記憶が一瞬、途切れた。
自分が誰かさえ、曖昧になる。
(それでも――)
脳裏に浮かぶのは、ただ一つ。
雨の中で見た、あの顔。
リリム。
(助けたい)
その思いだけが、かろうじて彼女を繋ぎ止める。
崩れそうになる膝を、無理やり支える。
「……離さない……!」
掠れた声。
その瞬間――
杖の奥で、何かが変わった。
圧力が、わずかに緩む。
赤い宝石が、脈打つように光を放つ。
応えるように、アリシアの瞳が燃え上がった。
拒絶が、受容へと変わる。
光が弾けた。
静寂。
荒い呼吸の中で、アリシアは立っていた。
手の中には、確かな重み。
その瞳と髪の毛は、深紅に染まっていた。
「……これでいい」
小さく、呟く。
その声に、迷いはなかった。
*
地下室を出ると、廊下に父が立っていた。
「お父さん……」
レオニスの顔には普段の冷徹さはなく、深い疲労と複雑な感情が混ざり合っていた。光焔の杖を手にしたアリシアの姿を見て、驚愕が走ったが、すぐに冷静を取り戻した。
「どういうつもりだ、アリシア?」
「リリムが闇の力に囚われているの。この杖が必要なの。行かせて、お父さん」
レオニスはしばらく黙っていた。廊下の静寂の中、松明の炎だけが揺れた。
「私はリリムの分も頑張らなきゃと、無我夢中でやってきた。それが、リリムを傷つけていたの」
「心の傷……」
レオニスはその言葉を、ゆっくりと噛み締めるように繰り返した。何かを思い出しているように。何かを認めるように。
「リリムに謝りたい。リリムを楽にしてやりたい。リリムを救えるのは、私だけなの。だから、お父さん……」
レオニスは深く息をつき、長い沈黙の後、静かに口を開いた。
「光焔の杖を手にしたお前を、私の力で止めることはできない……」
「アリシア、お前は本当に……その道を選ぶ覚悟があるのか?光焔の杖は、お前の命をむしばみ、魂をも削り取る。それでもお前は、リリムのために、その道を選ぶのか?」
「はい、お父さん。私にはそれしかできない。たとえこの命が縮んでも……リリムを救うためなら、私は後悔しません」
レオニスはしばらく立ち尽くしていた。やがてゆっくりと手を伸ばし、アリシアの肩にそっと置いた。
「アリシア、強くなったな」
その声は、これまでアリシアが聞いたことのない柔らかさを持っていた。
「行け、アリシア。必ず、リリムを連れ戻してこい」
「はい、行って参ります」
父の背中が廊下の奥に消えていくのを、アリシアは振り返らずに感じた。
*
玉座の間は、音を呑み込んだように静まり返っていた。
無数の灯火が石壁に揺れ、長い影を落とす。
その中央――玉座。
カイラス王は動かない。
ただ、視線だけがまっすぐに落ちている。
その先に、ひざまずく男がいた。
レオニス。
深く頭を垂れたまま、動かない。
やがて――
「申せ」
短い一言。
レオニスは顔を上げないまま、口を開いた。
「……娘リリムが闇に堕ち、四名の生徒が巻き込まれました」
静寂。
「アリシアが、光焔の杖を持ち、これを追っております」
わずかなざわめきが、空気の奥で揺れた。
「封印解除の術を教えたのは――私です」
完全な沈黙。
誰も動かない。
王の視線だけが、わずかに細まる。
レオニスは、そのまま額を床に落とした。
「すべては私の失策。弁明はいたしません」
一拍。
「……死罪を」
その言葉は、重く落ちた。
しばらくの間、何も起こらなかった。
灯火の揺れる音すら、聞こえそうな静けさ。
やがて王が、わずかに息を吐く。
「レオニス」
名を呼ぶ。
それだけで、場の空気が変わる。
「顔を上げよ」
レオニスはゆっくりと従った。
その目を、王は正面から受け止める。
「そなたの功を、余は知っておる」
間。
「だが――」
それ以上は続けない。
視線が、わずかに下がる。
判断は、すでに終わっていた。
「命は取らぬ」
短く。
「拘束せよ」
それだけだった。
左右に控えていた騎士が、同時に動く。
レオニスは抵抗しない。
一度だけ、深く頭を下げた。
「……御意」
立ち上がる。
そのまま、連行されていく。
足音が遠ざかり――やがて消えた。
再び、静寂。
しばらくして、一人の大臣が進み出る。
「……恐れながら」
声を抑えている。
「処分が、軽すぎるかと存じます」
王は答えない。
視線も動かさない。
沈黙が落ちる。
やがて、大臣が言葉を継いだ。
「光焔の杖は、既にアリシアの手にあります」
一歩、踏み込む。
「もし彼女が、こちらに背を向ければ――」
言葉を切る。
その先を、言わない。
王は、わずかに目を閉じた。
そして――開く。
「……軽いかどうかは」
静かな声。
「戻ってから決まる」
それだけだった。
大臣は一瞬、息を止める。
そして、理解する。
「……なるほど」
深く、頭を下げた。
それ以上は、何も言わない。
玉座の間には、再び静寂が満ちた。
王は動かない。
ただ、遠くを見ている。
その視線の先にあるものを、誰も知らない。
*
石造りの冷たい牢獄に、静寂が重く垂れこめていた。
重い鉄扉がきしむ音とともに開かれ、宮廷騎士がレオニスを先導して薄暗い部屋へと案内した。無機質な石床、冷たい空気。レオニスはその場に立ち、静かに周囲を見渡した。
「こちらです、学院長」
騎士は礼を尽くして言葉をかけた。しかしレオニスの返事は、静かだった。
「私はもう……学院長ではない」
その声には、自らの過ちを抱えた男の重みがにじんでいた。騎士の表情に悔しさが漂い、言葉を失ったように黙り込む。そして気配を忍ばせるように、そっと牢の扉を閉めると、その重厚な音が無情にも響き渡った。
しかし騎士は扉の前で足を止め、敬礼の手を額に当てたまま、言葉を紡いだ。
「学院長、必ずや再び、学院に戻られる日が来ますように。貴方の信念は、私たちにとっての道標です」
その声は硬くも真剣で、失意の底にあるレオニスに対する深い敬意と、再び立ち上がってほしいと願う切実さが、にじんでいた。
レオニスは黙ったまま視線を落とし、その手が重々しく拳を握る。
宮廷騎士はもう一度深く頭を下げると、ゆっくりと身をひるがえし、暗く冷えた石の廊下を歩み始めた。その足音は地を這うように響き渡り、やがて静寂に消えた。
レオニスは独り、冷え切った空間に残された。
あの騎士の言葉が、胸の奥で静かに燃えていた。道標。自分がそう思われていたとは、知らなかった。いや、知ろうとしていなかったのかもしれない。
(アリシア……頼んだぞ)
声には出なかった。出せなかった。それだけが、彼にできる最後のことだった。
*
学院長室は、静まり返っていた。
灯りは一つ。
机の上のロウソクだけが、細く揺れている。
その席に、男が座っていた。
グラハム。
机の上には、一枚の証書。
学院長の紋章。
指先で、ゆっくりと縁をなぞる。
音はない。
ただ、その動きだけがやけに正確だった。
やがて、手を止める。
「……あっけないものだ」
独り言。
小さく、落ちる。
椅子に深く腰を沈める。
視線は、まっすぐ前へ。
誰もいない空間を見ている。
「長すぎた」
それだけ言って、口を閉じる。
沈黙。
指先が、机の上の書類へ移る。
数枚の紙。
整然と並べられている。
一枚、引き寄せる。
そこには、新たな規則案。
権限の再編。
監視の強化。
選別基準の見直し。
グラハムは目を通し――
ためらいなく、署名した。
インクが滲む。
「これでいい」
感情はない。
ただ、確認するように。
ペンを置く。
視線が、わずかに窓へ向いた。
外は夜。
学院は静まり返っている。
「優秀である必要はない」
ぽつりと。
「従う者だけが、残ればいい」
それが結論だった。
再び、証書へと視線を落とす。
指で、軽く叩く。
乾いた音。
部屋には、何も響かない。
ただ静かに、
何かが変わっただけだった。
*
アリシアは一人、旅立った。
賢者のローブをまとい、光焔の杖を手に、光の粒子が舞う朝の道を歩いた。杖から伝わる魔力が感覚を鋭敏に研ぎ澄ませ、遠くにあるリリムの闇の気配をかすかに捉えていた。
(見つけた……)
東の方向だった。森を越え、国境を越えた先。アルビオン王国へと続く方向。
アリシアは足を止めず、ただ前へ進んだ。
父の「行け」という言葉が、背中を押していた。
リリムが、どこかにいる。
それだけで、十分だった。
深紅の髪が朝の風に揺れ、アリシアは歩き続けた。
(次回、陽光の乙女――)




